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17-4

【7】


 明るいとも暗いとも言えない店内。居酒屋では流行歌が延々と流れ続けており、人々は周りのことを気にせず喋り続けている。時刻は丁度十九時を過ぎた頃合い、店の角で加藤と妻と娘が話をしていた。

「で、コンクールの方はどうなの?」

「んー?ボチボチってとこ。先生がキツイねー」

「良い経験だろ」

「まあ良いんだけどさ、指導が抽象的で困っちゃうんだよね」

 加藤がビールを飲みながら娘の話をちゃんと聞いているフリをする。司祭はアルコールを勝手に解毒してしまう都合上、全ての酒が美味しくない。それでも、彼は世間体の為に酒を飲んでいる。司祭になる前もこれからも、彼は世間体を気にし続けるのだ。

 ウーロン茶のグラスに浮かぶ氷がチラチラと輝いていた。

「でもホルンやってるの私一人だし、頑張らないとね」

「ホルンって中々できる人居ないよね。知り合いには居ないなあ」

「……そりゃ、ホルンが世界で一番難しい楽器だからだろ」

 そう言う加藤の腕には既に祭具の腕時計が巻かれていた。悪趣味な金時計『無垢鏡典むくきょうてん』は対象の死期と死に方を測定する。それが導き出した結果は確実なものであり、その確定した死を変えることは絶対に叶わない。世界の方がそれを阻止する。

 彼の目には娘の死期が見えていた。

「(二十分後、柵が外れて転落……か)」

 それはもう決まっている。どうすることもできない事実。普通、娘があと少ししか生きられないと知れば慌てふためき、残酷な現実に打ちひしがれるだろう。だが、加藤典也は眉一つ動かさない。人が何人死のうと。

「そうそう、息を上手くしないと音が変になるから」

「へー私音楽に疎いからなあ」

「じゃあ音楽の成績どうだったの?」

「うーん……2かDだったような気がする」

「壊滅的じゃん!」

 仲良く談笑する妻と娘。それを眺めている彼は何も感じていない。ただ、この無駄な時間が早く終わることを願い続けていた。娘が死ねば彼は千二百万円の保険金を請求できる。その莫大な利益を手にすれば彼の老後は安定することだろう。余りにも下劣な考えだが、これは保険金殺人などでは決してない。

 その請求はどこまでも正当だった。

「(無駄な時間だ……)」

 オレンジ色の弱い明かりの照明は、程よく人を落ち着かせていく。リラックスして酒を飲み雰囲気に寄っていく客の中で、加藤だけはいつも通りの白けた表情を貫いていた。それでも、彼の周囲の人物は彼が内心では楽しんでいると幻想を抱いていたのだ。勝手に、夢を見ているのだ。

 娘が彼の方を見る。

「パパは音楽の成績どうだったの?」

「そうだな。4か……Bだったような気がする」

「おーやるー」

「パパは何でもできるからねえ。何でも平均とかそれ以上だよね?」

 優秀で普通の父親、それが世間の下す彼への評価。それはきっとこれからも変わらず彼の能力も変わらないのだろう。世間に溶け込み生きることだけに固執する、その醜悪な生態こそが彼の本質だ。

 とは言え、そんな人間はどこにも居る。

「やることやればそうなる。本子もできるさ、要領良いんだから」

「うーん、まあ私天才だし」

「自己評価高いな。まあ、俺の娘だし大丈夫だろう」

「親子だねえ君たち」

 だが、二人が似ていることはない。娘は母親から人間性を受け継いでいるものの、父親から受け継いでいるのは外見の一部だけだ。目つきが似ている、指が細い所が似ている程度のことでしかない。

 これはただの、人間のエミュレートでしかないのだ。

「……私、やっぱり音楽関係の仕事したいんだよね」

「良いじゃないか。夢を叶えた経験は良い思い出になる」

「普通の大学に行きつつ、もっと経験積みたいんだ」

「それが一番だ。やりたいようにやればいい」

 彼は本心を言っているわけではない。それが父親らしいことだと考え、自分を装う為に嘘を吐き続けているのだ。例え彼女が十九分後に死ぬとしても彼は最後まで本性を表すことはない。それは娘にとって、本当に幸せなことなのだろうか。

 うすら寒い微笑む芝居をする加藤は、家族の心を考えることなどしない。




【8】


「次の人で当たりだと分かってるのに……」

「何だこのカメラワークは……最近のテレビは駄目だね」

「粳部、イクラ食べていいぞ」

「あっ、ありがとうございます」

 鈴虫の鳴く時間帯。畳の香りがする客間にて、テレビを観ながら寿司を食べ粳部達はのどかに過ごしていた。映画監督は人の家だというのにくつろいでおり、粳部は出前の寿司を箸で取っている。扇風機の風が粳部を揺らす中、彼女は困った表情で寿司を頬張っていた。

「再現ドラマだからと言って、手を抜いた撮影は感心しないな」

「映画じゃないんすから……文句言わないでください」

「つまみ欲しいだろ、クラッカー持ってくるよ」

「何から何まですいません……」

 藍川は呑気な表情をしながら立ち上がると客間を出て台所へ向かっていく。涼しい風が網戸から吹き込む時間帯、扇風機の力もあって心地よい室温になっていた。彼女はサーモンを頬張りながら映画監督の方を見る。

「人の家でそんなにくつろがないでください……」

「ここでしかくつろげないんだ。いいじゃないか」

「監督の部屋広いでしょ」

「君も耐え切れず引っ越したんだろ?あれは堪える」

「……それはそうですが」

 実際、粳部は無機質な基地の部屋に耐え切れずに引っ越しを選んだ。任務のない時は拘束されている映画監督からすれば、普通の家で普通に生活することは羨ましいのだろう。人は退屈さで死んでしまう。

「簡単に事件を解決するとまた戻されてしまう。まだ外に居たい」

「でも……司祭を放っておくなんてリスキーです」

「容疑者、加藤典也は法を犯さない。模範的な人間だからね」

「……確かに、父親の保険金を増額した後に死んでますけど」

「それに株式の記録は見たかい?彼、凄腕のトレーダーだよ」

 加藤が犯罪を犯さないことを確信している映画監督は、平気な顔をしてテレビを眺めている。家族の死を利用して保険金を得ても、誰かを傷付けることは決してしないと理解しているのだ。故に、こうして呑気に楽しんでいる。

「社長が死ぬ前に空売り、死んで株価の下落と同時に買い戻し」

「……ああ!ズルいやり方!」

「三十六万も稼いでる……まるでボーナスだね」

 六百万円の株を二倍のレバレッジで空売り、千二百万円分の株が三パーセントの下落によって三十六万増額する。こんな大胆な賭けに出られるのは社長の死を最初から知っている者だけだ。でなければ、こんな恐ろしいことはできない。

「経歴を何度確認しても不審点はない。でも、一つだけ気になる点が」

「?」

「彼は小学校時代に一度、カウンセリングを受けた記録がある」

 どこまでも普通な男の、唯一普通でない点。非の打ち所がない真人間の仮面を映画監督は剥がし、そのおぞましい本性を簡単に見抜く。そんなことができるのは彼かラジオくらいだ。

 粳部が机に身を乗り出して話を聞く。

「その時、彼は人前で転んで笑われたことを酷く気にしていた」

「……一見すると小さいことですけど」

「それが人形の行動パターンを決めたんだ。恥を恐れるだけの人形の」

 それは常人からすれば些細なことでしかない。子供が転んだ人を見て笑うことはよくあるだろう。人前で恥をかいてしまったことが、どういうわけか彼の生き方を決めてしまったのだ。恥をかかずに社会に溶け込むだけの道を。

「だから……どこまでも普通を装うんですか」

「よくもまあ、ここまで嘘を突き通せるものだね」

「……」

「嘘と言えば……粳部君は男の趣味が悪いな。まさか同棲するとは」

「はい!?」

 余りにも唐突な発言だった。今までの話の流れをぶった切って、映画監督が爆弾を投げ込んだ。

「藍川君は女泣かせで他人に無理解。精神的に不完全だ」

「あなたねえ!鈴先輩は彼女が居るんですよ!」

「それは何年前の話だい?もう終わってるさ」

「人のことおちょくってんですか!」

「はははははっ!」

 誰にも映画監督を止めることはできない。カメラは今も回り続けている。




【9】


 うっすらと湿気と冷気の満ちる中、加藤ら家族三人は建物の上にある歩道を歩いていた。ビル風の吹く肌寒い夏の夜に、上機嫌の娘はスキップしながら柵へと進む。加藤の腕には祭具の腕時計が巻かれており、その目は確かに死期を捉えていた。

 それは家へと帰る道だった。

「ここ高いね!何メートルかな」

「大体三十メートルだろうな」

 無垢鏡典が娘の死期を測定する。残り時間は二十秒、彼女はもうどうにもならない所まで来ていた。とは言えここで言葉で止めようと力で止めようと娘が死ぬことに変わりない。何をしても死ぬしかない絶望は彼の中にはなかった。彼に娘を思いやる気持ちなど毛頭ないのだ。

「(残り二十秒で、柵から転落か)」

 その瞬間は余りにも唐突だった。家族で食事をしたその帰り道、少女は呆気なく転落して死んでしまう。それでも彼の心は揺れ動かない。家族の死が何の意味も持たないのだ。

 娘が柵に近付いていく。

「うお、高いなー」

「(じゃあな、本子)」

 彼女が柵を両手で掴んだ瞬間、老朽化していた柵が外れる。途端に前のめりになった少女はその勢いのまま空中に放り出された。誰も、どうすることもできなかった。運命で死ぬことが決まっていた彼女は誰にも助けられなかったのだ。母親は余りのことにその場で硬直してしまい、何の言葉も話せない。

 高さ三十メートルを少女が落ちていく。そして、地面にそれが接触し全てが砕け散った。

 男は無言で、無表情のまま後始末について考え始める。そこに感情はない。

「(これで千二百万円か)」


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