冷え込む朝、グレアスは執務室の窓から外を眺めていた。
城下町では日常が営まれているように見えたが、彼の心は安堵からはほど遠い。
数日前から、ロレアス王国が不穏な動きをしているという報告が立て続けに上がってきていた。
そして、ついにそれを裏付ける確固たる情報が彼の元へ届けられた。
臣下が持ち帰ったその情報には、ロレアス王国が大規模な兵の動員を進めていること、さらには新しい兵器の開発を急いでいるということが詳細に記されていた。
「殿下、これは信頼できる筋からの情報です。ロレアスが戦争の準備を進めているのは間違いありません」
書簡を手渡した側近がそう告げると、グレアスは無言のままそれを読み返した。
国王としての父から受け継いだ外交手腕と知略を駆使してきた彼だが、今回ばかりは事態の深刻さに頭を悩ませざるを得なかった。
「戦争か…」
グレアスは静かに呟いた。
それは単なる言葉ではなく、自らに課せられた責任を再確認する儀式のようなものだった。
彼の心には、国民を守りたいという思いと、クレアや家族、友人たちの安全を脅かしたくないという個人的な感情が複雑に絡み合っていた。
彼はすぐに父王の元を訪れ、報告を行った。
国王はすでに事態の一端を把握していたが、息子からの詳細な説明を聞くと、深い溜息をついた。
「グレアス、お前がこれまでに成し遂げてきたことを誇りに思う。しかし、戦争は言葉では収められない場合もある。相手がこちらに牙を剥くつもりであるなら、我々も覚悟を持たねばならない」
その言葉に、グレアスは一層の重圧を感じた。
自国を守るための決断を迫られる状況は初めてではなかったが、今回のように明確な敵意を突きつけられたのは初めてだった。
執務室に戻った彼は、情報を整理するために机に向かった。
ロレアスがこちらに向けて準備している兵力の規模、戦争に至る理由、そして外交で解決する可能性の有無を一つ一つ検討した。
「ロレアス王国は一体何を考えている?」
グレアスは地図を広げ、ロレアス王国の動きを推測した。
彼らは軍事力において一定の強さを誇るものの、戦争を仕掛けてくるにはリスクが高すぎるようにも思えた。
特に、ジュベルキン帝国と同盟を結ぶ自国に対して戦争を起こせば、国際社会からの非難を受ける可能性もある。
「それとも…ジュエルド自身の焦りが原因か?」
彼は、かつてクレアに婚約破棄を言い渡し、その後妹レイルと結婚したジュエルド王の姿を思い浮かべた。
クレアから聞いた話によれば、彼は自分の立場や体面を何よりも優先する性格だという。
その性格が外交問題をさらに悪化させているのではないか、と推測した。
「しかし、理由がどうであれ、私たちは備えなければならない」
彼は自らに言い聞かせるようにそう呟いた。
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翌日、グレアスは臣下たちを招集し、緊急会議を開いた。
彼の右腕として信頼される将軍エリオットが最初に口を開いた。
「殿下、ロレアスが戦争の準備を進めている以上、我々も防衛体制を強化すべきです。ただし、こちらから挑発するような動きは避けるべきでしょう」
「その通りだ、エリオット。しかし、我々が防衛に専念する一方で、彼らが奇襲を仕掛けてくる可能性もある。その場合、民間人が危険にさらされることになる」
グレアスの言葉に、一同は黙り込んだ。
戦争が起これば、犠牲は避けられない。
それを最小限に抑えるための方法を模索しなければならないのだ。
「まずは外交的な接触を試みるべきだ」
とグレアスは提案した。
「ロレアス王国が本当に戦争を望んでいるのか、それとも別の意図があるのかを確認する。もしそれが無理だと判断すれば、その時に次の手を考えよう」
家臣たちはその提案に同意し、すぐに行動を開始することになった。
会議が終わり、執務室に戻ったグレアスは、疲れた表情を浮かべて椅子に腰掛けた。
ふと、彼の頭に浮かんだのはクレアの笑顔だった。
彼女の存在は、彼にとってこの上ない癒しだった。
しかし、彼女を戦火に巻き込む可能性を考えると、胸が締め付けられるようだった。
「クレア…君を危険な目に遭わせたくない」
彼は静かに呟いた。
彼女に何があっても守り抜くという決意は、戦争が現実味を帯びる中でさらに強くなっていた。
数日後、ロレアス王国との交渉が難航しているという報告が入った。
彼らは表面上は和平を装っているが、裏では軍備を増強しているのが明白だった。
グレアスは、ついに戦争の可能性を現実として受け入れざるを得なくなった。
「覚悟を決めるしかない…」
彼は剣を手に取り、その冷たい感触を確かめるように握りしめた。
守るべきものがある限り、彼はどんな困難にも立ち向かう覚悟を決めたのだった。
ロレアス王国の不穏な動きは、日を追うごとにその輪郭を明確にしていった。
グレアスの元には、密偵や臣下たちが持ち帰る報告が次々と積み上がり、事態の深刻さが浮き彫りになっていく。
「ロレアスは軍を集結させているだけではありません。農作物を強制的に徴発し、貴族たちには寄付という名目で資金を集めさせています。これは本格的な戦争準備と見て間違いありません」
密偵の一人が持ち帰った情報に、グレアスの眉間に深い皺が寄る。
「寄付だと?戦争の大義名分すら掲げず、無理な徴収を行えば、いずれ民衆は不満を募らせるだろう。…だが、ジュエルドがそこまで追い詰められているのか?」
彼は無意識に握った拳を緩め、ため息をついた。
「グレアス殿下」
側近のエリオットが声をかける。
「この動きは、明らかにジュベルキン帝国を敵視している証拠かと。問題は、彼らがなぜ突然これほど焦り始めたのか、という点です」
「焦りか…」
グレアスは机に広げられたロレアスの軍事配置図に目を落とした。
ジュエルドは短期間で軍備を拡張しているが、それは裏を返せば、長期戦を想定していないことを意味する。
彼らが狙っているのは、電撃的な侵攻───つまり奇襲の可能性が高い。
「だが、なぜ今なのだ?ジュエルドの性格からして、計画性のない行動を取るとは思えない」
彼は考えを巡らせながら、密偵たちにさらなる調査を命じた。
その日の夜、グレアスはクレアの部屋を訪れた。
彼女にはできるだけ穏やかな日々を過ごしてもらいたいと思っていたが、今回の事態は彼女にも知らせるべきだと判断した。
「グレアス様、いらっしゃいませ」
クレアは微笑みを浮かべながら迎え入れたが、彼の顔を見るとすぐに表情を曇らせた。
「何かありましたか?」
「少し、話がある」
グレアスは椅子に腰を下ろし、クレアに向き直った。
そして、ロレアス王国が不穏な動きを見せていること、戦争の可能性があることを手短に説明した。
「そんな…ロレアス王国が?」
クレアの顔に動揺が走る。
彼女にとってロレアス王国は過去の苦い記憶の地だったが、それでも戦争という事態には心を乱されずにはいられなかった。
「クレア、君に何かを強いるつもりはない。ただ、今後何が起こるかわからない以上、君には万が一の時のために準備をしてほしい」
グレアスの言葉に、クレアは少しの間考え込んでいたが、やがて真剣な眼差しで頷いた。
「わかりました。私にできることがあれば、教えてください。…でも、あなたも無理はしないでくださいね」
その言葉に、グレアスの胸はわずかに軽くなった。
彼女の支えは、彼にとってかけがえのないものだった。
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数日後、密偵たちが持ち帰った新たな情報は、グレアスの懸念を裏付けるものだった。
ロレアス王国が秘密裏に各国へ使者を送り、ジュベルキン帝国に対する敵対姿勢を表明しているというのだ。
「彼らは名分を整えるために外交工作を始めています。我々を『傲慢な覇権主義者』として非難し、正義を掲げる立場を取ろうとしています」
報告を受けたグレアスは、ついに覚悟を決めた。
これ以上の放置は、自国の危機を招くだけでなく、国民の安全を脅かすことになる。
「戦争を避けるための努力は尽くした。だが、相手がこちらを標的にする以上、我々も動かざるを得ない」
彼はすぐさま父王に会いに行き、最新の情報を共有した。
父王もまた、厳しい表情で頷き、軍を動かす準備を指示した。
そして、ロレアス王国が正式に宣戦布告を行ったという報せが城に届いた時、グレアスはその手紙を黙読しながら深いため息をついた。
「彼らが自ら火種をまいた以上、こちらが取るべき道は一つだ」
彼の決意は固かった。
だが、その裏で、戦争の行方がどのような結果をもたらすのか、誰にも予測することはできなかった。
ロレアス王国の宣戦布告により、ジュベルキン帝国とその周辺諸国は緊張の極みに達した。
グレアスはその中心で、自国を守るための準備を着々と進めていた。
彼の胸には重責がのしかかっていたが、それでも彼は自分の信じる正義のために立ち向かう覚悟を持ち続けていた。
「すべては、愛する者たちと国民を守るために」
彼は剣を握りしめ、次なる行動を見据えていた。
その先に待ち受けるのは、激しい嵐のような戦いの日々だった。
薄暗い夜明けの空の下、ジュベルキン帝国軍の野営地が目覚めを迎えつつあった。
無数のテントが整然と並び、その間を行き交う兵士たちの足音や、鋭く響く指揮官の声が戦場の緊張感を醸し出している。
火の起こされた焚き火の上で煮込まれる簡素なスープの香りが漂う中、隊列を整える準備が進んでいた。
グレアスは野営地の中心に建てられた、ひと際大きな指揮官用のテントから姿を現した。
その表情には、冷静さと鋼のような覚悟が宿っていた。
彼は甲冑の肩当てを軽く調整すると、副官であるエリオットに指示を出した。
「全兵士を集めろ。戦場へ向かう前に、言葉を贈りたい」
エリオットは頷き、部隊全体に号令を伝えるべく駆け出した。
大規模な広場となっている野営地の中央に、大勢の兵士たちが集まった。
誰もが緊張の面持ちで静まり返り、指揮官であるグレアスの登場を待っている。
彼らの甲冑は朝日に照らされて鈍い光を放ち、剣や槍が整然と並ぶ姿はまるで嵐の前の静けさを象徴していた。
グレアスが高台へと歩を進めると、兵士たちの視線が一斉に彼に注がれた。
静寂が深まり、彼が最初の言葉を発するのを待つ張り詰めた空気が漂う。
彼は軽く喉を潤し、集まった兵士たちを見渡した。
若者から壮年まで、彼らはそれぞれの理由でここに立っていた。家族を守るため、祖国を守るため、あるいは己の誇りのため。
彼らの眼差しは真剣そのものだった。
「――皆、聞いてくれ」
グレアスの声が響き渡ると、場の緊張が一層高まった。
「君たちは、このジュベルキン帝国の盾であり、剣である。我々の国は長きにわたり繁栄を享受し、多くの民が平和の下で暮らしてきた。しかし、その平和が今、危機に瀕している。ロレアス王国───かつては我々と友好を築いた国が、野望に飲まれ、戦争の火種を撒こうとしている」
彼は一瞬言葉を切り、兵士たちの目を見据えた。
彼の中に燃える炎が、兵士たちに伝わるようだった。
「この戦いは、ただの領土争いではない。彼らの手が我々の国境を越えれば、次に狙われるのは君たちの家族だ。子どもたちの笑顔を、母親たちの安息を、そして我々が築いてきた自由と誇りを奪われるだろう」
その言葉に、兵士たちの顔つきが徐々に変わっていった。
恐れと不安の中に、小さな決意の火が灯り始める。
「我々はこの地を守るだけではない。平和を取り戻すために立ち上がるのだ。だが忘れるな、我々の剣は復讐のために振るわれるものではない。我々は正義と共にある。そして、正義は必ず勝利を手にする!」
その最後の言葉に、兵士たちの中から歓声が上がり始めた。
歓声は次第に大きくなり、ついには広場全体を埋め尽くすような熱気となった。
演説を終えたグレアスは、副官たちに目配せをして具体的な指示を出し始めた。
武器と食料の確認、騎馬隊の整列、戦略の最終調整。
次々と命令が飛び交い、野営地全体が戦争の準備に向けて動き出した。
グレアスはふと、自身の剣を見下ろした。
その冷たい刃に映る自分の顔は、かつての自分とはどこか違って見えた。
「これは、守るための戦いだ」
彼は心の中でそう繰り返し、自分に言い聞かせた。
たとえどれほどの血が流れることになろうとも、彼は自国を、愛する者たちを守るために、この戦いを避けるつもりはなかった。
夜が明けたら、戦いの幕が上がる。
ジュベルキン帝国の運命を賭けた戦いが、いよいよ始まろうとしていた。