「……
「体調ですか? いつもどおりですよ」
「なら、よいのですが……」
ある日、登校する花梨を自宅まで迎えに行った朝のことだ。
通学用の鞄を提げて玄関先までやってきた花梨をひと目見て、和紗は漠然とした違和感をおぼえた。
首をかしげる花梨にじっと目をこらしたとき、ゆらりと、なにかが和紗の視界をさえぎる。
(なに……黒い、もや……?)
まばたきのうちに、『それ』は跡形もなく消え去っていた。
見まちがいだろうか。それにしては、やけに胸さわぎがする。
それから注意深く花梨の観察を続けた和紗は、重大な事実に気がつく。
(まずい……酷くなってる!)
次の日、また次の日には、謎の黒いもやがたしかな輪郭をもって花梨にまとわりつくようになっていたのだ。
(あの黒いもや、どこかで見覚えが……そうだわ!)
謎の黒いもやの正体──それをさぐるうちに、和紗は以前にも似たようなモノを目にしたことを思い出す。
(あれはたしか、花梨さまと街でぶつかってしまったとき……)
まだ花梨と知り合う前、彼女が中学生のとき。あのときはたがいにぶつかってしまった謝罪程度の会話しか交わしていない。
だが、あのときのことを花梨は忘れてしまっても、和紗は覚えている。
あわただしく立ち去る花梨に、黒いもやのようなものがまとわりついていたように見えたから。
(偶然、ではないわよね。あのとき花梨さまは、とても急いでいらした。学校の文化祭の準備が間に合うかどうかと…………文化祭?)
和紗が花梨と出会ったのは、5年前だ。
5年前、文化祭の時期──ちょうどその時期に、大きな事件が起きていたはずだ。
花梨自身の口から聞いたわけではないけれど、和紗はそれを知っている。
(花梨さまが、先輩の男子生徒から強姦未遂に遭った事件……!)
戦慄した。これが偶然だと、和紗はとうてい思えなかった。
衝撃的な事件の直前に現れた、黒いもやの意味。これはつまり──
「──花梨さまの身に、危険が迫っている!」
ぐずぐずしている時間はない。どうにかしなければ。
思案にふけっていた和紗は、気づかなかった。
きびすを返したその先に、人影があったことに。
「──こんにちは。はじめまして」
ほほ笑みを浮かべた青年がたたずんでいる。
花梨が通う学園のブレザーを身にまとった青年だ。
「驚いたな。現代にも霊力をもつ人間がいるだなんて」
青年は意味のわからない独り言を、和紗に向けて放つ。
和紗は虫のしらせのようなものを、ピリ……という緊張感として察知した。
「……あなたは?」
身がまえる和紗へ、青年はにっこりと笑みを深める。
「花梨さんのクラスメイトです。といっても、あまり意味がないですけどね。なぜならあなたは、今日ここで起きたことを忘れてしまうから」
「なにを……!」
「あぁ、前置きはこのあたりにしておきましょう」
そこまで言って、青年は和紗を見つめる。
和紗はゾッと寒気を覚えた。青年はたしかにほほ笑んでいるのに、そのまなざしは、芯から冷めたものだったのだ。
「あなたのような存在は、この先邪魔になる──ですから、消してしまいましょうか」
人々が行き交う街中の雑踏において、やけに青年の声が鮮明に聞こえたあと。
和紗の意識は、ぷつりととぎれてしまった。