幸一は横から母親を覗いた。
珊瑚は事情をうまく説明したのか、韓婉如の様子が少し落ち着いたようだ。
紫苑は声を低くして、幸一に耳打ちをした。
「おのれは、お母様の魂に宿っている『心魔』を引き出せます。過去の生に何があったのか、解明できます」
「!」
幸一の影に覆われた目が光った。
しかし、過去の生を探ることは、仙道でも一定の修為を持つ人間しかやらない修行法の一種。
一般人の母にやらせたら、母は余計なことを知ってしまい、現世に悪い影響があるかもしれない。
それを思うと、幸一は目を逸らして、紫苑の提案を断った。
「……いいえ、いいんだ。過去の生が原因だったら、今の母を追い詰めても意味がないんだ。傷を掘り出したら、母を傷付けるかも知れない……」
「それは違います」
紫苑はめずらしく、やや強めな口調で幸一を否定した。
「過去の生で負った傷は、これからの生で癒さなければなりません。癒さない限り、何回転生しても苦しめられます。なので、『病因』を究明することで、お母様も恐怖心から解放されます」
「……」
幸一は戸惑っていたら、紫苑は悲しそうに更に勧めた。
「幸一様、おのれは、たくさんの母親と子供の悲しみや虚しさを見たことがあります。彼女たちはとても弱くて、自分の不幸をどうにかする力もなく、理不尽を受け入れることしかできません。ですが、幸一様とお母様は違います。まだ挽回する機会があります。原因を見つけたら、お二人は理解し合えるかもしれません。この機会を逃さないようにお願いします」
紫苑は嘘をついていない。彼を生み出した怨念の中で、女子供の怨念が一番多かった。
幸一と韓婉如は、それぞれ何に悩んでいるのか、彼にははっきり分かっている。
ほかに能がなくて、汚らわしい魔である彼が、恩人である幸一にできることでもあれば、きっとこれだと彼は思った。
紫苑の言葉は、幸一の中で強く響いた。
確かに、このまま終われば、この短い親子関係が虚しさ以外に何も残さないだろう。
修良に教われたことがある。
この世のすべての存在のあり方は、それぞれ意味がある。
でも、究極的な意味はみんな同じ――この世界をもっとよくすることだ。
この世界は常に「生の力」を求めていて、すべての存在に「よい原動力」を求めている。
なら、仙道の人間として、自分と母の関係で「よいもの」を残すために、努力すべきじゃないか。
母の嫌悪感の源が分かる。しかも、それは母にとっても有益なこと。
もう断る理由はない。
やっと決心がついて、幸一は頷いた。
「お願いします。俺の代わりに、母を説得してくだい!」
「かしこまりました」
紫苑は一礼をして、韓婉如に歩いた。
紫苑は韓婉如の前で跪いて、両手で韓婉如の冷たい手を包んだ。
先ほど、幸一を説得するように、自分の理論をやさしく韓婉如に伝えた。
韓婉如は不思議と思った。
初めて会ったのに、なぜかこの弱弱しい美青年に親近感を持っている。
彼の言っている言葉も、自分の苦しみや悩みに見事に的中している。
これほどの良い理解者に会ったことがない。
紫苑の言葉に動揺され、韓婉如は視線を幸一に移した。
幸一の顔に、涙の跡がまだ乾いていない。彼の目線から、真実を求める焦燥を感じる。
確かに、自分が実の息子の幸一に対する恐怖感が不可解なものだ。
母親として、実にひどいことをしてきた。
その恐怖感の理由が分かれば、自分も幸一もこの苦しみから解放されるかもしれない……
少々不安があるが、韓婉如はやはり紫苑の提案に同意した。
「婉如様は何もしなくていいです。ただできるだけ楽にしていて、おのれに魂を覗かれることを許してください」
紫苑は韓婉如を寝台に座らせて、指先で一本の紫色の煙を立てた。
「それでは、俺は結界を張る――」
幸一は術を発動しようとしたら、追い出された幸世が走って戻ってきた。
「お、お母様をいじめないで!虐げるのなら、わ、わたくしを……」
珊瑚は手が早く、幸世を扉の外に止めた。
「すみません、お嬢さん。それがしは捕快です。それがしたちは、お母様を傷付けるのではなく、過去の傷を癒すために術を施しているのです」
「捕快……?」
珊瑚の顔をよく見たら、幸世の目がピカッと光った。
「す、すてき!きっと、あなたは復讐心に目をくらませた兄を抑えて、母を救ったのですね!」
「いいえ、それがしは……」
いきなりの話で、珊瑚もついていけなかった。
「そして、神様が不幸なわたくしにくれた溺愛旦那様ですね?」
「溺愛旦那様?父はそう皮肉されたことがあったような気がしますが……」
「えっ!妻溺愛の伝統がある家ですか!?ますますすてきですわ!」
「……とにかく、施術の邪魔になるから、一緒に外に出てくれませんか?」
「いいですわ!さあ、行きましょう、旦那様!雰囲気のいいところでお茶をしましょう!わたくし、お菓子作りが得意なの!」
幸世は進んで珊瑚を外に引っ張った。
「……」
幸一は申し訳なさそうな目線で珊瑚を見送った。
邪魔が去ったので、幸一はさっそく光の術で壁や床で呪文を描いて、守護の結界を展開した。
紫苑の煙は韓婉如の全身に巻きつく。
韓婉如は座ったまま眠りに落ちた。
紫苑は左手で韓婉如の手を引いて、自分の右手を幸一に渡せた。
「幸一様、おのれはお母様の魂を覗き、幸一様と関係のある部分の記憶を引き出します。幸一様は霊気を調整して、おのれと同調してください。そうすれば、おのれが見た景色はそのまま幸一様の脳に転送されます」
「分かった」
「でも気をつけてください。魂の潜在意識は非常に繊細なもので、何を見っても、大声を出したら、激しい感情を出してはいけません。幸一様なら、制御できますね」
「ああ、もう気持ちの整理ができてる。さっきのようにならない」
幸一はもう一度意志を固めて、紫苑と一緒に韓婉如の意識に潜入した。
「!!」
紫苑に忠告されたのにも関わらず、最初に見た画面で、幸一は危うく声を出した。
天地崩壊。
それは、一番適切な形容詞だろう。
暗闇に覆われた空に強風が咆哮している。
枯れた大地で山が崩れ、河が沸き立つ。
遠い地平線にある海は、灰色の砂となり、竜巻へと化する。
すべてが抹消されているような光景だ。
人々は、同族の死体が散らばっている大地で、獣の断末魔のような悲鳴を上げながら逃げ回っている。
「どうして!?どうして私たちは滅びなければならないの!?すべて、すべてはあの悪鬼のせいなのに!!!」
一人の女性は、倒れた枯木に押しつぶれ、動けなくなり、最後のを悲鳴を上げた。
「もしかして、あれは、母の前世……!?」
幸一は唇を噛み締めて、その女性を助けようとする衝動を必死に抑えた。
隣で彼つ手を繋いでいる紫苑は、小さな声で言った。
「ひどい景色ですね……まるで、伝説中の、旧世界が滅んだ時の光景です」
女性が見上げる方向に、祭壇のような石の建物の残骸がある。
その残骸の上に、一人の痩せた少年が立っている。
少年は逃げるつもりもなく、何かを待っているように静かに空を眺めている。
「あの少年は、幸一様……?もうちょっと近くに行ってみませんか……」
紫苑はまだ確信を持っていないうちに、突然に、巨大な黒影が空から襲来した。
それは、力強い翼と巨爪が生えている生き物。全身が真っ黒で、狂気に包まれている。
その爪が黒い雷を生み出し、翼が暴風を飛ばし続ける。
雷と風の刃は地上に降りかかり、破滅を加速している。
「先、輩……」
あの黒影を見て、幸一はぼうっと呟いた。
「!あのものは、修良様っ……!?」
その時、空から落ちた黒い刃は容赦なく、枯木に体を潰された女性の頸を切り、彼女の苦しみを終わらせた。
その同時に、幸一たちの視野も真っ黒になった。
「お母様のこの生はここまでのようですね。しかし、幸一様との因縁が分かりませんでした……」
紫苑は困惑した。あの少年が幸一で、あの女性が韓婉如の前世だったら、二人の接点が少なすぎる。
「……」
「もうちょっと、前の生を遡ってみましょうか?」
「……」
「幸一様?」
幸一が上の空で立っているのに気付いて、紫苑はもう一度声をかけたが。
「え、あっ、はい!そうしよう」
紫苑の声を聴いて、幸一はさっきの景色から意識を取り戻した。
(どうして、それが先輩だと思った……)
(いいえ、思ったより、知っているという感覚だ)
(確かに、先輩の悪鬼化した姿が、そのものと雰囲気が似ているが……)
(先輩は、本当に旧世界を滅ぼした悪鬼なのか?)
(母は先輩に偏見を持っているのは、そのせいか……)
(俺は、何か大事なことを忘れたような気がする……)
紫苑は指先でもう一本の煙を立てて、もう一度韓婉如の魂の記憶を探る。
今回二人が導かれた場所は、戦場だ。
二人が屍の上に立っている。
後ろには高くそびえる城門。
目の前には、対峙する二つの軍陣。
城門に攻めようとする陣は、残兵と言っていいほどの惨状で、
彼たちの真っ先を塞げ、城門を守ろうとする陣は――ただ一人。
鮮血に甲冑を染められた青年だ。
残兵たちは、化け物を見るような目で青年を見つめていて、前進に怯えているようだ。
いきなり、将領っぽい人が狂ったように奮発して、大きな刀をかざし、敵の青年に飛び掛かった。
青年は、疲れ果てたようにため息をついて、鈍い動きで薙刀を振り上げた。
そして、目の見えない速さで、残兵が刀を降ろした一瞬、その傷だらけの戦士の体を腰から一刀両断した。
「!!」
その同時に、幸一は両手から振動を感じた。
(俺は、この感覚を知っている!)
将領がやられて、ほかの残兵はあちこち逃げ始める。
しかし、青年は彼たちを見逃さなかった。
青年は手を高くあげる。彼の血か敵の血か分からないが、鮮やかな血流は空に逆流し、青年の頭の上に血色の玉を作った。
十分の血が溜まったら、血玉が爆発し、血流が矢のように飛ばされ、逃げようとする残兵の体を全数貫いた。
「!!」
また同調したように、幸一は全身の血が吸い込まれたような寒さを感じた。
「幸一様、どうしたの……?」
紫苑は小さく震えた幸一に話しをかけたら、二人の視野がだんだんぼやけていく。
遠い荒野から、一人の青年が近づいてくるのを見えた。
青年は真っ白な服を身に纏って、鮮血に染められた青年に向かっている。
赤い青年は悲しみにも似たような笑顔で、白服の青年に言った。
「みんなのために生きてるって、やっぱり疲れちゃうね……今度は、キミだけのために……」
「!!」
その一瞬、幸一は心臓を貫くような痛みを感じ、両足が揺れた。
「幸一様!!」
紫苑はさっそく幸一を支える。
すぐに、二人の視野がまた暗くなった。
幸一は何回も大きく息をして、自分の心臓のところを掴んだ。
「俺は知っている。あのものたちは、全部、俺が、俺の前世が、殺したんだ……!」
「!?」