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第63話 全部が終わったら

 そういうところはアイドルとして、やはり場数として踏んでいるのだろう。


「じゃあ計っていきますね」


 綾乃は一度深呼吸をし、まずは肩幅から測り始めることにした。彼の背後に回り込み、メジャーを両手に持って広げる。そして丁寧に、左右の肩の端にそっと当てた。アルの体温がメジャー越しにわずかに伝わり、その一瞬だけ彼女の指先が固まる。

 そして数字を目で追った。記録用のメモ帳に正確な数値を書き留めると、次に胸囲を測るため、アルの前へと回る。


「失礼します」


 その一言を添えて、メジャーをアルの胸元に回し、背中へと滑らせた。彼のシャツ越しに感じるしなやかな筋肉のライン。服の上からでも分かるほど、彼の身体は無駄なく引き締まっている。彼女は無意識に息を潜め、慎重に数値を読み取る。


「少し息を楽にしてくださいね」

「はい。大丈夫ですよ」

「次は腕をお願いします」

「はい、どうぞ」


 アルは従順に片方の腕を水平に上げた。綾乃は手早く袖口から肩先までの長さを測る。柔軟そうな関節、手首の骨の細やかな形に目が行くが、そこに意味を込めるわけではない。プロとしての目線を保ち、あくまで「デザインのために必要な情報」として数値を残す。

 彼の片腕を終えると、今度は反対の腕へ。左右に大きな誤差がないかを確認する。測りながら彼の指先がわずかに動くのを見て、彼女は思わず言った。


「緊張していないんですね」

「……いいえ。こういうのは結構久しぶりだから、実は緊張してますよ」


 アルの返答は淡々としていたが、その短い言葉が、彼は落ち着いているのを表しているかのようだった。

 綾乃は小さく笑みを浮かべて囁くように言った。


「ならよかったです」


 次に腰回り、そして脚の長さへと移った。メジャーを彼のウエストに軽く巻き付け、余分な力がかからないように注意を払う。その際、少しでも服が皺にならぬよう、彼女の手つきはいつも以上に慎重だった。



「すごいんやなあ、あのお姉さんも」

「はい、やっぱりそう思いますよね?」


 その手際の良さに、初対面の京志郎だけではなく、桃花も驚きを隠せなかった。確かに売れっ子だとは聞いていたが、ここまで丁寧に仕事をしているなんて。

 綾乃は測定の最中、ふと彼の足元に視線を落とす。 最後に裾の長さを測り終えると、綾乃はゆっくりと立ち上がった。メジャーを巻き取りながら、一通りの数値をメモ帳に書き加える。すべてが終わったことを確認すると、彼女は深く息を吐いた。


「ふう……これで採寸は終わりです。ご協力ありがとうございます」


 綾乃が言うと、アルは再び軽く頷いた。彼の表情に変わりはないが、その視線が彼女を静かに見つめていることに気づき、綾乃は不意に目を逸らしてしまった。


「……ちょっと、桃花いいかな? すいません。少しだけ席を外しても良いですか?」


 そして真剣な顔をして綾乃は桃花を呼び寄せた。もちろんこの場の主役は、写真集を作るモデルであるアルなのだが、このことの一切を取り仕切っているのは名目上は桃花なのだ。何か気になることがあれば、それに対して聞いてくるのは当然のことだった。


「どうかしたの?」


 アルと京志郎には聞こえないように廊下に出てから、桃花が尋ねると綾乃は真剣な顔をしたまま言った。


「すごいね、この人」

「すごい?」


 何がすごいと言うのだろうか。その理由がよく分からなくて聞き返すと、綾乃はまた首を振った。


「なんていうか、アイドルみたいだった。筋肉とかそういうもの全部綺麗に見えるように、計算してトレーニングしてるって感じ。なんていうか、普通の人じゃないよ、あれ」

「なんで、それを今更……?」


 そこまで言われても、桃花にはぴんとこなかった。

 綾乃と違って、桃花はアルの正体を知ってしまっている。それに彼は何度も会ったことがあるから、彼がモデル向きの体験をして、それに対してトレーニングをしていることも、なんとなく察してはいた。だが、それをわざわざ綾乃が伝えてくる意味がよく解らなかったのである。


「……桃花が、なんだか、あんな人に肩入れするのが不思議だなって思ったから」

「え?」

「だって、前のあの男だって、確かに顔は綺麗だったけれど、結局はひどい捨て方をしたでしょう?」

「それは……」

「だから、同じような男に引っかかるんじゃないかって心配だったんだけど。なんて言うか、その心配を上回る感じのうさんくささというか……」

「……うん」

「実はなんとなく分かってるんだ。私にあえて言ってないこともきっとあるんだよね?」


 そういわれて、思わず桃花の肩が揺れた。


「あ、あの、綾乃、それは……!」


 確かに隠してることはある。しかしそれは、今の綾乃に言ってしまえば動揺が広がって仕事をしてもらえなくなるかもしれない。もしくはその情報がどこからか漏れてしまったら、アルだけではなく、綾乃自身も危険にさらされる可能性があるからこそ、黙っているのである。

 ストーカーが今、どこで何をしているのかわからないのだから。

 だからこそ、彼女には今はまだ、巻き込まれてほしくなかった。


「でも、無理に言う必要はないから」

 しかし、綾乃は桃花が思っているよりもよほど強かった。

「え?」

「だって、桃花がそこまで黙っているってことは、それなりに大事なことなんでしょう? ちゃんと黙っておいて。こんなところで揺らいだらダメだよ。確かに胡散臭いけど、でも騙そうっていう感じじゃない。私のそういう勘はちゃんと当たるんだから」

「……綾乃」


 思わず優しい言葉をかけられて、桃花はうなずくしかなかった。

 もちろん、彼女に対して本当のことを言えない罪悪感。しかし、それも受け入れて、こうして付き合ってくれているというのだから、それが嬉しくてたまらなかった。


「……もしも全部終わったら、今度こそ話を聞いてくれる? その時はきっと、全部言えるはずだから」


 もしも、この計画が上手く行ってアルが櫻木昴に戻ることを諦めてくれたのならば、その時はきっと全部告げても大丈夫だろう。


「うん。その時は全部聞かせて。桃花とあのイケメンがどこで出会ったとか全部」


 綾乃はそれに嬉しそうにうなずいてくれた。


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