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第66話 あなたと二人きりで

「守るだけがいいことじゃないですよ。それにこれはお二人の問題だろうし」


 そのあっさりとした言葉は一見、桃花を見捨てているようにも聞こえたが、その本当の意味は桃花のことを考えてくれているのだろう。


「だから、桃花も行っておいでよ」


 そうやって笑顔で手を振ってくれる。それがなんだか妙に心強くて、桃花は綾乃にだけ聞こえる声で言った。


「……ありがとう」


 桃花は小さな声で綾乃にお礼を言った。自分だけに聞こえるほどのかすかな声だったが、それをしっかり受け取った綾乃は、にっこりと微笑んで返す。


「どういたしまして」 


 その簡潔な返答が、桃花の背中をそっと押してくれるようだった。桃花は小さく頷き、気を取り直して会議室の机に置かれた資料に手を伸ばす。


「じゃあ、会議の資料をまとめてから……外に出ますね。


 そうアルに伝えると、彼は満面の笑みを浮かべながら、少しだけ身を乗り出してきた。その動きにはどこか親しげで、油断ならない雰囲気も併せ持っている。


「逃げないでくださいね」


 化粧をしているせいなのか、いつもよりも整っているように見えるその顔でそういわれた。

 その一言に、桃花の心臓が一瞬だけドキリとした。アルの言葉には柔らかい笑顔が添えられているのに、まるで彼の目が桃花の心の中まで見透かしているかのようだったからだ。


「逃げませんよ」


 桃花は慌てて笑顔を作りながら返答する。ここで挙動不審な態度を取れば、アルに付け入る隙を与えてしまいかねない。それだけは避けたかった。

 アルは満足したように「それはよかった」と言って、そのまま部屋を出て行った。その余裕たっぷりの態度が、桃花にはどこか癪に障るようにも感じられたが、ここで余計な反論をしても仕方がない。


「まあ……それで桃花お姉さんがええんならええけどなあ」


 横目で京志郎を見ると、彼はまだ不満そうな表情をしていた。だが、それ以上は何も言わないつもりのようで、ただ小さく溜息をつくだけだった。

 一方、綾乃は何事もなかったかのように資料を整理している。桃花が「ありがとう」と言った時の微笑みをそのまま維持しているようで、その表情に桃花は再び少しだけ勇気づけられた。

 資料をまとめ終えた桃花は立ち上がり、肩にかけていたカバンを持ち直した。


「それじゃあ、行ってきます」


 その言葉に、綾乃が小さく手を振って応じた。


「行ってらっしゃい」


 背中を押されるようなその言葉を聞きながら、桃花は意を決して会議室を出た。廊下に出ると、待っていたアルが柔らかな笑顔でこちらを見ていた。


「じゃあ、行きましょうか」


 その言葉に、桃花は小さく頷くしかなかった。


「……ええ、お願いします」


 そうして二人は並んで歩き始めた。心の中で、桃花は「逃げない」と決めた自分を少しだけ奮い立たせていた。




 そのままとてつもなく高いフランス料理店や、テーブルマナーも分からないようなコース料理の店にでも連れて行かれるのかと思ったが、アルが指定したのは小さな路地裏にひっそりと立っている。隠れ家のようなイタリアンレストランだった。

 古めかしい看板に、ピアノのイラストが描かれている。レンガ作りのお店で、そのままわからずに素通りしてしまいそうなくらいに存在感がなかった。


「こんなところで本当にいいんですか?」

「はい。このお店は秘密があるので」

「……秘密?」


 桃花は少し首を傾げながらアルの横顔を見つめた。その柔らかな笑顔には、何か含みのあるものを感じさせる。「秘密」という言葉が妙に引っかかる。だが、詳しく聞く前にアルは扉を開け、手を軽く差し出して言った。


「入ってみればわかりますよ」


 促されるまま、桃花は小さな扉をくぐった。扉の向こうは、路地裏の古びた外観からは想像もできないような空間があった。薄暗い照明の下に並ぶアンティークなテーブルと椅子、小さな舞台のような場所にはピアノが置かれている。壁には古い楽譜や楽器が飾られ、心地よいジャズの音楽が流れていた。


「……素敵ですね」


 桃花は思わず声を漏らした。ここで写真を撮るとしたら、どんな作品が撮れるだろうか。いつもよりも陰影が出る場所だからこそ、少し影のある写真でも似合うかもしれない。

 とっさにそんな考えを思い浮かべてしまう。アルは満足そうに頷く。


「ここは、料理ももちろん美味しいですが、音楽を楽しむために来るお店なんです」


 ウェイターが笑顔で二人を迎え、奥の静かな席へと案内してくれた。アルは慣れた様子でメニューを受け取りながら、さらりと注文を済ませていく。その姿は自信に満ちていて、桃花は改めて彼の落ち着きぶりに感心せざるを得なかった。


「……意外です」


 桃花はつい口をついて出た。


「何がですか?」


 アルが少し楽しげに聞き返す。


「こういう隠れ家的な場所に連れてきてくださるとは思いませんでした。もっと高級感のあるお店を選ばれるのかと」


 そうした方が桃花を動揺させやすいはずだと思う。しかし、アルはふっと笑い、肩をすくめた。


「確かにそれもいいですね。でも、こういう場所のほうが、落ち着いて話ができますし、何より人の本音が出やすいんです」


 その言葉に、桃花は少し身構えた。今回の会議でアルに本当にしたいことを見破られていないが、ヒヤヒヤしていたがもしかして何かバレてしまったのではないか、と懸念する。


「本音……ですか?」

「ええ」


 アルは意味ありげに微笑む。


「普段はお仕事が忙しくて、なかなかゆっくり話す時間が取れなかったですから。だからこういう機会に、少しでもあなたのことを知りたいんです」


その率直な言葉に、桃花は一瞬言葉を失った。だが、すぐに自分を落ち着けて返事をする。


「私なんて、知るほどのこともないと思いますけど……仕事中はずっといたじゃないですか」

「そんなことありませんよ」


アルは笑顔を崩さない。


「だって、あなたと中百舌鳥京志郎さんと、何があったのか知りたいんですよ」


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