洛寒軒と沈栄仁。
意図せず二人の過去を知ってしまった沈楽清は、天清山の頂上にある自身の屋敷へ向かいながらも、その足取りは重かった。
(寒軒と、どんな顔をして、会えばいいんだろ・・・)
離れている間、何度も思い出し、早く会いたいと願っていた分だけ、彼らの過去は沈楽清にとって重く、顔には決して出さなかったけれど、聞いたことを後悔していた。
「栄兄は、自分は寒軒を苦しめただけって言ってたけど、絶対違うよな・・・」
おそらく洛寒軒は、自分を地獄から救ってくれた沈栄仁を強く愛していたんだろうと、沈楽清は確信している。
だからこそ、そんな彼に裏切られ、ひどく絶望した洛寒軒は、彼が何より大切にしていた弟の『沈楽清』を陸承の誘いに乗って殺したのだろう。
その際に、自分がされて一番嫌だったことを『沈楽清』にした洛寒軒。
それが沈栄仁への深い愛情と憎しみを物語っていた。
(まぁ、俺に変わったせいで、なんか話がおかしくなっちゃったけどさ・・・でも、あいつが栄兄を愛していたのは変わらないし、一度とは言え、身体の関係もあった訳だし・・・)
洛寒軒に惹かれ始めている沈楽清の気持ちを思ってか、沈栄仁は詳しいことは決して明かさなかった。
しかし、この二人に身体の関係があったという事実だけで、沈楽清の心は深く傷つき、その表情を暗いものへと変えていた。
(別に、寒軒にどんな過去があろうと・・・それが性的虐待だろうと、何だろうと、そんなのは全然気にしないけど・・・むしろ、あいつは平気なのかな?俺が触るの、本当は嫌とか・・・トラウマとかないのかな?大丈夫なのか?)
自分から積極的に触れてきている洛寒軒に対し、色々考えすぎであると分かっていても、沈楽清は、これから彼に対してどう接すればよいんだろうと悩んでしまう。
(でも、俺が話を聞いたことなんて、寒軒は知らないんだし・・・笑顔、そう笑顔!まずは、ただいまって笑わないと!)
考えながら歩くうちに屋敷に着いた沈楽清は、屋敷の門に手をかけるも、そこでしばらくそのまま立ち尽くした。
強くて美しくて何でもできる天清沈派の宗主である沈栄仁と、本来の『沈楽清』ではない、異世界から来た何もかも半人前の自分。
洛寒軒が自分に興味を持ってくれたのは、沈栄仁の弟だったからだろう。
(栄兄が生きていると知ったら?それに、本当は俺には興味なくて、玄肖の方がいいって・・・)
「俺は・・・きっと、あいつの中の栄兄には勝てない・・・」
宗主も、彼の妻になることも、結局どちらに転んでも、自分は沈栄仁の身代わりでしかない。
「『お前は誰からも愛されない。必要とされない。』か・・・なんだ、ここでも一緒なんじゃん・・・」
例え、愛されたとしても、それは『沈楽清』だからであって自分だからではない。
ぼんやりと空を仰いだ沈楽清の目に、大きな丸い月が映る。
その月が輪郭を無くし、ゆらゆらと揺らいで見えるのを、沈楽清はそのままずっと黙って見つめていた。
屋敷に入り、手を洗おうと炊事場へ向かった沈楽清は、そこにあった手つかずの料理達に顔色を失った。
(寒軒?もしかして、何かあった?)
沈楽清は、自分がそこに何をしに来たのかも忘れ、彼が閉じこもるように言われていた蔵書室へ向かって駆け出した。
バタンと騒々しく扉を開け、「寒軒!」と叫ぶも、そこに彼の人の姿はなく、どこにも人がいた形跡すら見られない。
「どうして・・・?」
(いや、違う。どうしてここに居てくれるなんて思い込んでたんだろう・・・もともと妖界の王なんだし、ここにいる義理なんて何もないのに!)
沈楽清は、へたりこみそうになる自分を叱咤し、足を引きずるようにして自室へ向かった。
もしかしたら、と一縷の望みをかけながら。
しかし、そんな希望を打ち砕くように、辿りついた自室からは明かり一つ漏れてこない。
沈楽清はハハハと小さく笑うと、ずるずるとその場にへたり込んだ。
「・・・なんで、仲直りしていかなかったんだろう・・・」
「行ってきます」と笑顔で言っていれば、そもそもあの晩、彼を最後まで受け入れていれば、洛寒軒は今もまだここに居てくれたのだろうか。
『離れたら、もう二度と会えない』
昨晩、もしかすると帰ってしまうかもしれないとは思っていた。
今、彼に会ったら、どうしていいか分からないと思っている自分もいる。
でも、それ以上に、本当にもう二度と洛寒軒に会えないという現実の方が、沈楽清にとって辛く耐えがたかった。
(・・・寂しい・・・)
幼い頃に諦め、それ以降、今まで誰にも求めたことがなかった温もり。
人に必要とされ、愛されること。
「なんで・・・寒軒からは本気で求められてるなんて、思ってたんだろ・・・偽物なのに・・・」
自分の中で、洛寒軒の存在が大きくなっていたことに今さらながら気がついた沈楽清は、ずるずると扉に沿って座り込むと、その場で膝を抱えた。
「っ・・・ふ・・・ぅ・・・」
感情と共に涙があふれ出した沈楽清は、幼い子供のように嗚咽し始めた。
「寒軒・・・寒軒・・・っ!」
情けないと分かっていながらも、大粒の涙があとからあとから溢れてきて、沈楽清はそこからもう一歩も動くことが出来なかった。