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第6話

颯太が一通りのチェックを終え、手を洗いながら一息ついた時、院長の視線を感じた。


「……」


何かを考えているような、静かな眼差しだった。ただの医療者同士の会話の延長ではない。

まるで、彼の真意を探ろうとしているかのような、あるいは、何かを伝えようとしているかのような目だった。

この人は、何を知っている?そんな考えが頭をよぎった瞬間、院長がふっと時計を見た。


「午後の診療までもう少しあるな。昼ご飯は食べたのか?」


颯太は一瞬迷った。正直、食欲はない。けれど、昼食に誘うということは、単なる食事の話ではない。何かを話したいのだろう。そう察し、素直に答えた。


「いえ、まだです。」


「そうか。なら、院長室で出前でもとろう。君の話も聞きたい。」


颯太の心臓が、ゆっくりと重く鳴った。院長室で?わざわざ、自分をそこに招こうとしている。それはつまり、「個人的な話」ではなく、「病院に関わる話」をするつもりなのだ。


「……わかりました。」


颯太は、静かに頷いた。この昼食は、ただの食事では終わらない。彼の真意を確かめるため、颯太は院長の後を追い、院長室へと向かった。


院長室へ移動し、大きなソファに腰を下ろした。

ふかふかのクッションが体を包み込むが、気が抜けることはなかった。

この場が、ただの食事の場ではないことを理解しているからだ。

視線を巡らせると、本棚には医学書が所狭しと並び、その横には整然とファイルが並べられていた。

さらに、壁には歴代の院長の写真が飾られている。

この病院の歴史そのものが、ここに刻まれている。


「失礼します。」


おずおずと部屋へ足を踏み入れると、院長が気さくに笑いながら言った。


「そんなにかしこまらなくていい。牛丼でいいかな?」


「はい。ありがとうございます。」


しばらくの沈黙。

牛丼の注文を終えた院長は、ソファにゆっくりと腰を落ち着ける。

そのとき、颯太の視線は自然と壁に飾られた写真に向かった。

そこには、歴代院長の顔が並んでいた。

額縁の中の写真は、時代を経るごとに鮮明になっていく。ふと、院長の写真の隣に視線を移すと、その一つ前の写真が目に入った。前院長。そこには、どことなく院長と似た顔立ちの男性が写っていた。写真の中の男は、厳格な雰囲気を漂わせ、冷静な眼差しでこちらを見つめているように感じた。

その瞬間、院長が口を開いた。


「君の目の前の写真が父で前院長。その横が祖父だ。」


「そうなんですか……」


颯太は、もう一度写真を見つめる。歴史が詰まったこの場所にいることが、改めて重く感じられた。


「君の父親が勤務していたのは、父の時代だ。」


院長の言葉が、重く静かに響く。


「君の父親が巻き込まれた事件も、すべて父の時代に起こったことだ。」


院長はゆっくりと手を組み、ソファの背もたれに寄りかかった。


「……君はどこまで知っている?」


穏やかな語り口ではあったが、その言葉の裏には何かが隠れている気がした。颯太は、静かに息を整え、次の言葉を慎重に選んだ。ここからが、本当の核心に触れる時間になる。


颯太は、静かに覚悟を決めた。この場でどこまで話すべきか迷いはあったが、回りくどい探り合いをしていては進まない。それに、院長は「君はどこまで知っている?」と問うてきた。ならば、真正面からぶつかるしかない。


「父の手帳を見ました。そこに書かれていたことを、お話しします。」


そう言った瞬間、耳元で真田先生の焦るような声が響いた。


「おい……手の内をそんな簡単に明かしていいのか!?」


幽霊である彼の声は、当然院長には聞こえていない。けれど、颯太はそれを無視せず、軽くめくばせをして頷いた。

大丈夫。そう言わんばかりに、僅かに表情を緩める。真田先生はなおも不満げに唸ったが、それ以上は何も言わなかった。そして、再び院長へと向き直り、意を決して言葉を紡いだ。


「父が最後の手術をした…西浦君のカルテが、消えているんです。」


颯太がそう言った瞬間、院長の表情が一瞬だけ曇った。それは、驚きか、それとも……確信か?


「……そうか。やはり、探しているんだな。」


院長は、意味深に呟いた。その声は、驚いているようで、しかしどこか納得しているようにも聞こえた。颯太は、その微かな変化を見逃さなかった。

「やはり」って、どういうことだ?

まるで院長は、颯太がこの件を調べることを最初から予想していたかのような口ぶりだった。


「……つまり、院長はこの件について、何かご存知なのですね?」


颯太がそう尋ねると、院長はゆっくりと視線を外し、再び壁に飾られた歴代の院長の写真を見上げた。そして、深く息をついた。


「もちろん…知っているとも。私は今、君にどこまで話すべきかを考えている。」


その言葉に、颯太の指先がわずかにこわばる。


「だから、その覚悟があるのなら……一つ、私の質問に答えてくれ。」


院長は、鋭い眼差しで颯太を見つめた。


「君は、この病院の過去を暴きたいのか? それとも、君の父親の無実を証明したいのか?」


これは、ただの質問ではない。ここでの答えによって、院長の態度は変わるだろう。

けれど、答えはもう決まっていた。颯太は、迷うことなく、静かに口を開いた。


「どちらかではなく、両方です。」


病院の過去を暴き、父の無実を証明する。その言葉に、院長の目が細くなった。そして、ゆっくりとロッカーへ歩いていき、鍵を取り出した。カチャリ、と鍵が回る音が、静かな院長室に響いた。


「……なら、これを見せるべき時が来たのかもしれないな。」


そう言いながら、院長はロッカーの奥から、一冊のファイルを取り出した。それは、どこか年月を感じさせる、古いファイルだった。

まさか。


「ここに、西浦君のカルテがある。」


颯太の心臓が、大きく跳ねた。消えたはずのカルテが、ここに……?これが、すべての鍵を握る証拠になるのかもしれない。だが、同時に恐れもあった。

もし、ここに記されている内容が父の無実を覆すようなものだったら?

けれど、それでも。


「……見せていただけますか?」


颯太は、院長を真っ直ぐに見据え、そう言った。院長は無言のまま、ファイルを机の上に置いた。

颯太は、院長を真っ直ぐに見据えながら、言葉を待った。


それは、長い時間を経た古びたファイル。角は擦り切れ、表紙の色もやや褪せている。だが、そこには確かに、消されたはずの記録が存在していた。


「この中に、君の父の無実を示すものがあるかもしれない。」


院長は、ファイルを指で軽くなぞるようにしながら、静かに言った。


「私は、前院長の息子だ。つまり、これは私の父が犯した誤りだ。」


その言葉に、颯太は息を呑んだ。誤り。院長の口から出たその言葉が、思った以上に重く響いた。


「私は、これを隠すために持っていたのではない。」


院長の声は静かだった。


「二度と同じことが起きないように、自分への戒めとして手元に置いていた。」


封印されていた真実が、今ここで解かれようとしている。それは、院長にとっても容易なことではなかっただろう。これは、過去と向き合うということだ。自分の父親が病院のトップだった時代に何が起きたのか。その誤りをどう受け止めるのか。

今まで、それを胸に秘め、正しいと信じる道を選ぶために、このカルテを手元に残していた。院長の手がファイルから離れる。


「……君がここまで来たのなら、もう隠すべきではないと思った。」


「……ありがとうございます。」


颯太は、深く息を吸った。そして、震える指先で、ゆっくりとファイルを開いた。


開かれた記録。消されたはずの真実。そこには、消えたはずの記録があった。


「西浦栄真 / 術後管理記録」


けれど、この記録は本来病院に存在しないはずだった。

電子データにも残っておらず、カルテのファイルも行方不明だった。


「……これは……」


ファイルをめくると、あるべきものが、あるべき場所に記されていた。術後の記録。


「心拍数98bpm、血圧110/68mmHg、酸素飽和度98%。経過観察」


「23:30 酸素飽和度96%に低下。血圧が不安定。昇圧剤投与開始」


「0:15 不穏症状あり。軽度チアノーゼ出現。黒沢医師、経過観察と指示。」


黒沢の名前があった。


「1:00 血圧低下(78/45mmHg)。黒沢医師、追加処置なしの指示。」


ここからが問題だった。


「2:00 血圧低下、酸素飽和度80%。頻脈(HR 135bpm)。呼吸苦の訴えあり。」


「鷹野医師、鎮静剤投与の指示。人工呼吸器の設定変更なし。」


この時点で、致命的だった。


「3:10 心停止。蘇生措置試みるも、効果なし。死亡確認。」


カルテには、淡々と記録が続いていた。けれど、颯太の目には、それが死へのカウントダウンのように映った。


「……こんなことが……」


カルテの最後のページには、航太郎の字で書かれた意見書が挟まれていた。


「術後の経過は安定していた。しかし、黒沢の判断は不可解だった。」


「肺高血圧の進行が見られる中で、追加の対処がなされなかったことが、悪化の一因と考えられる。」


「これが単なる判断ミスだったのか、それとも……。」


そこまで書かれたところで、文章は途切れていた。


「……父は、最後まで違和感を抱いていたんだ。」


黒沢と鷹野の術後管理。そして、それが原因で西浦君が亡くなったこと。それを、父は理解していた。だからこそ、黒沢に疑問を持ち、それを記録として残そうとしていた。


「……このメモの存在を、誰かが知っていたんですね。」


颯太が呟くと、院長は深く頷いた。


「前院長が、な。」


「……」


やはり、そうか。前院長──つまり、今の院長の父親が、この事件に関与していた。


「このカルテの記録が病院から消えたのは、黒沢と鷹野が責任を逃れるためだった。」


「そして、父はそれを病院の名誉のために黙認した。」


颯太は、拳を強く握った。父が退職に追い込まれたのは、責任を押し付けられたからだった。


「神崎君。君がここまでたどり着いた以上、私はもう黙っているつもりはない。」


院長は、まっすぐ颯太を見据えた。


「このカルテの内容を、公にするかどうかは、君の判断に任せる。」


「……」


「だが、一度世に出せば、病院も変わる。前院長の名誉は失墜し、黒沢たちも罪を問われることになる。」


「君は、それでも過去を暴く覚悟はあるか?」


問いかけられた言葉に、颯太の鼓動がまた、重くなった。今、この瞬間、選ばなければならない。過去を明らかにすることで、誰かが傷つくかもしれない。それでも、父の名誉を守るため、真実を公にすべきなのか。


「……」


颯太は、カルテのページを閉じた。その先の答えを出すために、今度は自分が動く番だ。


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