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第4話

「手術室へ搬送する! みんな、準備を急いで!」


ICUからストレッチャーに乗せられた高橋信也は、医師と看護師たちに囲まれながら手術室へと運ばれていく。

モニターのアラームが低く響く。

血圧 80/45mmHg、心拍数 108bpm、酸素飽和度 91%。


まだ持ちこたえている。だが、時間がない。このままでは、急激な心不全の進行でショック状態に陥る可能性が高い。


「手術室、到着しました! すぐに準備に入ります!」


手術室の扉が開き、スタッフが一斉に動き出す。人工心肺装置(ECMO)、麻酔導入の準備、消毒……すべてが無駄なく進められていく。颯太も更衣室へ向かい、素早く手術着へ着替えようとロッカーを開けた。その時、更衣室へ入ってきたのは、木村先生ではなかった。


「神崎君、今外来のほうでも救急が出たから、私が来たよ。よろしく。」


入ってきたのは、旭光総合病院の院長だった。


「院長……!」


予想外の人物の登場に、颯太は思わず目を見開いた。院長は、かつて海外の病院で救命医として長年勤務した経験を持つ、優秀な外科医だ。普段は経営や管理業務に追われ、実際の執刀に入ることはほとんどない。しかし、本当に危険な症例や緊急手術では、彼が自らメスを握ることがある。


「外来のほうに救急が入った関係で、木村先生がそちらに回った。だから私が助手にきたよ」


院長は落ち着いた声でそう言いながら、颯太をじっと見つめる。


「よろしく頼むよ。神崎先生。」


「はい! よろしくお願いします!」


颯太は、深く頭を下げた。院長が執刀に入るとなれば、この手術は病院全体が最優先で成功させなければならないケースになる。緊張感が一気に高まるのを感じた。


「じゃあ、手術に入るぞ。急ごう。」


颯太は、手術着の紐をきつく結び、手術室へと向かった。高橋信也の命を、ここで救う。

覚悟を決め、颯太は院長とともに手術室の扉を押し開けた。


手術室の扉を押し開けると、そこには張り詰めた緊張感が漂っていた。心臓外科のチームがすでにスタンバイし、手術器具が整然と並べられている。麻酔科医が高橋信也の状態を慎重に確認し、モニターには心拍や血圧、酸素飽和度の数値が映し出されている。


颯太は、滅菌ガウンに袖を通し、手袋をはめた。その横で、院長がゆっくりと手を洗い、準備を整えている。


「麻酔導入完了」


麻酔科医の報告が入り、手術チーム全員が改めて集中する。


「バイタル確認。血圧78/45mmHg、心拍数102bpm。酸素飽和度94%。」


「人工心肺の準備を開始。体温管理、ヘパリン投与開始。」


颯太は、深く息を吸い、手術台の上の高橋さんを見つめる。絶対に助ける。


「メス。」


院長の静かな声が響き、手術が始まった。


「胸骨正中切開。ソーブレード。」


メスを入れ、皮膚を慎重に切開し、次に、胸骨鋸(ソーブレード)で胸骨を縦に切り開き、開胸する。瞬間、患者の体の奥深くから、鈍く低い音が響く。


「開胸完了。胸腔内視認良好。」


肋骨の間に開胸器を挿入し、胸郭を大きく広げる。視界が開けた。


「心膜切開。心嚢液吸引。」


心膜を切開し、滲んだ血液を慎重に吸引すると、高橋信也の心臓が視界に現れた。


「拡張しているな……。」


院長が静かに呟く。心臓全体が大きく肥大し、特に左心房の拡張が顕著だ。


「心臓が疲れ切っている……。今すぐ負担を減らさないと。」


「人工心肺準備完了。カニュレーション開始。」


人工心肺(ECMO)のチームがスタンバイし、大動脈と大静脈へチューブを挿入する。


「ヘパリン投与完了。人工心肺作動開始。」


人工心肺が起動し、心臓への負荷を一時的に取り除く。


「体温管理、32度まで冷却。心停止液準備。」


心臓を一時的に止めるためのカーディオプレジア(心停止液)が準備される。


「左心房切開。」


心臓の表面を慎重に切開し、左心房内へと進む。


「僧帽弁、視認しました。」


高橋信也の僧帽弁が、術野に現れる。


「……かなり石灰化が進行しているな。これでは血流を阻害するはずだ。」


通常ならば弁が開閉することで血液がスムーズに流れるはずが、石灰化によって硬くなり、ほとんど動いていない。さらに、逆流もひどい。弁尖が完全に閉じず、血液が左心房へと逆流している。


「このままでは僧帽弁形成術は難しいな。置換しかない。」


院長が判断を下す。


「僧帽弁摘出に入りましょう。」


「了解。弁尖の剥離開始。」


硬化した僧帽弁を慎重に剥離し、大動脈側の腱索も一本ずつ確認しながら切除していく。


「弁輪部に注意。出血コントロールを徹底する。」


「はい。吸引。」


血液を吸引しながら、弁の周囲を確認する。


「摘出完了。人工弁の準備。」


摘出された僧帽弁が取り出され、血液にまみれた硬化組織がトレーの上に置かれる。


「……これだけ劣化していれば、心不全になるのも無理はないな」


颯太は、摘出された弁を見て、改めて高橋さんの状態の深刻さを実感した。


「機械弁か生体弁か?」


「患者の年齢を考えて生体弁を選択しましょう。抗凝固療法の負担を減らします。」


生体弁が術野に用意される。


「人工弁、サイズ確認。」


「サイズ27mm。適応あり。」


人工弁を慎重に弁輪に縫合していく。


「縫合開始。縫合糸のテンションに注意。」


「確実に固定。出血チェック。」


「よし、問題なし。弁の動き確認。」


人工弁がしっかりと動作することを確認し、弁の閉鎖機能に異常がないことをチェックする。


「心筋温度確認。問題なし。」


「よし、心停止液排除。除細動の準備。」


心臓を再起動させるための除細動パドルが準備される。


「人工心肺、離脱開始。」


「徐々に拍動が戻っていきます……」


モニターを見つめる。


「心拍再開! 洞調律確認!」


「血圧、回復! 110/65mmHg!」


心臓が、再び鼓動を刻み始めた。颯太の胸に、安堵の息が漏れた。


「閉胸に入る。みんな、お疲れ様。」


院長の声が響き、手術室にゆっくりと静けさが戻っていった。

高橋さんの人工弁は正常に機能しており、心拍も安定している。


「お疲れ様でした!」


麻酔科医が確認を終え、看護師たちが患者をICUへと搬送する準備を始める。颯太は、人工呼吸器の設定を最終確認しながら、高橋さんの顔をじっと見つめた。

命を取り留めたことに、心の底から安堵する。


「先生、準備完了しました。ICUへ移動します!」


「お願いします。しばらくは厳重に管理してください。」


スタッフたちに高橋さんを託し、颯太は手術台の周りを整えながら、看護師さんたちに深く頭を下げた。


「みなさん、本当にありがとうございました。おかげで無事に手術を終えられました。」


「こちらこそ、お疲れ様でした! 先生も休んでくださいね!」


そう声をかけられ、颯太は微笑みながら頷いた。手術室を後にし、院長とともに更衣室へと向かう。更衣室のドアを開けると、ふっと少しだけ気持ちが緩んだ。体は疲れているはずなのに、手術の緊張感がまだ抜けきらない。


「神崎君、正直驚いたよ。」


後ろで、院長の声が響いた。


「縫合の正確さ、速さ……そして状況判断。ここまで素晴らしいとは思わなかったよ。」


そう言いながら、院長は目をきらきらと輝かせながら颯太の肩をばんばん叩く。


「いやぁ、すごかった。久々にこんな手術を見たよ! 本当にすごいな!」


「あ、ありがとうございます……」


颯太は、少し気恥ずかしさを覚えながらも、院長の評価に素直に嬉しさを感じた。


「君のような若手がいてくれると、本当に頼もしいよ。あとは、ちゃんと休めるといいがな」


「……それが一番難しいですね」


二人は苦笑しながら、着替えを終えた。手術の緊張感は少しずつ和らいでいくが、完全に消えることはない。

颯太は、院長へ軽く頭を下げ、更衣室を出ようとした。その時、院長の低い声が背後から響いた。


「神崎君、術後管理、しっかりね。」


その一言に、足が止まる。振り返ると、院長はさっきまでの穏やかな笑顔を消し、真剣な眼差しで颯太を見つめていた。その表情が、妙に胸に引っかかる。何かを伝えようとしているのか?

それとも……


「…はい。ありがとうございました。」


颯太は深く頭を下げ、更衣室を出た。


外来へ向かう途中、颯太は小さく息を吐く。そして、隣を歩く真田先生に話しかけた。


「……院長、何か知ってるんでしょうか。」


真田先生は、前を向いたまま、しばらく沈黙する。


「……お前が何か探っていることに、気がついているかもしれないな。」


その言葉に、颯太は無意識に拳を握る。院長は、確かに優秀な医師だ。だが、それ以上に病院を守る立場でもある。

もし、病院の過去に関する何かを知っていたとしても、それを簡単に明かすとは思えない。


「……」


けれど、さっきの術後管理をしっかりという言葉には、単なる医師としての指導以上の意味が込められていた気がする。

まるで、二度と失敗は許されないと言わんばかりに。


「……とりあえず、外来診療が終わったら、また高橋さんの様子を見に来ましょう。」


そう呟くと、真田先生も頷いた。


「……ああ。お前がこのまま進めば、何かが見えてくるはずだ。」


その何かを掴むために、颯太は再び歩き出した。


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