明菜の長野行は、夏輝の両親にもあっさりと認められた。
夏輝が事前にちゃんと話は通してくれていたようだ。
そうなると、準備が必要になる。
夏輝によるとキャンプ道具その他は一切気にしなくていいらしい。
全部彼、というより彼の両親が持っているという。
撮影のために何日もキャンプする、というのも普通にあるらしいので、むしろキャンプはエキスパートらしい。
その両親の影響で、夏輝もそれなりにアウトドアには強いという。
が、明菜は全くの未経験者だ。
そのため不安の方が多いが、夏輝によると今回は林間学校とかの延長くらいの感覚でも大丈夫と言われ、少しだけ安心した。
とはいえ、キャンプに向いた服、と調べるとやはり普通の服とは違うものらしい。
明菜はそれなりに服は多く持っているが、キャンプに向いている服、となるとさすがに持っておらず――。
夏輝に相談したところ、一緒に買いに行くことになった。
今回行くのは、明菜の家からバスの距離にある小規模なショッピングモールだ。
明菜にとっては完全にデートである。
なので、服装はかなり気を遣う。やはり、彼に可愛いと思ってもらいたい。
今日はシフォンギャザーの薄いグリーンのノースリーブワンピースに、レース生地の上着を合わせた。
このワンピースはデコルテが大きく開いたスクエアネックで、かなり大胆なデザインではある。色と形が気に入って少し前に買ったものだが、彼はどう思うだろうか。
あとはお気に入りのサンダルと、色々服を買い込むだろうから、大きめのバッグ。
陽射し対策に一応日傘を持っていくが、天気予報通りなら帰りは曇ってる可能性も高いので要らない可能性もありそうだ。
髪はいつもの三つ編みのハーフアップ。
化粧は少しだけ。元々あまり化粧をすることはないので、基本、日焼け対策も兼ねたベースメイクくらい。さすがに――口紅はまだ勇気がない。
十五分ほどでモールに到着すると、夏輝はすでに到着していた。
「お待たせ、夏輝君」
果たして出る前の準備に時間をかけた成果は――聞くまでもなかった。
見る見るうちに彼の顔が赤くなっていく。
頑張った甲斐があった。
「どうしたの? 顔紅いけど、風邪気味とか?」
「だ、大丈夫。なんでもない」
「そう? ならいいけど」
照れているのが可愛くて、もう少しだけからかいたくなった。
夏輝のすぐ横に立つと、彼の腕を両手で抱き込む様にする。
「ちょ、明菜さん!?」
「ほら、人が多いし。モールの中は涼しいからいいでしょ?」
そのままモールの中に入る。
周囲の人の視線が少しだけ集まっていた。
彼が狼狽しているのが分かる。
意識してくれていると思うと、嬉しくなった。
「……明菜さん、俺をからかって遊んでない?」
「あ、やっぱりわかる?」
さすがにかわいそうになって、手を放す。
あんまり安心したようにされるとそれはそれで残念に思うが、さすがにちょっとからかいすぎたかな、と反省した。
「ごめんごめん。なんか私見て驚いてたから、つい。この服、どうかな?」
「……うん、その、すごく、似合ってると、思う」
「えへへ。ありがと。嬉しいな」
ちょっとにやけるのが止まらない。
とても情けない顔をしているような気がするが、嬉しさからのそれはどうにもならなかった。
「さ、行こ。夏輝君」
夏輝の手を取ると、歩き出す。
先に行って手を引いているので、多分にやけているのが見られることはないだろう。
ただ、その一方で夏輝が真っ赤になっているのを、明菜も見ることは出来ていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「結構買ったね。これで準備はばっちりかな」
キャンプ用の服に靴。多少の小物類。
お昼ごはんを挟んで色々回って、もう準備問題なし、となったのは十五時頃。
前に行ったショッピングモールであればその後遊ぶ場所もあったのだが、ここには残念ながらそういう遊興施設はない。
近くにないわけでもないが、外を見てみると雲行きがちょっと怪しくなってきた。
雨が降る予報はなかったはずだが、スマホを見ると日が暮れるころから雨の予報に変わっていた。
なので、少し早めに帰ることにする。
外に出ると、空はすでに曇っていて、風にも少しだけ涼しさが感じられた。
「じゃ、ここでお別れかな?」
「明菜さんはここからバス?」
「ううん。涼しくなってきたし、歩いても三十分くらいだから、歩こうかと」
ちょっと買い物をし過ぎたところがあるので、少しでも節約したいのが本音だ。
別に十分に生活費はもらっているが、節約するにこしたことはないだろう。
「なら、一緒に行こうか。送るよ」
「え。夏輝君は電車じゃ?」
「俺もちょっとでも節約しておきたいし」
「でも、そんな無理して送ってくれなくてもいいのに」
「まあせっかくだし。一駅歩くだけだしね」
「……ありがと」
少しでも一緒にいたい、と思ってるのはお互い様だと嬉しい。
そして多分――そうだと思う。
二十分ほどでいつもの森林公園まで着いた。ここから公園を横切ってしまえば、ほどなく自宅である。
一瞬このまま家に寄ってもらおうか、という考えが頭に浮かぶが、この後天候が崩れることを考えると、さすがにそれはちょっとない。
家に招待はしたいが、それはこの夏休み中に改めて計画すべきだろう。
「思えば、この公園で夏輝君に助けてもらったのが……縁の始まりだったね」
「まあそうでなくても二年で隣同士にはなっただろうけど」
「でもあれがなかったら、天文同好会のことは聞かなかった気がする」
席が隣同士でお互いにとって名前が面白いからという理由で多少は話しただろうが、同好会の話が出たかは怪しいと思う。
「……確かに。なんであの時屋上にいたのか、からだったからね」
そうなると一緒に学級委員をやっていた可能性も低く、呼び方をクラスで決めることには多分ならなかっただろうから、お互いの呼び方ももっと他人行儀のままだっただろう。
あの時助けられてから四カ月。
学校で偶然隣の席になって話してからでも三カ月半。
あの時と今では、状況も、そして明菜の持つ気持ちも全く違っている。
そしてこの気持ちは、強くなることこそあれ、おそらく今後弱くなることはない。
そう、確信できる。
あるいは――告白するなら、今かもしれない。
あの、試験直後のあれはおそらく彼は記憶してないか、あるいは夢の中のことだと思っているに違いない。
それに自分も、あれをカウントする気にはならない。
だが今なら――。
少しだけ心に力をためる。
今なら言える――と思った時。
「よお明菜。今日こそ話をさせてもらうぞ」
聞きたくもない声が、明菜の耳に届いた。
瞬間、身体が強張る。
いつ現れたのかと思うが、明菜自身自分の感情の整理でいっぱいいっぱいだったから、周りにまるで気を配っていなかった。
そこにいたのは――あの山北だ。
「何の用です、山北先輩。あなたとはもう、終わったといったはずです」
明菜は声が震えているのを自覚した。
あの三月に会ったあの時はおそらく偶然。
六月に会ったのは――今ならわかるが、おそらく彼は暇を見てはここで明菜に遭遇することを狙っていたと思う。
あの時は遭遇した際の距離がかなり離れていて、明菜がすぐ立ち去っている。雨天だったこともあり追うのは難しかっただろう。
しかし今回は、木々が密集している場所でほぼ出会い頭に遭遇したようなものなので、距離は五メートルもない。逃げ出してもすぐ追いつかれる。
どのくらいの頻度で待ち伏せていたのか分からないが――明菜がいつもこの公園を通るわけではないのに、蛇のような執念だ。
時刻は十六時過ぎ。
今日が平日なこともあって、少なくとも周囲に人は見えない。
木が比較的密集している場所なので、見通しも効かない。他の人に気付いてもらえる可能性は低いだろう。
「そういうなよ、前みたいに『重雄さん』って呼んでくれよ。俺も反省しているんだからさ」
三月に追いかけられた時の恐怖がよみがえり、身体が震えた。
思わず、すぐ前にいる夏輝の服の袖をつかんでしまう。
「そんななよっとした男に頼ってどうする。俺のところに戻ってこい」
体つきで言えば、山北は明らかに体が大きく、背も高い。夏輝は――思ったよりずっと引き締まってはいたが、それでも純粋な力で敵うとは思えない。
争いになってしまえば、大変なことになる。
その前にスマホで警察に連絡を――と思っても、警察が来るまでにはどんなに早くても数分かかるだろう。
その間にあの男が何をしてくるか、わかったものではない。
多分夏輝は庇ってくれるだろうが、争いになれば彼が怪我をする可能性がある。
そんなことにはなってほしくない。
なんとかこの場は逃げる方法を――と思った時。
「それ以上近寄るな。彼女が怯えている」
その声が夏輝のものだと気付くのに、一瞬遅れた。
それほどに、彼の声が強い意志――怒りにも似た――を宿していたのだ。彼のこのような声は、初めて聴いた。
「あ? なんだこのガキ。少し痛い目見せてやろうか!?」
「もう一度言う。それ以上近寄るな。そしてすぐに立ち去って、二度と彼女の前に現れるな」
明らかに相手を挑発している。そんなことをすれば、
夏輝は彼を止めるために袖を引っ張ろうとしたが、逆に夏輝は明菜の肩を押して、後ろに下がらせた。
「少し離れていて、明菜」
思いもよらぬ行動に呆然とする。
初めて他人行儀ではなく、名前をそのまま呼ばれたのだが、そのことを考えるよりも先に、夏輝が傷つくことに対する恐怖が先に来た。
「ダメ、夏輝君、この人、力強いから……」
付き合ってる時に、握力が七十キロ近くあると自慢していた。
実際、体格に見合うだけの力があるのは容易に想像できる。
サッカー部の元エースだけあって、身体はかなり鍛えられていたはずだ。
少なくとも単純な殴り合いなら、体格と力がものをいう。
身長だって夏輝を軽く十センチは上回るのだ。
「大丈夫。明菜は下がってて」
対する夏輝は、事態が分かっているのかどうか、ひどく落ち着いているようにすら見えた。
だが、直後。
「なめてんじゃねえぞ、このガキ!!」
ついに山北が
一気に踏み込んで、夏輝に殴りかかろうとする。
「だめぇ!!」
無駄とわかっても、叫ぶ以外に明菜にはできなかった。
夏輝が殴られる――だが、それを止める術は明菜にはない。
最後に見えた光景は、夏輝の目の前まで山北が踏み込み、拳で夏輝を捉えようとする瞬間。思わず明菜は目を閉じてしまった。
その、直後。
「ぎゃあああ!!!」
響いた悲鳴は、しかし予想した人物のものではなかった。
恐る恐る目を開くと――そこには、膝立ちになって背後から両腕をひねりあげられた山北の姿がある。
そして、それをやっているのは夏輝だ。
「え……いま、何が……?」
夏輝が殴られた、と思った。それでほんの一瞬、視界を閉ざしてしまった。その間に何が起きたのか。
夏輝は涼しい顔で山北の両腕を完全に抑えてしまっていて、山北はうめくことしかできない。
見たところ、立ち上がることすらできないようだ。
「まだやるか? このまま関節を外してもいいんだが」
夏輝の冷淡とも思える声が響く。
少しだけ力を入れたのか、山北の肩があり得ないところまで回ろうとしていた。
「や、やめろ!! 離せ、腕が折れる!!」
「大丈夫。折れたりはしない。先に外れる。けど、外れたらつけてやる。ものすごく痛いだろうけどね」
その淡々とした声は、それが誇張でも冗談でもないと誰にでも分かった。ただ事実を述べているだけだ。
見ると山北は痛みと恐怖からか、顔面蒼白の上涙と鼻水で酷い有様である。
「最後にもう一度だけ言う。今すぐ立ち去って、二度と彼女の前に姿を表すな。次に彼女の前に現れたなら、その時は容赦しない」
「わ、わかった、わかったから離してくれ!!」
それを言葉を聞いて、夏輝が山北を解放した。
山北はつんのめって顔面を地面にぶつけそうになり、それを先ほどまでひねりあげられていた腕で支え――直後地面に無様に転がる。おそらく相当に痛かったのだろう。
しかしその直後、必死に立ち上がると、文字通り
あとには呆然とした明菜と、少し苦笑いをしている夏輝だけが残されている。
「ちょっと……やりすぎたね」
「い、今の……何?」
驚きで口が上手く回らない。
何が起きたのか全く分からなくて、頭の中がパニック状態だ。
「その、俺の祖父、古武術の師範なんだ。で、子供の頃からずっと習わされてた。俺も詳しくは知らないんだけど。まあ、護身術として覚えておけって言われてやってただけなんだけどね」
今時そういう技を伝承している人もいるのか、と少し驚く。
ただ、先ほど見た技術は柔道や合気道とは違うと思えた。
そしてそんなものを夏輝が修得しているとは、夢にも思わなかった。
「夏輝君が武道やってるなんて思わなかったから……ちょっとびっくりした」
道理で体が引き締まっているわけだ。
いつも稽古しているのかは分からないが、普段からそれなりに鍛錬をしている気がする。
「うん。まあ正直、人前で見せたのは初めてだ。うちの学校、格技の授業ないしね。ごめん、怖いよね、こんなの」
わずかに声が震えている。
それで夏輝が、自分が彼のことを怖がっていると思ってると気付いた。
そんなはずはない。
確かに驚きはしたが、それで彼を怖がる必要があるはずがない。
なので、思いっきり首を横に振る。
「そんなことない。ありがとう、夏輝君。守ってくれて」
ようやく、心が落ち着いたらしい。やっと普通に言葉を発せられた。
「夏輝君が強いとか全然想像もしなかったから驚いたけど、でも私を護るためにしてくれたって、すごく嬉しい。本当にありがとう」
「いや……俺もちょっと抑えが効かなかった。やりすぎたと思う。じいちゃんには武術は道具であり心を鍛えなければ正しく使うことはできないって、いつも言われていたんだけど」
抑えが効かななかった、というのはつまりそれだけ護りたいと思ってくれた、ということだろう。それが、どうしようもないほどに嬉しい。
人前で使わないとしていた力を使ってまで、夏輝は明菜を守ってくれたのだ。ならば、その使い方は――少なくとも明菜にとっては間違いなく正しい使い方だ。
「夏輝君の中では、私を護ることは正しい使い方じゃないの?」
夏輝がきょとんとしている。
その表情は、とても可愛く思えた。
「あ、いや。その、明菜さんを守りたかったのは事実だけど……」
「じゃあいいじゃない。私は本当にうれしかったんだから」
ようやくいつもの感じに戻った――そしてふと、先ほどのこのことを思い出す。
確か、彼は――。
「あとさ。さっき、『明菜』って呼び捨てにしてくれたよね。もう一度呼んでくれない?」
名前で呼び合うのは、今のクラスのいわばルール。
そこに、特別感はない。
だが、名前だけ、敬称をつけないで呼ぶとなればまた別だ。
親しい女子の友人ならともかく、男子には誰一人そう呼ぶ人はいない。
だからこそ、できればもう一度呼んで欲しい。
「え……あ、いや。ちょっと良く、覚えてない。少し興奮してたから、かも」
「えー。うーん。まあいいや。今度頑張ってもらおうかな」
もう呼んでくれてもいいのに、と思うが、まだ――おそらくあと一歩。あるいはもっと短い距離。それだけの――最後の一押し。
それを埋めるのはやはり――キャンプの時になるだろうか。
「それにしても」
明菜は話題を転換するように、夏輝を再度見上げる。
「夏輝君、ホントにスペック高過ぎない?」
勉強が出来て運動が出来て料理が出来てリーダーシップもあって気遣いもできて優しくて。
そして今日、実はものすごく強いことまでわかった。
まるでびっくり箱だ。次に何が出てくるか、わかったものではない。
「それ、君が言うセリフじゃないよね」
「えー。そうかなぁ。絶対夏輝君の方がすごいと思う」
自分なんて、ちょっと容姿がよくて、あとは少しだけ勉強ができるくらいだ。
彼のようにびっくり箱的な驚きなんてないだろう。
「そこは見解の相違だなぁ」
多分お互いに――そう思っているんだろうと思うと、何かおかしい。
一度笑い出してしまうと、しばらく止まらなかった。
「少なくとも、今日のところは大丈夫だと思う。もう、家は近いよね?」
確かに、ここから家までは五分とかからない。
あの男も今日は絶対来ないだろうし、おそらく今後も――来ない気がする。
「うん、ありがとう」
やはり家に来てもらいたい、という気持ちが一瞬強くなるが、やはり今日は無理があるのでそれは諦める。
ただ、その代わり――
「あのね」
「ん?」
夏輝のすぐ真横に踏み込む。
先ほど驚くべき武道の技を見せた夏輝だが、この時はとても無防備に明菜が踏み込むのを見逃してくれた。
すぐ横に、夏輝の顔がある。
その耳元まで近寄ると――囁くように、それでもはっきり聞こえるように。
「ものすごくかっこよかったよ、夏輝君」
そして、ほんの少し下がると――唇――までは勇気が持てなかったので、そのすぐ横に、明菜は口づけた。
「じゃ、またねーっ」
そのまま踵を返して駆けだした。
多分今自分が真っ赤になってるのは自覚している。
ただ、それを見られるのは何か悔しい。
だから明菜は、振り返らずに全力で走って行った。
真っ赤になった夏輝を残して。