私が生まれた町は、山に囲まれている。だから冬の夕暮れは──あっという間に終わる。
蓮さんの車が高速道路を降りる頃には、すでに空は群青色に染まりはじめていた。
日が翳り、雪の照り返しがやわらぐと、彼はそれまでかけていたサングラスを外して、胸ポケットにしまった。
その仕草に、なんだか少しだけ名残惜しいような気持ちになる。サングラス越しの横顔が新鮮で、つい何度も盗み見てしまっていたから。
──でもやっぱり、いつもの彼も、変わらず素敵だった。
私は彼に気づかれないように唇を軽く噛んで、にやけてしまいそうになる気持ちをどうにか抑え込んだ。
そんな私の邪な気配には気づかず、フロントガラス越しに広がる雪景色を見渡しながら、蓮さんはちょっと感動したように言った。
「すごい雪だね。薫にとっての冬って、こんな感じだったんだ」
蓮さんが驚いてくれたことで、私はなんだか嬉しくなった。豪雪地帯育ちはこういうとき、少しだけ自慢したくなるのだ。
「いいでしょ? 小学生のころ、祐介とか明日香ちゃんとか亮くんとかと一緒に、うちの庭にかまくらを作ったりもしたんだよ。もちろん、おばあちゃん主導でね」
「ああ、想像できる。おばあちゃんなら、きっと張り切って作っただろうね」
蓮さんはそう言って笑ったあと、ふと視線を前に戻した。
「……僕も、そこにいられたらよかったのに。きっと、楽しかっただろうな」
私は驚いて彼の横顔を見た。蓮さんはまっすぐ前を見つめたまま、口角をわずかに上げて、小さく付け加えた。
「気にしないで──ちょっと思っただけだから」
その声が、ほんの少しだけ切なく響いて、私は視線を正面に戻す。蓮さんは、それ以上深く触れられるのを望んでいないような気がしたから。
てっきりそのまま家に向かうと思っていたのに、蓮さんは車を大型商業施設の駐車場に滑り込ませた。
そこには、見覚えのある車──おばあちゃんのハスラーが停まっていた。中に乗っているのは、祐介一人だけみたいだ。
「もしかして、祐介と待ち合わせてたの?」
すぐに家で会えるのに──不思議に思いながら尋ねると、蓮さんは小さく「うん」と頷いてから、片手を挙げて祐介に合図をした。それ以上の説明は、しないつもりのようだった。
「蓮さん! 姉ちゃん! 久しぶりジャマイカ!」
ウィンドウを下げた瞬間、祐介が窓枠に手をかけて、満面の笑みで言う。
「久しぶりって……一緒に初詣に行ってから、まだ半月も経ってないよ。祐介、もう忘れたの?」
祐介は人差し指を立てて、チチチと横に降った。
「姉ちゃん、わかってないな。ヘンリー・ヴァン・ダイクも言ってるよ。『待つ者にとって、時はあまりにも遅く、恐れる者にはあまりにも速い。悲しむ者には長く、喜ぶ者には──』」
「はいはい、ヘンリーさんの話は後でゆっくり聞くから。とりあえず家に帰ろうよ」
「オッケー! それじゃ蓮さん、俺のあとについてきて!」
そう言って車に乗り込むと、祐介は家とは逆方向へ走り出した。
ぽかんとする私に、蓮さんは少し照れたように笑って言う。
「ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
国道から外れた道をしばらく進むと、道路端に何台かの車が並んで停まっていた。その列の最後に祐介が車を止め、蓮さんも後ろに続く。
ここって──明日香ちゃんちの畑だ。
祐介が車のラゲッジスペースから長靴を2足取り出して、私と蓮さんに渡す。
「はい、二人ともこれ履いて。ちょっとだけ歩くから」
わけがわからないまま長靴に履き替え、祐介のあとに続いた。ここは雪が吹きだまりにくい土地らしく、積雪量はせいぜい1メートルほどで少なめだ。しかも何人もの足跡で踏み固められていて、意外と歩きやすかった。
少し進むと、足元に灯されたキャンドルの光がぽつぽつと現れ、その先に何人もの人影が見えてきた。その中のひとりが、大きく手を振る。
「薫、久しぶり! 元気だった?」
「明日香ちゃん!?」
よく見ると、そこにいたのは亮くんや伊吹くんをはじめとした、懐かしい幼馴染や同級生たち。
そしてその奥には──大人が屈んで入れるほどの、なかなか本格的なかまくらが立っていた。
「みんな、久しぶり……でも、なんで?」
何が起きているのか、状況がまったくつかめない。戸惑いながら蓮さんを見ると、彼も驚いたように祐介を見た。
「祐介くん、まさか……ここまでしてくれるなんて、思ってなかったよ」
祐介は得意げに胸を張り、それから親指を立ててウィンクをしながら答えた。
「当たり前ですよ、蓮さん! ふたりのために一生の思い出に残るステージを作るって、俺、正月に蓮さんが作ってくれた雑煮に誓いましたから! いやぁ、あれは美味かった!」
かまくらの前で、スコップを持ったまま立っていた亮くんが、楽しそうに言葉を継いだ。
「そうそう。雪国の本気を見せてやろうって、このかまくら、1週間かけてみんなで作ったんですよ!」
幼馴染たちから拍手と歓声が湧き上がった。ますます、わけがわからない。
「ステージ……?」
ぽつりとこぼすと、斜め後ろから、蓮さんの小さな声が届いた。
「それについては……あとで話すよ」
「それじゃ、みんな。今日は姉ちゃんたちのためにありがとう! 明日以降、このかまくらはデートスポットになります!次の大雪まで、みんなで仲良く使ってくれよー!」
祐介の一声に、笑いがはじけた。そして、みんな揃って雪道を引き返し始める。
明日香ちゃんは私の手をぎゅっと握って、耳元で囁くように言った。
「かまくらの中に、お稲荷さんとあったかいお茶があるから、よかったらふたりで食べてね。それで──詳しい話は、あとでゆっくり聞かせてね! 楽しみにしてるよ」
そして満面の笑みで手を振りながら、ほかの仲間と一緒に立ち去ろうとする。
「えっ、ちょっと待って。え……もしかして、私たち、置いていかれてるの?」
誰に聞けばいいのかもわからず、私は戸惑いながら、みんなの顔をきょろきょろと見回す。
そのとき──背後から、優しい声がかかった。
「薫、ちょっと」
亮くんだった。
彼は私の背中にそっと手を添えて、蓮さんから少しだけ離れた場所へと導く。そして、雪に吸い込まれてしまうような、小さな声で言った。
「前に、俺が東京で蓮さんと食事したって話、聞いた?」
私は頷いた。──『田舎の生活』を書いたのが誰なのか、蓮さんが確信した、あの日のことだ。
亮くんはふっと笑って、それからさらに声を落とす。
「これ、本当は蓮さんに言うなって言われてたんだけどさ……」
ひと呼吸おいてから、彼は続けた。
「そのときの蓮さん、ずーっとお前の話ばかり聞いてきたんだよ。どんな子どもだったか、どんなものが好きで、何が苦手だったか……。挙げ句の果てには、俺のこと羨ましいってさ。小学生から高校まで、薫と一緒にいられたなんて、って」
その言葉に驚いて、私は目を見開いた。そしてすぐに、嬉しさで胸が熱くなる。
蓮さんが、そんなふうに言ってくれたなんて──
けれど、そんな気持ちを亮くんに悟られるのがちょっと照れくさくて、私は冗談めかして答えた。
「私たち、野山を駆け回ってばかりだったからね。もしその頃に会ってたら、幻滅されてたかも。亮くんもそう思うでしょ? そう答えた?」
亮くんは、ほんの少しだけ視線を伏せて、小さく首を横に振った。
「……いや。羨ましいのは俺のほうです、って答えた」
意外な答えに少し驚いて、私は思わず彼の顔を見る。
亮くんは少し笑って、それから子どもの頃と同じように、私の頭をぽんと優しく叩いた。
「──蓮さん、お前のこと、大事にしてくれるよ。だから……ちゃんとつかまえてろよ。じゃあな」
揺れながら雪を照らし出すキャンドルの光に背を向けて、彼は静かに歩き出す。
そして残されたのは、私と蓮さん、そして──静かにまたたく、満天の星空だけだった。