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第60話

「・・・楽清?」

庭の方から、洛寒軒の声が聞こえた気がして、沈楽清はゆっくりと頭を上げた。

月の光の中でも、その冴え冴えとした美貌は際立っており、特に水浴びをしたばかりなのであろう濡れた黒髪が、月光に照らされてキラキラと光を放っている。

薄い寝間着一枚に包まれた均整の取れた肉体の、白い肌が露出した部分からは、何度となく見たいくつかの傷跡が、暗い中でもはっきりと見えた。

その傷の意味を知ってしまった今となっては、それらはより痛々しく見える。

「寒軒・・・」

月明かりの下、自分がずっと会いたかった人が立っていた。

(ああ・・・たとえどんな過去があっても、やっぱり、本当に綺麗・・・)

泣きすぎて頭がぼーっとしている沈楽清は、それ以外何も考えられず、洛寒軒をじっと見つめたまま、再び大きくしゃくり上げた。

「どうした?何を泣いているんだ?」

暗い廊下にいて、その姿がきちんと見えていなかったのか、沈楽清が泣いていることにようやく気がついた洛寒軒は沈楽清に駆け寄ると、その場にしゃがみ込み、その手を伸ばす。

しかし、沈楽清に触れる直前にその手をぴたりと止めた。

「寒軒?」

「・・・この前は、本当にすまなかった。二度とあんな真似はしない。お前が触るなというなら触らないし、俺からは触らないようにする。それでも俺が嫌なら・・・今すぐここからいなくなる。すまなかった。」

洛寒軒の謝罪を耳にしながら、ぼんやりと洛寒軒を眺めていた沈楽清は、いなくなるという言葉に再びポロポロとその目から涙を流し始めた。

「楽清?!」

「・・・いや、だ・・・」

今度は声を出さず、静かにハラハラと涙をこぼす沈楽清に、自分から触らないと言った手前、どうしていいか困ってしまった洛寒軒は、その背に手を伸ばしかけてはひっこめるを繰り返す。

「楽清・・・何か、俺にできることはあるか?なんでもいい。お前の望むとおりにするから。」

おろおろする洛寒軒に、沈楽清は自分から彼に手を伸ばすと、その身体に飛びついた。

しっかりと首に手を回し、洛寒軒の身体に抱き着くと、すぅっと深く息を吸い込む。

自分がよく知っている体温と匂いに、沈楽清は「ああ、家に帰ってきた」と強く実感した。

「・・・ただいま。」

号泣していた沈楽清に急に抱きつかれた洛寒軒は、そんな精神的に不安定な沈楽清に困惑しながらも、「おかえり。」とその華奢な身体を優しく抱きしめ返す。

「・・・どうしたんだ?こんな泣きはらした顔をして。」

自分に強く抱き着いていた沈楽清の腕が少し緩んだのを感じた洛寒軒は、沈楽清の身体を少し自分から離すと、涙の跡が残る沈楽清の目や頬を、指でそっと拭った。

「もうすぐ帰ってくると思って、お前と水浴びが被らないようにと先に行ってきたんだが・・・ここで何があったんだ?藍鬼と離れるまで何もなかっただろ?」

「藍鬼?」

洛寒軒が玄肖のことを藍鬼と呼ぶ様に、沈楽清はこてんと小首をかしげる。

「ああ。本当に、あいつは断りもなしにベラベラと・・・楽清、色々聞いて、気にするなと言う方が難しいと思うが気にしないでくれ。全て過去の事だ。あの男のことも、藍鬼とのことも。」

「・・・え?」

「ただ、もしもお前が俺を汚らわしいと思うなら・・・」

「待って!!」

洛寒軒の言葉に心臓がドキドキしてきた沈楽清は、恐る恐る彼に確認する。

「・・・もしかして、ついて来てたの?」

「そんな訳ないだろう。金聯だ。お前も昨日の夜、使ってたじゃないか。」

ほら、と瑠璃色の宝玉を取り出した洛寒軒に、沈楽清は口をあんぐりと大きく開けた。

「・・・もしかして、これ、姿が見える?」

「ああ。」

「声・・・とか・・・?」

「・・・知らなかったのか?」

声が震え始めた沈楽清に、すまなかったと洛寒軒は頬をかきながら、気まずそうに、その顔を横に背けた。

「ずっと、聞いてた?見てた?」

「ああ・・・」

「俺が『沈楽清』じゃないって話も、梦幻宮のことも・・・昨晩の・・・」

嘘はつけないと、こくんと頷いた洛寒軒に、沈楽清の顔が、一瞬真っ青になった後、今度はその首元まで真っ赤に染まった。

両手で顔を覆うと、バッとその場に伏せて猫のように丸まる。

「大丈夫だ、楽清。何も変わらないから・・・」

「そんな訳ないだろ?!俺、『沈楽清』じゃ・・・天清神仙じゃないんだぞ?!」

「・・・別に構わない。もともと、最初からお前は天清神仙ではないと思っていたし。」

「え?!」

「・・・いくら何でも、妖族にあっさり嫁ぐなんて、仙界の人間が言う訳ないだろう?俺を恐れない様子や俺を殺さなかったことや、抱かれそうになっても抵抗すらしなかったことや・・・あれこれ何をどう考えても、お前が天清神仙じゃないと言われた方が一番しっくりくる。だから、大して驚かなかった。」

洛寒軒は沈楽清の身体を起こそうとその肩に手を置く。

「俺が・・・妻にしたいと思ったのはお前だ、楽清。天清神仙だからでも、藍鬼の弟だからでもない。会ったばかりで阿呆だと思われそうだが、お前となら、ずっと二人で楽しく生きていけそうだと思った。」

「・・・栄兄が生きてるのに?俺でいいの?」

「・・・藍鬼とのことは過去だ。今は、お前じゃないとダメなんだ。」

すっかりパニックになっている沈楽清を安心させようと優しく声をかけながら、洛寒軒はその顔を覗き込もうと沈楽清の頭を撫で、上を向かせようとする。

「見ないで・・・俺、今・・・どんな顔してるか・・・」

洛寒軒の告白に、耳まで真っ赤になった沈楽清は、洛寒軒に顔を見られないようにと、小さく首を横に振った。

そんな沈楽清の顔を覆った両手首を掴んだ洛寒軒は、その手をはがす様に少し手に力を込めると、沈楽清の耳元で囁く。

「見せて?」

「うう・・・」

洛寒軒に決して逆らえない沈楽清は、恥ずかしがりながら、ゆっくりその手を下ろし、上体を上げていく。

その顔は困ったように眉が下がり、頬が真っ赤に上気し、うるうると目が潤んでいた。

「・・・可愛い。」

洛寒軒の囁くような甘い声に、色々といっぱいいっぱいになって再び顔を隠そうとした沈楽清の腕を、そのまま自分へと引き寄せた洛寒軒は、今度は自分からその身体を強く抱きしめた。

「ありがとう。」

「え?何が?なんで?」

「・・・俺のために、お前は怒ってくれた。あの場で殺される可能性もあったのに、ましてや天帝の前で・・・このバカ・・・本当に無事で良かった。離れている間、お前は一度も俺を悪く言わなかった。俺は仙根と妖根を持つ異端の存在。仙界だろうと妖界だろうと、気味が悪いと俺の悪口を言う奴ばかりなのに、この世界の人間でもないお前が・・・いや、だからこそかもしれないが、俺を信じてくれた。過去を知ってもなお、俺や藍鬼が、生きていてくれて良かったと言ってくれた。」

過去の話で、わずかにその身体が震えた洛寒軒の背に、ゆっくりと手を回した沈楽清は、その背中を優しくさする。

「・・・本当に、そう思ってるよ、寒軒。お前が生きていてくれてよかった。じゃなきゃ、こうして出会えなかった。」

「ああ・・・」

それ以上何も言わず、お互いにこれ以上くっつけないのがもどかしいと感じるくらい、二人はきつく抱き合った。

やがて、洛寒軒の手が、沈楽清の頭を撫でる。

その感触に、埋めていた彼の身体から顔を上げた沈楽清は、洛寒軒の顔に自分から己の顔を近づけた。

(この前のは事故で、これがファーストキスって考えればいっか・・・)

あまりに緊張してかすかに震える唇に、洛寒軒の少し冷たくて柔らかい唇の感触を感じる。そのふにっとしたわずかな感触だけで、沈楽清は触れた先から身体中に電気が走り、ぱっとすぐにその唇を離した。

ほんの一瞬、触れるか触れないかというような不器用なキス。

今の沈楽清にはそれが精いっぱいだった。

沈楽清からの口づけに嬉しそうに笑った洛寒軒は、あまりの恥ずかしさからうつむいた沈楽清の頬を、愛おしそうに何度か撫で、その額に優しく口づけた。

「・・・楽清・・・」

洛寒軒の切なげな声と共に、沈楽清の細い顎がくいっと持ち上げられる。

(あ、睫毛・・・すごい長い・・・)

自分にゆっくり近づく、この世の誰より美しい顔に、沈楽清は微笑むと、その目を軽く閉じた。

お互いの唇が触れ、今度は一瞬ではなく、少しだけ重ね合い、ゆっくりと離れる。

「・・・なんか、恥ずかしいね。」

「ああ、恥ずかしいな。俺たちは廊下で何をしているんだか。」

自分達がずっと部屋の前にいることに気がついて、二人は顔を見合わせて笑いあった。

「部屋へ入ろう。」

「うん。」

洛寒軒が沈楽清の背に手を回し、部屋の扉を開けると、その身体を中へと誘う。

部屋へ入った二人は、お互いの背に手を回し、しっかりと抱き合うと、今度は深く長い口づけを交わした。

洛寒軒と触れ合う中、沈楽清の心はこれ以上ない幸福感で満たされていた。


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