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第3話

翌日、朝早くに出勤した颯太は、医局の保管庫に向かった。ここには、15年前までの患者のカルテが紙の記録として残されている。西浦君の手術はそれよりも前のことだが、もしかしたら何か残っているかもしれない。

ほんの僅かな希望。でも、手がかりがない今、できることは一つずつ試していくしかない。もちろん、木村先生もこのことを知っている。

昨夜の出来事を経て、木村先生は「もし見つかるものがあれば、何か力になりたい」と言ってくれた。そして、今。颯太は、保管庫の奥深く、積み重なった紙カルテの中から西浦君に関する情報を探していた。

時間を忘れ、すみずみまで探す。ファイルを一冊ずつめくり、書類の隙間を細かくチェックし、古いケースの中まで確認した。

けれど──


「……ない」


どこにも、西浦栄真のカルテはなかった。その時、背後で微かに誰かが息を吐く音がした。

振り返ると、そこには真田先生がいた。


「ここにはないかもしれないな……」


静かな声だった。


「……先生…」


「実はな、俺もここに勤務しているときに探したんだ」


「……っ!」


「でも、やっぱり見つからなかった」


真田先生は、壁にもたれかかるように腕を組み、遠い目をしていた。


「ここにある15年前までの記録は、比較的しっかり残されている。でも、俺が探した時も、兄のカルテだけはどうしても見つからなかったんだ」


「そんな……」


「意図的に処分されたのか、それともどこか別の場所に移されたのか……」


真田先生の目が、すっと細くなる。


「ただ、何かしらの力が働いたことは間違いない」


「……」


確信に近い言葉だった。カルテは、どこへ消えたのか?なぜ、西浦君の記録だけがないのか?


「じゃあ、次は……」


颯太は、拳を強く握る。


「他のルートを探すしかないですね」


「……ああ」


「次はどこを探せばいいのか……」


颯太は、真田先生と低い声で相談しながら廊下を歩いていた。カルテが見つからなかった今、他に手がかりになりそうなものを探さなければならない。だが、どこをどう調べればいいのか──。


「電子カルテのログを遡るのはどうでしょうか?」


「ああ、それも考えたが、15年以上前のログはアクセス権限が厳しい。管理者の許可が必要になる」


「となると、他の記録を探すしかないですね……」


二人が次の策を考えていた、その時だった。


「芽衣?」


前方から、バタバタと小走りする足音とともに、芽衣が走ってきていた。


「颯太!!」


顔を上げると、芽衣が駆け寄ってくる。看護師の制服の裾が揺れ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。息を整える間もなく、真剣な表情のまま言った。


「高橋さんが急変したの。すぐ来て!」


「……っ!!」


一瞬、頭が切り替わるのに時間がかかった。しかし、急変という言葉で全ての思考が吹き飛んだ。


「わかった」


すぐに足を踏み出す。

高橋信也──45歳。心臓弁膜症で先週から入院している患者だ。この病院の現役スタッフであり、看護師だ。今週末に手術予定ではあったが、まさかこのタイミングで急変するとは……。


「詳細は?」


「不整脈があって、血圧が低下してる。意識も朦朧としてる状態」


「……急性心不全の可能性があるな」


真田先生がすぐに判断を下す。真田先生が颯太の横で呟く。


「おそらく僧帽弁狭窄の悪化か、急性の心筋虚血か……どちらにせよ、一刻を争うぞ」


「すぐに対応します」


颯太と芽衣、そして真田先生は、高橋信也の病室へと急いだ。心臓が騒がしく鳴っていた。

芽衣が病棟の角を曲がり、高橋信也の病室の前で立ち止まる。

ドアを開けると室内には、張り詰めた空気が漂っていた。


病室のベッドの上、高橋信也は荒い息をしていた。顔色は青白く、額には脂汗がにじんでいる。上半身を少し起こした状態で、呼吸を整えようとしているが、胸が不規則に上下し、まともに息ができていない。


「……ぐっ……は……っ……」


かすれた呼吸音が部屋の静寂に響く。まるで、肺の奥に何かが詰まったかのような、重く湿った呼吸。指先が蒼白になり、爪の下にはチアノーゼが見られる。明らかに低酸素状態だ。モニターの数値を確認すると、血圧 85/50mmHg、心拍数 112bpm、SpO₂ 88%。

血圧低下、頻脈、低酸素血症。心不全が急激に悪化し、心拍出量が極端に低下している可能性がある。


「先生……息が……」


かすれた声で、高橋さんが訴える。声はほとんど聞き取れないほど細い。


「高橋さん、聞こえますか? 息苦しいですね?」


颯太は落ち着いた声で問いかけながら、素早く手を伸ばし、橈骨動脈を触れる。弱い。細い脈。末梢循環が悪化している。血圧低下と頻脈、そしてこの状態。


「僧帽弁狭窄の急性増悪か……? それとも、急性肺水腫か?」


瞬時に、いくつかの可能性が浮かぶ。


「芽衣、酸素投与を開始して!リザーバーマスク10L!」


「はい!」


「芽衣、ニトログリセリンとフロセミドを準備して!」


「了解!」


芽衣が素早く薬剤の準備に走る。颯太は再び高橋さんの顔を覗き込んだ。


「大丈夫です、高橋さん。今すぐ処置しますからね」


「……よ……ろ……」


かすかな声が、呼吸の隙間から漏れる。意識はまだはっきりしている。けれど、このままでは急変する可能性が高い。


「病棟から急患搬送の連絡を入れる! ICUへの転棟準備も頼む!」


「わかった!」


颯太は、全力で次の手を打ち始めた。心不全の急激な増悪。それは、待ってくれない時間との勝負だった。


「ニトログリセリン3μg/minで開始! フロセミド20mgのボーラス投与!」


芽衣が素早く準備した薬剤を、点滴ルートへ流し込む。ニトログリセリンは肺うっ血を軽減し、フロセミドは利尿を促し、循環負荷を減らすための処置だ。


「酸素飽和度、どう?」


「マスク10LでSpO₂92%まで回復!」


「よし! でも、まだ血圧が低いな……」


モニターを睨む。血圧 82/48mmHg、心拍数 110bpm。

一時的な改善は見られるが、根本的な解決にはなっていない。

高橋さんの心臓は、手術が必要な段階にまで追い込まれている。


「カテコラミンの準備! ドブタミン2γで開始!」


心拍出量を改善するための選択だ。芽衣が素早くドブタミンの準備を進める中、高橋さんの意識が薄れていくのがわかる。


「……先生……苦しい……」


かすれた声が、さらに小さくなる。


「頑張って、高橋さん。もうすぐICUに移しますからね」


「ICUのベッド、確保! すぐ搬送できます!」


看護師の声が響く。


「よし! ストレッチャーを!」


高橋さんのベッドを慎重に動かし、ストレッチャーへ移す。酸素マスクをしっかり固定しながら、血圧と心拍数を監視し続ける。

今、持ちこたえさせなければならない。


「ICUへ搬送! 急ごう!」


颯太、芽衣、そしてICUの看護師たちは、病棟からICUへと急ぐ。その後ろで、幽霊の真田先生も、じっと高橋さんの姿を見つめていた。


「……このままでは、持たないな」


低く呟く。


「手術をするしかないですね」


颯太は決意を込めて言った。このままでは、高橋さんの命が危ない。心臓弁膜症の末期状態。この状態を救うには、僧帽弁置換術しかない。


「木村先生に連絡を! 緊急手術の準備を始めておきましょう!」


今、決断しなければ、高橋さんの命は救えない。颯太は、手術の決断を下した。

時間との戦いは、始まろうとしていた。


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