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第5話

颯太は、午前診療を終え、最後の記録を入力していた。患者のデータを整理し、電子カルテに診察内容を記録する。午前の診察は予想以上に忙しく、手術後の疲れも相まって、肩がずっしりと重く感じた。とはいえ、まだ気を緩めるわけにはいかない。

午後の回診、そして先日の西村さんや高橋さんの経過観察も控えている。

そう思いながら記録を打ち込んでいると、背後から穏やかな声が聞こえた。


「神崎君、今朝は行けなくてごめんね。」


振り返ると、木村先生が歩いてきた。白衣の袖を少し捲り、軽く肩を回している。

明らかに疲労がにじむ様子だったが、それでも変わらず温和な微笑を浮かべている。


「いえ。院長が来てくださったので、なんとか大丈夫でした。」


颯太は、カルテ画面から視線を上げながら答えた。


「そうだったね。院長が執刀に入るのは久しぶりだろう?」


「はい。でも、さすがでした。無駄のない動きで、見ていて勉強になりました。」


「はは、それはよかった。」


木村先生は、柔らかく笑いながらデスクの隣に腰を下ろす。


「こっちもなんとか間に合ってつなぐことができたよ。」


「なにがあったんですか?」


颯太は、不思議に思って木村先生を見た。


「外来診療中に、川江さんが目の前で倒れたんだ。急性心不全だった。」


「……川江さん、かなりご高齢ですよね?」


「うん。そのまま緊急手術になってね。午前の予定は全部飛んじゃったよ。」


「急性心不全で、緊急手術……ですか…。 それは大変でしたね」


颯太は驚きつつ、木村先生の顔をじっと見る。


「川江さんは大丈夫なんですか?」


「うん、なんとかね。人工心肺に繋いで手術は成功したけど、術後の経過を慎重に見ていく必要がある。85歳だからねぇ」


木村先生は、疲れたように小さく息を吐く。


「それにしても……今日の午前中は、なんだか騒がしかったね。」


そう言いながら、木村先生はどしんと椅子に腰を下ろし、机に倒れ込むように突っ伏した。


「いやぁ、さすがに疲れたよ。もう少しで寝そうだ……。」


言葉とは裏腹に、彼の声にはどこか安心感が滲んでいる。長い手術を終えた医者にとって、無事に患者が持ちこたえた後のこの時間は、ほんの束の間の休息のようなものだった。

そんな木村先生の姿を見ながら、颯太はふと思い出す。


「そうだ……木村先生、昨日はありがとうございました。奥様にもお伝えください。」


「ん? あぁ」


木村先生は顔を上げ、軽く伸びをしながら笑った。


「妻も君に会えて喜んでいたよ。『またいつでも来てください』ってさ。」


「……そうですか。」


ふと、昨夜の食事会の光景が脳裏をよぎる。温かい家庭の雰囲気。気さくな奥さんの笑顔。そして──木村先生が涙を流しながら語った、父のこと、西浦君のこと。すべてを思い返すと、胸が少しだけ熱くなる。


「また来てください、か……。」


誘われたことが、なぜか少し嬉しかった。


「……はい」


颯太は笑顔で頷いた。


「今度は、もっと普通に食事を楽しめる場になるといいですね。」


木村先生は、それを聞くと軽く笑い、机に肘をつきながら小さく頷いた。


「……そうだな。」


まるで、少しだけ肩の力が抜けたような、そんな穏やかな時間が流れた。けれど、この静けさが長く続くことはないと、颯太はどこかで理解していた。


颯太が記録を終え、ICUへ向かうと、入り口のベッドに横たわる西村君の姿が見えた。以前よりも顔色が良く、目を開けて付き添いの母と小さな声で会話を交わしている。ゆっくりとした話し方ではあるが、表情には落ち着きがあり、経過は順調のようだった。


「こんにちは。どうですか?」


颯太がそっと声をかけると、西村君の母親が小さく頭を下げる。


「先生、ありがとうございます。症状は特にないようです。」


「よかったです。まだしばらくは安静が必要ですが、順調ですね。ベッドサイドにリハビリの先生が来るはずですから、しっかりリハビリしましょう」


西村君は、まだ大きな声を出すのが難しいのか、ベッドの上で頷き小さく微笑むだけだった。

だが、その笑顔には、手術を乗り越えた安堵と、未来への希望が滲んでいるように見えた。


「失礼しますね。少し状態を確認します。」


そう言いながら、颯太はモニターとバイタルを丁寧にチェックし始めた。

──心拍数 78bpm、血圧 115/70mmHg、酸素飽和度 98%。

安定している。

モニターの波形を確認すると、洞調律(正常な心拍のリズム)がしっかりと保たれている。

術後の心不全兆候もなく、人工弁の機能にも異常は見られない。


「体調はどうですか? 呼吸が苦しかったり、胸が痛んだりすることは?」


「……大丈夫です」


小さな声で西村君が答え、母親が「息苦しさもないみたいです」と補足する。

颯太は、さらに細かく点滴ラインやドレーンの排液量、浮腫の有無を確認する。

──肺うっ血の兆候もなし。ドレーンの排液量も問題ない。

肝腎機能の低下もなく、順調に回復している。


「経過はとても順調ですね。心配はいりませんよ。」


「ありがとうございます」


母親が再び頭を下げる。


「あと少し、頑張りましょうね」


そう言って颯太が微笑むと、西村君はゆっくりと頷いた。

ICUの空気は、ほんの少しだけ穏やかになったような気がした。

こうして一命をとりとめた患者さんが回復していくのは喜びだ。


西村君の母親に軽く頭を下げながら、颯太はICUの奥へと歩を進めた。

静寂と機械の電子音が混ざり合う空間。ふと、視線の先に見えたのは、高橋さんらしきベッドと、その傍に立つ院長の背中だった。みぞおちが、冷たくなる。


なぜ、院長がここにいる?高橋さんの手術は成功した。術後の管理はもちろん重要だが、院長が直々にここまで来るのは異例だ。


「……颯太……」


隣を歩いていた真田先生も、かすかに震える声で呟いた。彼もまた、ただならぬ空気を感じているのだろう。ICUには、いつもと変わらないはずの静けさが広がっていた。けれど、その奥にいる院長の背中が、その静寂をより異質なものに変えている気がした。


「神崎先生、お疲れ様です。」


看護師の一人が、颯太に声をかけた。その瞬間、院長がゆっくりと振り向いた。その表情は、読めなかった。穏やかでもなく、厳しくもなく、ただ……何かを伝えようとしているような眼差しだった。颯太の鼓動が、不自然なほどゆっくりと打つ。この空気は、何だ?

院長がそこにいるだけで、ICUの静けさが異様に思えてしまう。

まるで、彼の存在そのものが、この場を支配しているように感じられた。

けれど、動揺を悟られないように、颯太は落ち着いた声で言った。


「院長……お疲れ様です。」


すると、院長はゆっくりと微笑んだ。


「ああ、お疲れ様。」


その声には、普段と変わらない温和な響きがあった。


「久しぶりに手術をしたからかな。経過が気になって、つい来てしまったよ。」


院長は、いつもの柔らかな笑顔を浮かべながら、高橋さんの様子を静かに見つめていた。


「経過は順調なようだ。」


そう言いながら、院長はモニターの前から一歩下がり、颯太へとそのスペースを譲った。


「失礼します。」


颯太は小さく頷きながら、ゆっくりとモニターの前に立つ。ここからは、医師としての仕事だ。そう思い、意識を切り替えた。


まずは、モニターに映る数値を確認する。

血圧 118/72mmHg、心拍数 76bpm、酸素飽和度 98%。

術後の状態としては、非常に安定している。


「血圧、安定していますね。」


「うむ。術後の低血圧も見られないな。カテコラミンの減量も順調か。」


院長が穏やかに頷く。心電図の波形を見ると、明確な洞調律が記録されている。

異常はみられない。


「人工弁の動きも問題なさそうですね。」


「ああ、音も綺麗だ。」


次は、触診とバイタルのチェックだ。


「失礼します。」


颯太は高橋さんの手を優しく持ち、橈骨動脈の拍動を確認する。脈拍は整っており、リズムも一定。さらに、軽く眼瞼を持ち上げ、粘膜の色をチェックする。貧血の兆候なし。末梢循環も良好。


「顔色も悪くないですね。術後の貧血もないようです。」


「うん、ドレーンの排液量も問題ない。出血のリスクはかなり低くなったな。」


院長がサイドテーブルに置かれた術後の経過記録をめくりながら言った。


次は心音の確認。


「聴診しますね。」


聴診器を胸に当て、心音の響きを丁寧に確認する。

トン、トン……トン、トン……。

規則正しいリズム。そして、人工弁の特徴的な音がクリアに聞こえる。


「人工弁の音、綺麗ですね。逆流音もなし。」


「よし。これならICUから一般病棟への移行もそう遠くはないだろう。」


院長が静かに頷く。そして、術後管理の確認をする。


「術後の抗凝固療法ですが、ワーファリンの調整はどうなっていますか?」


人工弁を入れた場合、血栓を防ぐための抗凝固療法が必須になる。


「初日はヘパリンでコントロールしていたが、今朝からワーファリンを開始している。INR(血液の固まりやすさを示す指標)は1.8。」


「じゃあ、慎重に調整しながらですね。」


「そうだ。最低でも2.0~3.0の範囲で管理する必要がある。」


ワーファリンの管理は、術後の経過に大きく影響するため、ここからの血液検査とモニタリングが重要になる。


「引き続き、出血傾向や塞栓症状に注意しながら見ていきます。」


「うむ。いい判断だ。」


颯太が一通りのチェックを終え、手を洗いながら一息ついた時、院長の視線を感じた。


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