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第102話「前夜祭、酒場の二人」

 夜のストーンヘイヴン。魔石灯の照らす街路に箒で降り立ったラヴェンナは、この時間にしては珍しい人物と鉢合わせた。白い灯りが照らしたのは、アリアの手芸用品店からほくほく顔で出てくるマリー。普段日が昇るよりずっと早い時間に目を覚ましてパン屋で働く彼女は、日が沈むと共に眠っているはずだが……


「あら、マリー?」

「あ、ママ! 街で用事があるんですか?」

「これから酒場でちょっとね。マリーはお買い物?」

「えへへ、これを……」


 マリーは上着の下から紙袋を取り出し、中にあった物をラヴェンナへ見せる。それはぬいぐるみだった……真っ白でごわごわとしたもので身体を覆い、丸々としたやわらかボディで、くりくりとした可愛い黒の瞳を持っていた。


「ひつじさんです! ぎゅっとしてみてください」

「まあまあ、こんなにかわいい子をお迎えしちゃって……うーん、やわらかい」

「今日から寝る時は毎日一緒ですよ! あっ、そういえば、明日はワルプルギスですね! しっかり店長からお休み貰ったので、よろしくお願いします!」

「ええ。マリーも今晩はゆっくり休むのよ」

「はーい!」


 小さな魔女は「ひつじさん」を胸元に寄せながら鼻歌交じりで帰っていった。ラヴェンナはその後ろ姿に優しい微笑みをこぼすと、本来の目的地であった店を探し始める。前に一度来ていた場所のため、今回はすぐに見つけられた。


 扉を開けて件のお店へ入る。暖炉の作る穏やかな暖かさと、お酒の持つ上せるようなかぐわしさが一度に包み込んできた。暗く落ち着いた色のカウンター台は上から降りた何本もの蝋燭の明かりに照らされ、壁棚には古今東西様々な銘柄のワイン、シードル、リキュールが並び、色とりどりの瓶とラベルだけでも壮観な光景を成している。

 それを対面するように、カウンター席には白髪の女が一人で腰掛けていた。

 普段は騎士団長として街を守り、後続の育成に励んでいる彼女、カトリーナは仕事の時と違う軽装にマントを羽織って寛いでいる。テーブルには既にジョッキの地ビールが置かれ、その隣には香ばしい焦げ目のついたソーセージの皿が用意されていた。皿の端には、トマトを煮詰めた甘いソースとマスタードがあった。


「やあ、ラヴェンナ。もう始めてしまっていた」

「隣に座るわね……」

「ああ、もちろん」


 女騎士と魔女が並んで腰掛けた時、カウンターの裏手にある厨房から、青白いヴェールを被った女店主、メリュジーヌがするりと現れた。相変わらず艶やかな黒髪と白い肌は、彼女の細い目と相まって異国風のオーラを宿している。


「いらっしゃい、魔女様。何が飲みたい?」

「同じものを。ローストビーフと、パースニップの酢漬けピクルスもお願い」


 注文の後、ラヴェンナはカトリーナと二人きりになった。

 静かな夜だ。遠くの暖炉で薪が燃える音と、裏で料理が準備される音だけ……呼吸の一つさえもよく聞こえるような場所で先に切り出したのは、どこか緊張の残った面持ちのカトリーナだった。横顔が、暖色の光に優しく照らされていた。


「……明日、だな。ワルプルギスの夜は」

「ええ、そうね」

「去年の春、早夏祭を一緒に回った日のことを思い出す……あの時も良い時間を過ごした。今だって、昨日のように覚えている」

「肩の力は抜けたんじゃないの? 最近の貴女は特に楽しそうに見えるわ」

「そうか? まあ、ラヴェンナが言うなら、そうなんだろうな……」


 ラヴェンナの頼んだジョッキが運ばれてきた。二人で握り手を持ち、乾杯してから口を付ける。最初の一口目を一気に流し込んだ黒魔女は大きく艶のある息を吐いて、唇の周りに残った泡を舌でそっと舐め取った。カトリーナは横目を向けては口を結んで、その端をかすかに持ち上げていた。


「ラヴェンナ……貴女と出会えて、本当に良かった」

「なんだかくすぐったいことを言うのね。もしかして、もう酔ったの?」

「明日はきっと忙しくて、二人になれる時間は無いだろうと思ってな」

「ふふ、確かにそうね。見るべきものはいっぱいあるわ……貴女だって、仕事のことを忘れて色々回れるはずよ。普通の世界にはないものが沢山あるの」


 それからラヴェンナはいくつかのことを語った。

 ストーンヘイヴンでは見られない食べ物や、夢の中でしか聞かないような効能の薬、とても珍しい鉱石の置物に、いつの時代の物かも分からぬ本。魔女たちが密かに紡ぎ続けた独特の文化はカトリーナの興味を強く引いていった。それでも彼女の緑の瞳はラヴェンナへ向けられたままだったが。

 後から頼んだ料理も到着する。ラヴェンナはローストビーフをフォークで器用に折りたたんでから黒々したソースにつけていただいた。冷たく、しっかり詰まったような旨味を堪能しながらジョッキを空けて二杯目を要求する。その間に、黒魔女は皿をカトリーナの方へ少し寄せた。女騎士は意図を察すると同じようにそれを酒の肴として、残っていたビールを一息に流し込んだ。


「んん……」

「ラヴェンナ? 疲れてるのか」

「大丈夫よ、ちょっと準備があっただけ。目を閉じてぼうっとすれば……」


 そう言ってラヴェンナはうんうんと首を振り、頬杖を突いたまま眠りに入ってしまった。それがとても穏やかなものだったから、カトリーナは隣の席から静かな寝顔にそっと見入っていた。

 皆から慕われる「幻想の大魔女」であり、魔法に関する師匠であり、かつては育ての母としての顔も持っていたラヴェンナの過去は、本人が覚えているよりも複雑で底が知れない。しかしそんな彼女がいま晒している姿は何よりも、平穏な暮らしを願う一人の女性として、カトリーナの目に等身大に映ったのだった。



◆ ◆ ◆



 カトリーナはしばらくの間、酒場で一人の時間を愉しんでいた。いつしか差し出されていたグラスで赤いワインを傾けながら、隣で眠る黒魔女にすました顔で視線を送る……時にはやや首をかしげて下から覗き込んでは、まるで無防備な姿を眺めて機嫌良く酒をいただいていた。


(うん、うん……なかなか、こうしているのも良いものだな)

(そうだ、そろそろ水を出してもらうか。メリュジーヌは――)


 店主に声をかけようとあたりを見回すが、カウンターの中に彼女の姿は見えなかった。名前を二度呼びかけるも、カトリーナの声は静かな酒場にその度響いてから、ふっと吸い込まれるように消えていくだけだった。

 珍しいことである。普段ならメリュジーヌは、呼べば必ず来られる位置にいるはずなのだが……カトリーナは目を大きくして席を立っていた。


「メリュジーヌ?」


 ラヴェンナはまだ眠りについたままだった。一抹の不安に駆られたカトリーナはカウンター台に沿って歩き、裏の厨房を覗こうと試みる。しかし、奥の部屋は外からでは窺えないつくりになっていた。

 改めて店内を見渡すも、やはりそこに彼女の姿は無い。

 仕方なしに、カトリーナは多少の無礼を心の内で詫びながら、カウンターの奥へ続く腰の高さほどの扉を開けて、この酒場のバックヤードへと立ち入った。


「……ん?」


 メリュジーヌはいない。そして何か、言葉にしがたい違和感があった。

 匂いは――問題ない。美味しい料理と酒が作られる場所ではこのような雰囲気だろうと違和感なく受け入れられる範囲だ。妙な不穏の元となっているのは厨房の床に残っている「跡」であり、まるで何か太いものが、蛇のようにずるずると日常的に這い回っているかのような印象を受ける。

 酒の入ったカトリーナは、どこか魅入られた様子でその跡に向かって前のめりになって、厨房に仕掛けられた謎を解こうと試みた。しかし。


「カトリーナ、ここは立ち入り禁止スタッフオンリーよ?」


 するり――

 突如、後ろから「長い尻尾」が伸びてきて、カトリーナの腰に巻き付いた! 咄嗟の反応を試みるも、飲んだ直後の身体はどうしても思うように動かない……その間にもカトリーナは全身をぎゅっと締め付けられて尻餅をつかされ、あの、馴染みのある女性に近く迫られる。

 姿を見たカトリーナは目を大きくして驚いた。今の自分に絡みついているのは人間の上半身と蛇の尻尾を持った魔物――蛇人ラミアだったのだ!


「なっ――メリュジーヌ!?」

「ウフフ、今日はいいものがいっぱい見られたから、気分が上がっちゃったわ」


 至近距離で見つめられたカトリーナは困惑の中で必死に頭を回す。そして思い至る。今までメリュジーヌと何度も対面して話した経験はあれど、彼女の下半身はただの一度も見たことがなかった――

 カウンターの裏にはこの身体が隠されていたのだ。彼女が左右へ移動する姿もどこか滑るようなものだったのを今更ながらに思い出していた。カトリーナは、今の自分がどんな状況か分からないまま、不敵な笑みを浮かべる女店主に唖然とした顔で聞き返す。


「どうしたんだ、そんな目をして……」

「どうもこうもないわ。貴女のことを感じたくなっただけ……」

「……いったい、いつから」

「ずっと最初からよ。でも、もう終わり。一度だけで良いから、悩める団長様を尻尾で巻いてみたかったのよね。ところで……」


 メリュジーヌの尻尾は離れ、カトリーナは解放された。彼女は頭に被っていた青白いヴェールの向こうで歯を見せると、未だ座り込む女騎士へ悪戯っぽい声で囁きかける……


「あなたの方こそ……さっきまで熱っぽい目をしていたようだけれど、いったいどうしちゃったの? 私のことは一度たりともそんな目で見なかったのに……」

「……えっ?」

「気付いてなかったの? あらやだっ、胸がキュンキュンしてきちゃった」


 メリュジーヌは両手を頬に当てると満面の笑みとなり、一人で勝手にはしゃぎ始める。彼女の言葉を頭の中で反芻していたカトリーナは、しばらく遅れてからその言葉の意味を理解すると、全身がかっと燃えるような心地に変わった。

 それがどのようなものかを言葉にするのは憚られた。分かりやすく俗な言葉に置き換えてしまえば、彼女の胸中でじっと燃え続けるこの気持ちが、ありふれたつまらない意味に侵食されて元の輝きを失ってしまうのではないか――


「カトリーナ、今日はお店の個室を使わせてあげる。もう夜も遅いし、眠るならベッドがあった方が良いでしょ? 鍵を渡しておくから、うまくやりなさいな」

「うまくって、ちがうっ、そういうのじゃ……」

「ほらほら、カッコいい騎士様っぽく、魔女様のことをエスコートしなきゃ」


 メリュジーヌは壁に並ぶフックの一つからキーリングを外すと、そこから一本だけを選んで抜き取ってカトリーナに握らせた。冷たい真鍮の鍵が妙に火照った身体を落ち着かせるようだった。

 カトリーナは急かされるままカウンターの外へ戻される。それから、未だ席でうとうとしている魔女に近づき……僅かに迷った後、横から肩を優しく叩いた。


「ラヴェンナ……部屋を借りたから、そこで休むぞ」

「んん……? んん……」



◆ ◆ ◆



 二人が入った個室は、以前に彼女たちが利用していたものとまったく同じ部屋だった。縦に長い部屋の入り口には物置とクローゼットが備えられ、て真っ直ぐ奥には広い机と椅子があって、上には暗がりを照らすためのランタンが置かれている。

 眠る支度のためにぼんやりとした灯りをつけると、あの時と同じベッドがぼうっと浮かび上がった。大人が並んで眠れる幅はあるものの、互いの忍耐と多少の思いやりは必須となるものだった。カトリーナは未だふらつくラヴェンナを支えながら、肌着姿へ変わる手伝いをしていた。


「ラヴェンナ、どうしてそこまで疲れて……」

「……入り口を、きれいにしていたのよ。明日になって使えない、ってなったら大変でしょ? ついでに結界のメンテナンスも済ませたわ」


 ゆっくりと、むにゃむにゃと返事したラヴェンナは楽な姿に変わるとそのまま布団の中で仰向けになった。安らかで美しい顔が温かい光に濡れていた。

 カトリーナはそれを見下ろして、若干酔いの醒めてきた頭で次の行動に迷う。


「……」

「貴女は、眠らないの?」

「ああ、すぐにそうする」


 女騎士は纏っていた軽装を外し、肌を晒した姿となって、この狭苦しい個室に備えられた使い古しの掛け布団へ二人目として潜り込んだ。まだ冬の寒さが残っていたせいか、酒の力を借りてもなお、若干の間だけ身を添えて眠ることが求められる……カトリーナは少なくともそのように頭で考えてラヴェンナへ近づく。

 甘く、むせるようなバラの濃い香りだ。

 穏やかな顔で目を瞑る黒魔女の横で、カトリーナはもう少しだけ顔を寄せた。鼻先が頬に触れんばかりの距離で深呼吸を行って、じっと熱の入った目を向けている最中。ラヴェンナは嬉しさと鬱陶しさを半々にした声で反応した。


「……もう、近いわよ」

「わかっている……」


 片腕をとったカトリーナは、次に魔女の手を両手でそっと握りしめる。彼女は眠気に耐えられなくなったのか、大きな欠伸の後に優しく声をかけた。


「いいわよ、勝手にしなさい……」


 しばらくも経たないうちにラヴェンナは眠りについた……

 残された女騎士は身体と身体が触れるまでに近づいて、いまだ寒さの残る早春の夜を和らげるために――そのように自分へ言い聞かせながら――黒魔女に向かって両腕を回して包み込む。そのまま、無防備になっていた首元へ唇を寄せて、水っぽい音をつけながら目を閉じて、心地よい安寧に浸り続けた。


(何をやってるんだろう、私は……)

(……)

(まあ、いいか)


 年季の入ったバラの香りにシトラスのそれが入り乱れ、目に見えぬ花が咲かせられたように、あたりの空気は甘いものへ変わっていく……

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