「……碧‼ 大丈夫か!」
久しぶりに聞いた声と、少しの衝撃で碧は我に返る。
肩で息をしながら碧は辺りを見渡す。ここは岩壁が囲い、大切な人がいる空間だ。
「私……」
「なにがあったんじゃ! まさか――」
仙人が狼狽するが、碧の周りを回る光を見て、安心したように息を吐く。
「それならいったい、なにがあったんじゃ」
碧は自分の力で立ち上がる。眼は左右両方あるし、歩いても足を刺すような痛みは無い。元の世界に戻って来たのだ。
翠の『怒』の感情を解放することには成功した。ただ――。
碧は恐る恐る、愛する人の眠る場所まで向かう。翠に近づくと、碧の周りを回っていた光が、翠の胸に吸い込まれた。
あの世界のスイの見た目は、前の世界の翠とは違い、今目の前にいる翠と色が同じだ。本気で怒られたのならまだしも、翠に殺意を向けられるなんて思いもしなかった。
今も眠っている翠が今すぐ目を覚まして、殺意に顔を歪めて自分を殺しにくるかもしれない。そんなことを考えてしまう程、碧に与えた影響は大きかった。
だけどそれを仙人に言おうとは思わず、他のことを聞いて忘れようとした。
無意識に翠の近くから離れると、水瓶の近くまでやって来た碧がその単語を口にする。
「地獄」
「どこでそれを⁉」
「なにか知ってるの!」
地獄という単語への反応から察するに、仙人はなにかを知っているのかもしれない。翠の殺意から必死に逃れようと、碧は仙人に詰め寄る。
「地獄というものは罪を犯した者が死後向かう場所じゃ」
慌てて言い繕う仙人から手を離して、なにも誤魔化すなという目を向けながら、ゆっくりと真剣に碧は語り出す。
「それは知ってるよ。ねえ聞いて、さっきまでいた世界でね、私地獄に行ったの」
「それは『怒』の世界が、地獄のような世界じゃった、の間違いじゃないのか?」
「違う、『怒』の世界はなんか人魚になってた。その世界で私、意識を失ったの、そして気がつけば地獄にいたって訳、なんか夢の中でって感じだったけど」
碧の説明を聞いて、仙人は詳しく聞きたいような、これ以上は聞きたくないといったように表情を動かしている。仙人にどのような葛藤があるのかは分からないが、碧は一つでも多く、地獄の手がかりが欲しかった。
「地獄と言っても、そこが本当に地獄かどうかは分からん。本当に夢じゃったのかもしれん」
「それはそうなんだけど……、でもあの怖さは地獄としか言えないよ。鬼もいたし、なんか悲鳴も聞こえたし」
「碧は怖がりじゃろう? となれば、そこは地獄なんかじゃないじゃろう」
仙人は、この話はもう終わりじゃ、と言って話を終わらせて背を向ける。
さっきの反応からして、仙人は地獄のことについてなにか知っているはずだ。だからここで引き下がる気は碧には無い。
「本当はなにか知ってるんでしょ、教えてよ。仙人が知っている通り、私は怖がりなの。次の世界でも同じようなことがあったら私嫌なの」
そう言うと仙人は観念したように息を吐く。そのまま背を向けて言う。
「まだ言うつもりは無かったんじゃが、仕方がないのう……」
ようやく話してくれる気になったらしい、碧は唇を舐める。
「最初、ワシは感情と魂の欠片、合わせて五つ必要じゃと言ったのを覚えておるか?」
翠の喜怒哀楽と魂の一部を手に入れるため、それぞれの感情が創り出した世界に行って、感情を解放しているのだ。
「うん」
「喜怒哀楽、その感情は今までと同じで、その感情が創り出した世界に行くことで手に入れることができるんじゃが……欠けた魂、それだけは違うんじゃよ」
「まさか……」
「欠けた魂がある場所、そこは地獄なんじゃよ」
仙人の言葉に息を呑む碧。
ということは、感情が世界を創って、その世界で翠がいるように、地獄にも翠がいるのではないか。
「じゃあ地獄にも翠が……‼」
もし本当に翠がいるのなら、感情の世界に行っている暇なんて無い。先にあの恐ろしい地獄へ行って翠を助けなければならない。
あの時地獄へ行ってしまったのは、もしかすると翠が助けを求めていたからではないのか。
「いや、そうはならないんじゃ。感情の世界で翠がいるのは、そこが感情の世界だからじゃよ、この世界とはまた違う場所じゃ。それに対して地獄は、この世界にあるんじゃ」
そう言われて碧は考える。仙人が言っていることの意味を。
感情の世界はこの世界とは違う、それは感情の世界に行った碧なら分かる。あの世界では、その世界で生きてきた碧と翠がいる、碧はその世界の碧に成り代わっているようなものだ。
「翠は今この場にいるじゃろ? じゃから地獄にあるのは翠の魂だけなんじゃ」
「じゃあ……安全なの?」
魂だけだからといっても安全なのだろうか、感情の欠片があの小さな光だ。恐らく魂の欠片もあのような小さな光なのだろう。その小さな魂の欠片だけが地獄にある。あの恐ろしい鬼に見つかり、金棒で叩き潰されているかもしれないのだ。
「……安全じゃ」
そう言う仙人の背中は、とても小さく、触れればすぐに壊れてしまいそうだった。
そこで碧は思い出す。確か最初に碧が、なぜここまで詳しいのかを聞いたことがある。それに対しての仙人の返答が、経験したことある、ということだった。
そして恐らく、仙人は誰かの感情を集めていて、そこで失敗してしまった経験があるのだ。
あの時、仙人がなにかの感情を必死に押さえつけているかのように感じた碧はそれ以上なにも聞けなかったが、今この状況なら踏み込んで聞くことができる気がした。
「ねえ……仙人は失敗したんだよね? かつて、私みたいな状況に陥って。私が翠を救うために手助けしてくれるって言ったでしょ? だから、全部教えてほしい」
これで引き下がってくれると思っていた仙人、まさか碧がまだ踏み込んで来るとは思わず、答えに窮する。
仙人とて、碧の邪魔をするつもりは無いし、むしろ力になりたいとも思っている。それでも詳しい話をしなかったのは、特に碧には関係無いと思っていたからだ。しかし碧の話から、もう碧は無関係ではいられないのではないかとも考えてしまう。
碧と同じように、仙人もまた、碧の話を詳しく聞きたいと思っているのだ。
かなりの時間悩んで――やがて、仙人は振り向く、その目に涙を浮かべて。
「分かった……少し、ワシの話を聞いてくれるかの?」
震える声でそういう仙人に、碧は頷いて続きを促す。