時は少し遡り、ジュドーのあらぬ噂が学園に飛び交い始めた頃。
「────こぉぉぉんの、ド変態ぃぃぃぃぃ!!!」
ばちーんっ!!
湖の畔には、勢い良く振り下ろした私の手のひらによりジュドーの頬を思い切り打ち付けた音がエコーをかけたかのように鳴り響いていた。
突然この場にジュドーが現れたことにも驚いたが、その姿にもさらに驚いていた。私の前に現れたと同時になにか鷲掴みにしていた白いモフモフを後方に放り投げていたし……いや、もしかしなくてもあれってジュドーの守護精霊なんじゃないの?!
さらに乱れた服装からは明らかに女性のものであろう甘ったるい香水の残り香が漂ってくるし、そのやけに焦った様子は明らかにただならぬ雰囲気を纏っている。理由なんて知りたくもないが、なぜだかその肌は汗でじっとり濡れていた。そんなジュドーにこれまたなぜか突然抱き締められたのである。しかもかなりの密着具合だ、驚かないわけがない。いくら女誑しのチャラ男キャラだからって悪役令嬢に対してまで節操がないにもほどがあるのではないか。
そのわけのわからない状況に、眠っていたはずの小さなフィレンツェアも危険を察知したのか即座に目を覚まし私の中で悲鳴をあげたほどだ。その時の私と小さなフィレンツェアは信じられないくらいシンクロしたと言っても過言ではないだろう。
そしてジュドーの手が緩んだ瞬間、私が手を上げるのと同時と言ってもいいくらいの勢いで小さなフィレンツェアも心の中でその手を振り上げていたのである。
多分ではあるが、小さなフィレンツェアはアルバートにそこそこな好意を抱いていると思う。そのアルバートの目の前でどちらかと言うとあまり良い印象の無いジュドーに抱き締められたのだから悲鳴くらいあげたくなるだろう。もちろん私だってあんなに人のことを馬鹿にしてきたジュドーに抱きつかれて不快感しかない。
まぁ、つまりは冷静さを失ってしまい思わず力いっぱい殴ってしまったわけなのだが……。ジュドーの体は弧を描くようにして吹っ飛び、その顔は赤く腫れ上がってしまっていた。それを見て、ちょっとだけ冷静さを取り戻した私は首を傾げたのだ。
……あれ?私ってこんなに力、強かったっけ?
いくら悪役令嬢だとは言え、特別に腕力が強いとか怪力能力があふみたいな設定はなかったはずだ。本来ならば男性の顔をあれだけ力いっぱい殴ったら私の手だってそれなりに負傷しそうなものである。しかしジュドーを殴る瞬間、いつもより体が軽くなり手のひらには力がこもっていたし、もちろん痛みもない。
「……っ!」
咄嗟の事とはいえ、捻挫くらいは覚悟していたのだが───と、思わず自分の手のひらを見るとほんの一瞬だけ青白い輝きが見えた────気がした。思わず辺りを見回すがもちろん
「……」
「フゴフゴ……!」
吹っ飛んだジュドーは、倒れた格好のままなにやら口をモゴモゴとしている。両腕をぶらんと力無く広げたままジタバタともがく様子は、申し訳無いが少し気持ち悪いと思ってしまったほどだった。
「これはまた……嫉妬ですかね?」
「え?」
ジュドーのもがく様子を見てアルバートが何か呟いたがよく聞こえなかった。聞き返したが「いえ、何も」と口元に笑みを浮かべるばかりだ。再び目元は隠れたままになっているが、なぜか以前よりも表情がわかるような気がするのはやはり小さなフィレンツェアのおかげなのだろうか。
「ところで、フィレンツェア嬢は怪我などしていませんか?あなたの中の“小さなフィレンツェア”も……」
その言葉に小さなフィレンツェアが飛び跳ねるように反応してしまう。変に小さなフィレンツェアが喜び出すと私までそわそわしてしまうから困るのだが。
「だ、大丈夫……ですけど、その呼び方は……」
「おや、あなたの中に眠るフィレンツェア嬢の事はそう呼ぶのでは?もう僕にとってはおふたりは別人格の存在ですし、呼び分けがあったほうが助かるのですが……」
こてりと首を傾けて来た反動で揺れた前髪からチラッとまたあの赤い瞳が見え隠れした。こちらの気持ちを見透かすような深く赤い色をした瞳と視線が重なるとまたもや小さなフィレンツェアが騒ぎ出してしまう。
「……もう、好きに呼んでください。でもこの事は他の人には内緒にしてくださいね。二重人格だなんて噂まで流れたら面倒くさいし、小さなフィレンツェアはいつもは表に出てこないんですから」
「それはもちろん。それに
少し寂しそうに笑うアルバートの姿に、胸がドキッと狼狽えてしまう。確かにアルバートの秘密は国を揺るがす大問題だろう。だが、もちろんその事を広める気なんて最初からない。
「……小さなフィレンツェアが望まないことをする気はないわ。私はただ、アオについて知っていることを教えて欲しいだけ……。ねぇ、お願いよ。アオが居なくなってしまって、私はどうしたらいいのかわからないの……」
「それは────」
アルバートの視線がチラリと空中を見た気がした。そして私に視線を戻すと、そっと人差し指を自分の唇に当てて小声でこう言ったのだ。
「……男同士の約束なので、言えません」と。
それがどうゆう意味なのかと聞く間もなく、アルバートは何事も無かったかのように未だもがいているジュドーに向き直るとその場に膝をつきジュドーの腕を触ろうと手を伸ばした。
「……とにかく、ジュドー殿下を始末をどうしましょうか。一応、彼は隣国の王族ですからね。何かあってはこちらが不都合でしょうし、誰かに見つかる前にどうにかしておかないと────」