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第2話

「僕は、西浦君の手術に入っていた。第一執刀医が航太郎先生、第二執刀医が黒沢先生。そして、それぞれ僕と鷹野が入った」


木村先生は、まるで記憶をなぞるように、淡々と語り始めた。颯太は、彼の口からようやく手術の詳細が語られ始めたことに、身を固くした。確かに、手帳にもその名前が記されていた。


「手術は予定通り進んだ。航太郎先生の技術はやはり超一流だった。西浦君もよく頑張っていた」


木村先生の声に、わずかに熱がこもる。


「西浦君は、術前の状態がかなり厳しかった。心拍出量は低下し、肺動脈狭窄も強く、術中の血行動態の維持が最大の課題だった。でも……航太郎先生は、それを見事に乗り越えた。彼は的確に、迅速に、そして丁寧に手術を進めた」


一瞬の沈黙。


「……手術自体は、成功だったんですか?」


颯太は思わず尋ねた。木村先生は、ふっと息を吐いた。


「……ああ。少なくとも、手術室を出るまでは」


そう言うと、木村先生はグラスを持ち上げ、ビールをぐっと飲み干した。そして、ゆっくりとため息をついた。


「手術が終わり、その日の当直は黒沢先生と鷹野だった。航太郎先生と僕は、手術後、しばらくして帰宅した」


僕は、帰宅した。その言葉が、妙に重く感じられた。その瞬間、颯太の横でじっと息をひそめるように立っていた真田先生が、わずかにゆらめくのがわかった。彼は、何も言わない。

けれど、その微かな動きが、彼の感情の揺らぎを物語っていた。

先生も、思い出しているのだろう。この日、何が起こったのかを。兄がどんなふうに過ごしていたのかを。


「……手術後は、順調だったんですか?」


颯太の問いに、木村先生は少しだけ考え込んだ。


「術直後の血行動態は比較的安定していた。ただ、右心室の機能低下が懸念されたから、ドブタミンとミルリノンを投与して、慎重に管理していた。肺高血圧の影響で、肺血流のコントロールも難しかった」


「……では、なぜ急変したんですか?」


「……」


木村先生は、その言葉にはすぐに答えなかった。ただ、ゆっくりとグラスを置き、指先でテーブルを軽くなぞった。


「その答えを出すのは……難しい」


「……?」


木村先生は、その言葉にはすぐに答えなかった。まるで、記憶の糸をたぐり寄せるように慎重に言葉を選びながら、静かに話し始めた。


「航太郎先生が帰ったのが20時ごろ。僕が帰ったのは20時半ごろだった。その時点では特に変化はなかった。僕が帰るときも、様子を見に行ったから、それは間違いない」


その言葉に、颯太の手が無意識に強く握られた。20時半の時点では、異常はなかった。

では、その後に何があったのか?


「……それから?」


「そして……僕は翌日の昼から勤務だったから、11時ごろに出勤したんだ」


木村先生は、グラスの水滴が落ちるのを見つめるように、少し間を空ける。


「航太郎先生は、朝から出勤していたと思う」


木村先生が深く息をつく。


「僕が出勤した時には、もう西浦君は亡くなってた。」


短く、けれど重く響くその言葉に、リビングの空気が一気に冷えたような気がした。


「……」


颯太の心臓が、嫌な音を立てる。真田先生の気配が、一瞬ふるえる。

11時には、すでに手遅れだった。


「……それまでの間に、何があったんですか?」


「……」


木村先生は、再び指先でテーブルをなぞった。


「それを話す前に……」


ゆっくりと視線を上げる。そして、グラスを軽く回しながら、ぽつりと言った。


「君は、何を知っている?」


探られている。


「……」


颯太は、息を整えた。木村先生は、駆け引きは嫌いだと言った。それが本当なら、今話してくれたことには裏がないはずだ。では、自分も正面から向き合うべきだろうか。木村先生は「君は何を知っている?」と聞いた。その問いかけに対する答えは、一つしかなかった。

颯太は、静かにバッグの中からそれを取り出した。父の手帳。その表紙の革は、何度もめくられたせいか、指に馴染むような独特の手触りがあった。

颯太は、無言のままそれを木村先生の前に差し出した。


「……?」


木村先生の手が、一瞬止まった。まるで、それが何であるのか、本能的に察したようだった。そして、次の瞬間、表情が変わる。


「……これは……」


木村先生は、じっと手帳を見つめ、今まで見たこともない表情を浮かべていた。驚きというより、言葉を失うような沈黙。まるで、長年心の奥に閉じ込めていた記憶の扉が、強引に開かれたような、そんな顔だった。


「見ていいのかい?」


そう問いかける木村先生の声は、わずかにかすれていた。颯太は、ゆっくりと頷いた。


「はい」


木村先生は、一瞬躊躇したあと、静かに手帳を開いた。ページがめくられていく。その指先は、いつもの余裕ある木村先生とは違い、どこか慎重で、戸惑いすら感じられた。

一ページずつ、ゆっくりと目を通していく。そのたびに、木村先生の表情が、少しずつ変わっていった。この手帳に記された事実が、彼にどう響いているのか。それを見極めるために、颯太は静かに、彼の動きを見つめ続けた。


手帳をめくる木村先生の指が、次のページでぴたりと止まった。

目を見開き、そこに書かれた言葉をじっと見つめたまま、動かない。それは、黒く塗りつぶしたページだったのだろう。


ぽろっ

一滴の涙が、手帳の紙の上に落ちた。


「……うう……」


堪えきれなくなったように、木村先生の肩が震える。そして…


「航太郎先生……」


木村先生は、崩れ落ちるように泣き始めた。ビールを片手に、いつも穏やかに後輩を見守っていたあの余裕ある先輩医師の姿は、どこにもなかった。

そこにいるのは、後悔に押しつぶされそうな、一人の人間だった。


「木村先生……」


颯太は思わず席を立ち、震える彼の背中をそっとさする。


「僕が残っていたら……!」


木村先生が、声を震わせながら言った。


「僕が術後管理をしていたら、こんなことにはならなかったかもしれない……!」


「……!」


「神崎君!」


木村先生が、頬を涙で濡らしながら、震える手で颯太の腕を掴んだ。


「航太郎先生を救えなくて、すまない……!」


「……」


「間に合わなくて……すまない……!」


木村先生は、ただ泣き続けた。手帳を握りしめたまま、深い後悔の中に沈んでいた。颯太は、その言葉の重みを受け止めながら、ただ静かに木村先生の背をさすり続けた。

木村先生は、涙を流したまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

言葉を絞り出すように、記憶の断片をひとつずつ拾い上げるように。


「……術後管理を行っていたのは、黒沢先生と鷹野だった」


「……やっぱり……」


颯太は、静かに木村先生の言葉を聞きながら、深く息を吸った。


「さっきも話したけど、航太郎先生が帰宅し、僕も20時半ごろに病院を出た。その後の術後管理は、黒沢先生と鷹野が担当していた。……でも、西浦君の状態が急変したのは、その申し送りに記録があったんだ」


木村先生は、震える手でグラスを握りしめながら、続けた。


「急変したのは、深夜2時。」


「……2時?」


「申し送りには、患者の血圧が低下、酸素飽和度が急激に下がったと記載されていた。」


木村先生の言葉に、颯太は息をのんだ。


「急変直後に行われた処置は?」


「僕が知っている記録によれば……」


木村先生は一度目を閉じ、慎重に言葉を選びながら続けた。


「人工呼吸管理の設定を変更。心肺蘇生を試みるも、午前3時10分、死亡確認。」


「……!」


記録として残されていたのは、これだけだった。


「心電図モニターの記録や、詳細な経過記録は?」


「……なかった」


「……え?」


「西浦君の術後の記録は、どこにもなかったんだ。」


「……っ!!」


颯太の背筋に、悪寒が走る。


「記録が、ない……?」


「そうだ。通常、術後管理では分単位で経過を記録する。どの時間に何を投与したのか、どんな変化があったのか……それが患者の生命を救う鍵になるから。それなのに、西浦君の記録だけが、完全に抜け落ちていた。」


「……そんな……」


「僕は、その記録を探した。航太郎先生の疑惑を晴らすために、必死になって探した。……でも、何も見つからなかった」


父の疑惑を晴らすために。それは、つまり。


「……先生は、父が責任を押し付けられていることを知っていたんですね?」


木村先生は、沈黙した。その沈黙が、答えだった。


「父は、自分が医療ミスをしたとは、最後まで言いませんでした。でも、その疑惑を払拭する証拠がなかったんですね。だから、誰もが父がミスをしたのかもしれないと考えた……と」


「……そうだね」


「でも、本当は……記録が意図的に消されていた可能性がある、ということですね?」


「……」


木村先生は、唇を噛みしめながら、静かに頷いた。


「僕は、探した。でも、何も見つけられなかった。……そして、航太郎先生は亡くなってしまった」


「……っ!!」


言葉が詰まる。


「間に合わなかったんだ。僕は、何もできなかった……。だから、すまない……神崎君……まだ君も中学生だったのに…」


木村先生は、再び俯き、肩を震わせた。この人も、長い間、罪の意識を抱えながら生きてきたのだ。だが、まだ終わっていない。


「……先生、これからでも、探すことはできるはずです」


颯太は、静かに拳を握った。


「記録は消されていたかもしれません。でも、他のところに手がかりが残っている可能性はあると思います」


「……まだ、間に合うかな?」


木村先生は、涙を拭いながら、かすかに呟いた。


「はい。間に合わせます。……僕が、父の疑惑を晴らします」


ここからが、本当の真相究明の始まりだ。


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