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第44話

「もう碧も分かっているじゃろうが、ワシも、今の碧みたいに、大切な人の失った感情を手に入れるため、感情が創り出した世界へ行っていたんじゃ……」


 遠い過去の、蓋をしていた記憶をゆっくりと開いていく。


「喜怒哀楽、四つの感情の欠片集め、最初は順調だったんじゃが、『哀』の世界、次の碧が行く世界での、失敗したんじゃ」


 感情の解放に失敗すると、その感情は消えてしまう。もう二度と戻らない。


 仙人が話す間、碧はただ黙って話を聞いている。途中で口を挟むこともせず、話を聞きながら考えることもせず、仙人の話を一言一句聞き漏らすまいと耳を立てる。


「失敗したんじゃが、その時のワシはなんとかなると思っていたんじゃ。次の『楽』の世界に行くことができたしの。そして次の世界は成功した。四つの感情の内、三つの感情を手に入れることができたという訳じゃ。三つの感情があの子の中に戻ったことになる、一つ欠けてはいるがの」


 そこまで話し、仙人は一息つく。数回深呼吸をして再び始める。


「その時じゃった、いきなり水瓶の水が沸騰したように音を立て、それに驚いたワシは水瓶を見たんじゃ。すると、血のように真っ赤な水がワシとあの子を飲み込んだ。そして、気がつけばワシは地獄にいたんじゃ……最初は、全ての感情を手に入れることができなかったからじゃと思ったんじゃが……しかしのう、それが違ったんじゃ……」


 そこまで言って、仙人は黙りこくる。


 どれだけ待ってもなにも言わない。仙人もなにかを言おうとしているが、口を開くだけで声が出ない。冷や汗をびっしょりとかいて、瞳を震えさせる。


 やがてか細い声で――。


「すまんのう……、全て教えると言っておきながら……、怖くて……声が出ないんじゃ……」


 これ以上はもう話すことはできないと、止まらない汗を拭っている。


 碧が聞きたいのはこの先なのだ。その前に話が終わってしまい、少しだけムッとしてしまったが、碧だってあの地獄に行ったのだ。仙人がこうなってしまっても責めることはできない。


「ただ、地獄にある翠の魂の欠片は、まだ安全だというのは信じてくれ」

「……分かった」


 地獄についての詳しい話は聞けなかったが、翠の魂の欠片が安全だということが知れただけで収穫はある。


 それに今の話から、地獄へ行くにはどちらにせよ、四つの感情の世界を巡らなければならないということが分かった。だから今碧ができることは、引き続き、翠の感情の創り出した世界に行くことだけだ。


 だけど碧はすぐに次の世界に行こうとはせずに、蹲る仙人の下へ向かう。


「ありがと、教えてくれて」

「いいんじゃよ……恐らく、いずれ話さねばならないことじゃ」


 いくらか落ち着きを取り戻した仙人。杖を支えに立ち上がると、今度は気を遣うように碧に語りかける。


「ワシはもう大丈夫じゃ。碧の方こそ、大丈夫か?」

「うっ……それには触れないでよ」


 碧が地獄の話を仙人に聞いた理由は、単純に知りたかったというのもあるが、さっきの世界での、スイの殺意から気を逸らしたかったというのもある。


「ワシは話したんじゃぞ、今度は碧が話す番じゃと思うんじゃが。それに、一人で抱え込むのはあまり良いこととは思えん。向き合うことが大切じゃよ」

「そうだけど……」


 仙人の言う通り、翠の殺意から逃げようとせず、向き合わなければならない。現に碧は翠の顔を見ることができない。


 あの時の状況全て吐き出し、そのようになった理由を精査する。そして、翠の感情と向き合う。


 五秒程固く目を閉じた碧は、ゆっくりと目を開ける。


 そして、『怒』の世界での出来事、その全てを語り出した。


「――なるほどのう……普段の二人を知っていると、碧の気持ちも頷ける」

「でしょ? 本っ当に腹たったの! なんなのあの男! それにスイも! あんな表情私も見たことない!」


 そして碧は怒り狂っていた。


 話は途中で中断され、今は碧が話したことによりぶり返した怒りを発散している最中だ。


 その様子に、仙人はホッホッホと笑う。


「感情の世界の翠は、表情が豊かなんじゃな」

「そんな呑気なこと言わないで! ああもう! 私に向けて欲しかったあああ! でもあの男殺した時は嬉しかったな……」


 いつも通り、感情がコロコロ変わる碧に戻った。しかし、向き合う場所はそこでは無い。肝心なのはその次だ。


「でもさ……、そしたら翠は怒ったの、心の底から。成功したって思ったよ。あの世界の翠って、優しかったし、今思えば感情に蓋をしがちだったし、でも……」


 そこで言葉を区切る。怯えるように、未だ目覚めない翠を見て、肩を抱いて続ける。


「その怒りが、殺意に変わったの……」


 喜怒哀楽の乏しい翠が向けてくる殺意、スイが自分を殺そうとした。翠とスイは同一人物でありながら別人だ。だからあの世界のスイが碧に殺意を向けても、この世界の翠は碧に殺意は向けないし抱かないはず。


「怖くて、逃げた。でも、スイが私の胸にナイフを突き刺す瞬間は見てた。刺さる瞬間終わったからよかったけど、あのまま刺さってたら……」

「それは、そういう世界じゃったんじゃよ」

「そうだとしても! 翠から向けられる殺意が怖いの!」

「この世界の翠がそうなると? 碧に殺意を向けると思ってしまったのか」

「思ってな……くわない……かな。もしかすると……なにかの拍子に――とか、考えちゃう」


 一度芽生えた疑念は消えること無い。それを無くすには、根ごと焼き尽くすしかないのだが、今はそれをする手立てが無い。


「それなら、翠が目覚めた後に確かめるしかないじゃろう」


 怖くても、翠を救いたい気持ちは変わらない。結局、どれだけ怖くても、碧は翠を救うために感情の世界へ行くのだ。


 言葉で吐き出したことにより、いくらか心に余裕ができた碧は、大きく深呼吸をして頷く。


「少し楽になった、ありがと」

「お互い様じゃよ」


 微笑んだ仙人は、碧にもう行くのかと聞く。それに答えるように碧は翠の下へ向かう。


「……行ってきます」


 まだ怖い、それでも翠を愛する気持ちは変わらない。世界を超えても翠を愛し続けると誓ったのだ。


 碧は三度水瓶の前に立つ。次に向かうのは『哀』の世界。どんな世界なのか分からないが、やることは一つだ。


「じゃっ」

「気をつけるんじゃぞ」


 軽く手を振って、碧は水瓶に飛び込むのだった。

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