「最悪……」
水瓶に飛び込み、『哀』の世界へやって来た碧は、いきなり声を漏らす。
この世界に存在していたアオの記憶が、今までで一番最悪な状況だったからだ。
どうやらこの世界でのアオは、盗賊団の副団長らしい。それは二番目で、一番の問題はこの世界の価値観なのだ。
アオとしての記憶を手繰り寄せると、この世界ではどうやら悪魔憑きと呼ばれる者がいるらしい。その悪魔憑きというのは、まるで悪魔が憑いたかのように人が変わるということ。その基準が――。
「思春期で悪魔憑きってどういうこと……」
この世界で最も多い人が変わるとは、ある年齢を境に性格が変わってしまうことらしい。例えば親に反抗したり、大人数で群れて悪さに勤しんだりなど。
そして悪魔憑きとなった者はどこかへ連れて行かれる。どこに連れて行かれるのかは知らないが、碧はなんとなく察しがついていた。
(嫌な予感が……)
ここは翠の感情が創った世界だ。その世界での価値観、十中八九この価値観がこの世界でスイの感情を解放するのに関わってくるだろう。
それにもう一つ厄介なのが、アオがこの盗賊団に所属していることだ。メンバーはアオを入れて二十八人。そんなグループの副団長をやっているし、盗賊団の結成経緯が経緯だ。スイを探すために自由に動くことが難しくなるはずだ。
この人数をスイの捜索に充てることができればかなり役に立つのだろうが、生憎頼るつもりは無い。
「最悪……」
出だしから躓いている。
今アオは盗賊団の拠点として使っている洞窟にいる。
アリの巣のように、入口から少し進むと数多くの部屋が分かれてある。
幸いにも、副団長ということで一人部屋を与えられているため、こんな夜中に起きて状況整理していても誰にも咎められることは無い。
状況整理をしたところでどうすればいいのか分からないのだが――。
『碧よ』
突如頭の中に響いた、聞き馴染みのある声にアオは固まる。
疲れているのかとこめかみを押してみる。
『聞こえているか碧よ』
「んん?」
聞き間違えでは無い、どうやら本当に直接脳内に話しかけてきているみたいだ。
『ワシはじゃよ、もしやと思ってのお』
「待って訳わかんない。まだ状況整理もできてないのに!」
『すまんのう、ワシも驚いておる』
なぜか頭の中で聞こえる仙人の声。
それを無視しながら、アオはとりあえず落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
整理すれば問題無いこの世界のことよりも、完全なイレギュラーである仙人の対処をしようと優先順位をつける。
脳内に直接話しかけるということは仙術だろう。この仙術なら、仙術全般が苦手な碧でも集中すれば使える。
(……で。なんで仙術を使えるの?)
まずそこから切り込む。『喜』『怒』の世界では、碧は仙術を使うことができなかった。元々使う習慣の無い碧だったから使えないという訳ではなく、そもそもそういった概念というものが無かったのだ。
『む、碧も使えるのか』
(使えないと反応できないでしょ。でもまあ、いつもと同じでかなり集中してるけど)
『相変わらずじゃのう』
(そんなことはどうでもいいから、なんで使えるの?)
『この世界が、元の世界と近いものがあるんじゃないかと思うんじゃ』
(仙術が存在してるってこと?)
『仙術かどうかは分からんが、その類のものがあると考えるのが自然じゃのう』
仙術が使える世界ということは確定している。ただ、仙術やそういった類のものが存在している世界なら、スイを探す難易度が下がるかもしれないし、上がるかもしれない。
『仙術が使える理由なんてものは気にせんでいい。そんな理由よりも、スイの感情を解放することの方が大切じゃからのう』
(……確かに)
仙人の言う通り、この世界で仙術が使える理由なんてどうでもいい。ラッキー程度に留めておく。
ここは翠の感情が創った世界なのだ。ここがどんな世界でも、碧のすることはただ一つ、翠の感情を解放することだけだ。
『ワシはこっちの世界からできることをするつもりじゃ』
(それは助かる。ありがとう)
『それで、そっちは今どういった状況なんじゃ? こうして会話をする暇があるということは、トラブルには巻き込まれていないと思うんじゃが……』
ということはつまり、元の世界からはこの世界のことは分からないということだ。あくまでできるのは会話のみ。
(それは――)
アオが今現在置かれている状況を仙人に説明する。
アオとして生きてた時の記憶、この世界の価値観などを聞いた仙人はどうしたものかと唸るだけ。この世界にいるアオだけでこの状況を打開しなければならないのだ。
――そんな中、仙人が出した答え。
『ワシができそうなのは、仙術を教えるぐらいじゃのう……』
仙人が言うには、今のアオの状況は、この世界に来たのが仙人自身でもどうにでもなるらしく、もしそれが翠なら余裕で解決できるらしい。
仙術の扱いが苦手なアオだからこそ、今この状況に頭を抱えることになったのだ。
(教えるって……わたし知ってるのは知ってるんだよ? ただ苦手なだけ)
『ほう……それじゃあ、今この状況を打開するためにはどういった術を使えばいいのか、答えてみるんじゃ』
(姿を消せばいいんでしょ)
『正解じゃ。元の世界では使いどころは殆ど無いが、この世界、今の状況下ではピッタリの術じゃろう』
空中浮遊はなんとかできる、今やっている脳内での会話も集中すればできる。しかし、それらの仙術を碧が使えるのは動いていないことが前提だ。
つまり、姿を消す術は使えても、消したまま動くということはできない。
碧はこういった、直接身体に影響を及ぼす仙術が特に苦手なのだ。
(できるけど……やっぱ動けない‼)
試しにやってみたが、動いたところで術が解けてしまう。
『碧、落ち着くんじゃ。仙術を使うにあたって、最も大切なのは心を落ち着けることじゃ』
(知ってるしやってるけど無理!)
碧が仙術の扱いが苦手な理由は、その仙女とは思えない程の感情の起伏があることだ。
身体や自然に影響を及ぼす仙術を使いこなすには、力の繊細なコントロールが必要だ。感情の起伏が激しい碧はそれができない。だから動いてしまうと姿を消すことができないのだ。