「本当に特に何もないですよ?」
「……あそこまで仲良くなっているのに?」
「それは……」
桃花は言葉に詰まる。なんといえばいいのだろうか。確かにあの時は桃花と京志郎はいっしょにいて、アルについて話し合った。しかし、それをそのままアルに伝えるわけにはいかない。
そう考えていると、アルは言葉をつけ足した。
「いえ……すみません。少し急ぎすぎました。せっかく誘えたのに、こんなことを言うなんて」
「……えっと」
「……顔が強張っていました。だから、あまり言いたくないのだろうな、と思いまして」
その柔らかな口調に、桃花は少しだけ肩の力を抜いた。アルが本当にそんなことを考えているのか、それとも単に上手に言葉を使っているだけなのか、まだ判断はつかなかったが、とりあえず無理やり聞き出すようなことをするつもりはない、という意思表示なのだろう。
やがて、料理が運ばれてきた。香ばしい香りを漂わせるアヒージョ、鮮やかな彩りのカプレーゼ、そして手作り感のあるピザ。どれも気取ったところのない、高級料理なんて食べ慣れていない桃花でも食べやすい料理だった。
「どうぞ、召し上がってください」
「は、はい……」
アルが勧めるままに桃花は一口食べてみて、その味に思わず目を見開いた。
「……美味しい!」
「でしょう? 僕が保証します」
アルは満足げに頷きながら自分も一口食べ始める。
「ここは生演奏も聞けるんですよ」
料理を楽しむうちに、店内に流れるジャズがふと静まり、やがてピアノの生演奏が始まった。優雅で軽やかな音色が空間を包み込み、まるで二人を舞台の中心に据えたような錯覚を覚える。
「素敵な演奏ですね」
桃花が言葉を漏らすと、アルもその言葉が嬉しかったのか、微笑んだ。
「そうでしょう? この店の魅力の一つなんです」
アルの言葉に嘘はないようだった。その表情は穏やかで、彼自身もこの雰囲気を楽しんでいるように見える。
桃花もまた、気づかぬうちに緊張がほぐれ、演奏に耳を傾けていた。
「このデザートも綺麗ですね」
「はい」
運ばれてきたデザートがテーブルに置かれると、アルはさらりとナイフとフォークを手に取り、端正な所作で一口運んだ。その動きには無駄がなく、自然な流れで、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。
(ここのシーンを切り取って……癒してくれる王子様、っていうのなら、こういうのもいいのかもしれない)
「どうしました?」
そういう算段を巡らせていると、アルが気づいたように問いかける。桃花は慌てて視線をそらし、フォークを手に取った。
「あ、いえ……ただ、アルって食事の仕方が綺麗なんだなあ、って思ってしまって」
自分でも意外なことを口にしたと気づき、少し頬が熱くなる。
「そうですか?」
アルは照れる様子もなく微笑む。
「食事の時間は大切ですからね。ゆっくり楽しむのが好きなんです。それに誰とでも不快な気分なく食べる、というのは大事なことでしょう?」
その落ち着いた物腰と穏やかな声に、ピアノの音色が優しく流れる。その言葉さえも心地がいい。それなのに、アルがふとグラスを置き、少し真剣な表情で言葉を紡いだ。
「桃花……あなたは、どうしてそんなに頑張るんですか?」
「……え?」
不意に投げかけられた問いに、桃花は戸惑った。頑張る理由、それは仕事だからといえば簡単だが、そうではないような気もした。
「僕には、あなたがとても一生懸命な人に見えるんです。それは素晴らしいことですけど、少し無理をしているようにも思えて……それはこの一週間の仕事を見ていてもわかります」
アルの視線は優しく、まっすぐだった。
そして何か深いことを考えている気がした。
「私は……」
言葉が詰まる。確かに、無理をしている自覚はあった。こんなこと、自分でもしたことがないことだ。けれど、それをアルに悟られることは避けたかった。
「いえ、大丈夫です」
桃花は微笑みを作る。
「ただ、やるべきことをやっているだけですから」
アルは少しだけ悲しげな笑みを浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。代わりにピアノの音色に耳を傾けるように目を閉じ、静かに息を吐く。
その仕草を見た桃花の胸に、何かが触れる感覚があった。彼の柔らかい言葉と表情。
それが、彼の本心なのか、それとも巧妙に作られたものなのか、わからない。ただ、この場の空気に飲み込まれてしまいそうになる自分がいた。
「桃花」
ふいに名前を呼ばれ、桃花ははっとして顔を上げた。アルの笑顔がそこにあった。優しさと、どこか切なさを含んだその表情が、桃花の心を不意に揺さぶる。
「……僕は、あなたのことをもっと知りたいんです」
低く穏やかな声が、ピアノの音色と溶け合う。
その瞬間、桃花は自分が流されかけていることに気づいた。アルの言葉とその場の雰囲気が、桃花を包み込んでくる。そのまま、そんな穏やかさに身をゆだねてしまえれば、どれだけ楽だっただろうか。
(だめ……流されちゃだめだ)
頭の中で警鐘が鳴る。自分がここで何をしに来たのか、そして自分の目標は何なのか。気を引き締めなければいけない。
桃花はピンと背筋を伸ばし、精一杯の笑顔を作った。
「ありがとうございます。でも、私のことなんて大したことありませんよ」
アルは少し驚いたように見えたが、すぐにまた微笑みを浮かべた。
「そうですか。でも、僕はそうは思いませんよ」
その言葉に桃花はうなずきつつも、自分の心に強く言い聞かせる。
(流されない。私は、私でいるんだから)
ピアノの音が優しく響く中、桃花は冷静さを保とうと、自分の中で小さな戦いを続けていた。