ずいぶん昔の記憶だけれど色あざやかに思い出せる
住宅地が開発されてなだらかな丘陵地になってしまう前のこと
いくつかある尖った頂には組み立てられた構造物があった
展望台として造られたというよりは廃材や余剰資材を使って遊びで作製されたような趣で
もしかすると廃棄場だったのかもしれない
私の近所の大人たちは「物見」と呼んでいた
私より少し年上の小学校高学年らしい子どもが父親と双眼鏡で周囲を見渡していたのを見たことがある
ひっそりとした場所だったと思うがなぜかいつも誰かがいた
私も登ってみたいと思っていたが結局あの「物見」たちには登っていない
全部で四箇所くらいだったろうか
鉄管パイプにも太さの違いがあって登りやすそうなものと滑りそうでこわいものもあった
だからどうしたというわけでもないが
やたらとハッキリ覚えている
普段は思い出したりしないのに
やけに風が強くて肌寒く感じる晴れた日に空気のうねる音が聞こえると
物見が忽然と脳裏に姿を現す
物見に集ってきていた人たちの残像がよみがえる
あるときひどくしかられたことがあった
私が騒いでいたとは思えないのだが
いきなり怒鳴られて襲い掛かられるかと思い退散したことがある
大人になって思い返せばなんていうことはないだろうが
とある恋人たちが逢瀬を楽しんでいたのだろう
覗き見られていると思われて気分が害されたのなら憤りは自然だろうけど
こちらとしてはたまったものではない
夕暮れ時の宵闇迫る公園のベンチではそうした恋人たちの姿や行いを見たことがあるが
怒鳴られたことはない
私は一目散に駆け出して逃げ切ったが
もしも相手が本気で追いかけてきたとしたら捕まっていただろう
向こうは怒鳴り本気で憤っているようにしか思えなかったけれど
大人ならではの演技な威嚇だったかもしれないし
さすがに裸の女を置き去りにして男が深追いしてくるのは不自然だろう
いまならわかる
だが子どもだった私は恐怖のあまり全速力で坂道を駆け下りた
恐怖の記憶と結びついた物見たちは取り壊されて掘削され平坦化されて住宅地になった
新築一戸建てに暮らし始めた人たちのなかには親しくなる同級生もいたので
家に遊びに伺うと道すがらふと
『このあたりって…』
と思い巡らせたこともあったっけ
だからどうしたというわけではないのかもしれないが
一緒にいる幼なじみがよく訝しがったものだ
なに なにかいるの
いやべつに
なに 誰かくるの
いやべつに
住宅が増えてから公園の整備が行なわれ
桜が植えられていた場所は名所と呼ばれて人気スポットになっていった
コンクリートで展望台が造成されると
したから見上げるとパッとしない姿だったが
登ってから見渡すと住宅街すべてを眼下に捉えることができた
コンクリートならではの佇まいがひんやりとして冷たく
それは大人から受ける冷たい態度にも似ていて
つきはなされているんだけれど
絶妙に見守られている感覚もあって
心地良かった
そんな展望台にこれから登ろうとするとき私は注意深く物音や気配を探知する
いるかもしれないからだ
当然ながら私が頂上にいる場合は
登ってくる人たちの気配は察知しやすいし
想像以上に上からは下がよく見える
これみよがしに鉄階段を響かせて下りはじめれば向こうも気づくだろうし
あの幼ない日のような戦慄の遭遇に至ることはなかった
高校生になってしばらくしてからのこと
花が散り葉桜の木立が初夏の陽射しを受けて早足で歩くと汗ばむ季節
私は幼なじみと目的もなく散歩してなんとなく展望台に登っていた
景色を眺めたかったのかもしれない
油断したつもりはないが
かなりリラックスしていたのは事実だ
そんな翌日のこと
「きのう物見に彼女といたでしょ?」
塾のロビーで話しかけられた
誰ともすれちがってないはずだけどな? と不思議顔をすると
「ぜんぶ見えるんだよ! 気づいてないと思うけどあの物見 こっちの物見からだとぜんぶ!」
意外だった
展望台を「物見」と呼んでいるのも意外だし
あのコンクリート展望台の他にも展望台があるのを知らなかったし
いや仮に別の展望台があったとしてもだからって見えるか?
しかも ぜんぶって…
「他にも展望台あったっけ?」と私が質問すると
「あるよー。かなり離れているけどね」
「視力いいんだ?」
「いんや、双眼鏡で覗いただ」
「は!?」
「うち、バードウォッチング好きでね、たまに繰り出すのよ」
「双眼鏡…」
私がボソッとひとりごとを吐くと
「こーんなだっけ?」と相手はスカートのすそつまんで言う「た・く・し・あ…」
「おい!」私は思わず少し大きな声になってしまった
「んふー! だからほんと丸見えなんだってば、ぜんぶ」
「ちょっと待てよこら」
「大丈夫です安心して? 誰にも言わないであげるー でもさ?」
「でも…さ?」私は緊張した
なにか要求されるのか
いやそもそも私が緊張する案件ではないだろうし?
いったいなにを私は…と ふと
冷静に目の前の誰かを見る
じいっ と
同じ教室にいたのを見たことがある
もしかしたら ひとこと ふたこと 言葉を交わしたことがあるかもしれない
だがどんなに記憶をたどっても名前は思い浮かばなかった
『中学のときからか…高校になってからか』それすらよくわからないが
この塾に通っている生徒なのだとすぐわかった
私の視線を受けながらすっと向こうのほうを見てから周囲ぐるりと見渡してその子が話す
「すごいね君 なんていうか やることやるんだね!」
無邪気そうな笑顔は邪気を存分に放っているように見えた
「何の話かな」
私は自分に『落ち着け』と心の中で説く『落ち着け、別にこいつはなにも害をなさないはずだ?』
するとその子はひとりごとのように「いやあなんか真面目そうで大人しそうでボクはボクそれとも俺? 意外と言ったらあれだけど予想外っ」
「だから何の」
「なんでもない なんでもないし なんでもないんだよーただちょっと双眼鏡でね?」
見ていたというのだろう
たまたま視界に入ってしまったのだろうけど
なぜいまこのタイミングこの場所で
親しくしている覚えのない相手からいきなりぶちかまされなければならないのか
わからない
「んふー!」その子は私の目を見ないまま周囲の空気を察知しながら
まるで展望台にこれから登ろうとするときの私のように注意深く人影や会話を気にしているみたいにしながら
「…かなーり刺激てきでした! の?」
そう小声でつぶやいて再びスカートのすそをつまんで身動きせずただ視線だけこちらに向けて
「た・く・し…」
私は自分の欠陥が暴露されたみたいに感じて体中を駈け巡る血管が破裂してしまうかと思った
「…見せて」私は条件反射でつぶやいていた
「…」絶句するその子
「ちょっとでいいから見せて…ていうか見て見たい」
「…なにをおっしゃってるの、でしょうかっ?」
「おれ、双眼鏡って持ってないから」
「…」なにか目を丸くしてじっと私を見つめ返す視線に不思議な意図が感じられた気がする
「つっても、いまは持ってないか」私は言う「双眼鏡、見てみたい」
「あるよ」すんなりその子は答える「いつも持ち歩いてるし」と言いながら彼女はカバンをよいしょっとして
「え、いま? あるの」
「あるよ、っと…んしょ」彼女は絶妙に足をあげてふとももとひざでカバンを安定させながら
「はい」と私に手渡した
すごくちいさな、これって「オペラグラス?」と私が思わず質問すると
彼女は首を振った
「ううん」
彼女が首を振るとそれまで静かにしていた髪がわんさわさとなびく
「それは双眼鏡だよ、ケプラー式なの」
「ケプラー?」
「オペラグラスはガリレオ式だから似てるけどちがうのよ」
見た目にも小さくなかったし実際に持ってみるとずしりとした手応えがある
よくそのカバンに入ってたな
「うち授業で黒板とるときそれ、よく使うよ?」
うれしそうに彼女は双眼鏡をツンと優しくつついた