巻ノ五十九 甲斐姫
石田と大谷は忍城に向かっていた、その時にだった。
石田は馬上にいたがやはり馬上にいて彼と並んでいる大谷に対していぶかしむ顔になってこう問うた。
「忍城じゃが」
「成田氏の城でな」
「城主の成田殿もじゃな」
「相当な方じゃ、しかしな」
「用心すべきはじゃな」
「その成田殿もじゃが」
「甲斐姫殿か」
「御主のよいところの一つとしてじゃ」
大谷は石田に顔を向けて彼に言った。
「決して侮らぬことじゃ」
「相手が誰でもじゃな」
「うむ、どんな相手でもな」
それが女であってもというのだ。
「決して侮らぬし愚弄せぬ」
「侮れば終わりじゃ」
その時点でとだ、石田ははっきりと言った。
「敗れる」
「侮った方がじゃな」
「うむ、そうなる」
まさにというのだ。
「容易にな」
「その通りじゃ、だからな」
「わしが誰であろうと侮らぬことはか」
「よいことじゃ」
「常に己に言い聞かせておる」
他ならぬ石田自身にというのだ。
「相手を侮らぬこととな」
「それはよいことじゃ、御主は欠点も多いが」
それでもというのだ。
「長所も多い、その長所としてな」
「相手を侮らぬ」
「それがよいことじゃ、だからじゃな」
「甲斐姫も侮らぬ」
絶対にとだ、石田はまた言った。
「何があってもな」
「それが御主じゃ、だからよいが」
「それでもか」
「甲斐姫は若しや」
その目を鋭くさせてだ、大谷は顔を正面に向けた。そこは忍城はまだ見えていないがそれでも行き先にあるのだ。
「わし等が思っている以上にな」
「強いかもか」
「そう思った方がよいやもな」
「万全の状況にしてもか」
「それを突破するかも知れぬ」
「そうしてくるやも知れぬからか」
「用心していこう」
ここはというのだ。
「わかったな」
「うむ、わかった」
石田は大谷のその言葉に静かな声で答えた。
「それではな」
「用心に用心を重ねて攻めよう」
「絶対にな」
こう話してだ、そしてだった。
二人は忍城に来るとまずはその三方が沼や田に囲まれた平城を見た、石田はその城の状況を見てすぐに言った。
「確かにな」
「この城は攻めにくいな」
「うむ」
「正攻法では攻めてもな」
「わかったか」
「攻め落とせぬ」
それは無理だというのだ。
「力攻めは難しい城じゃ」
「わしもそう思う、力攻めよりはじゃ」
「頭を使うか」
「そうしよう、ではここは御主の知恵を借りたい」
親友である大谷の顔を見ての言葉だ。
「是非な」
「わしがか」
「うむ、そうしたいが」
「わかった」
大谷もまた友の言葉に頷いて返した。
「それではな」
「何か考えがあるか」
「見よ、この城を」
忍城をというのだ。
「三方が沼と田に囲まれておる」
「そこから攻めれば足を取られる」
その沼や田にだ、そうなることは一目瞭然だ。
「そしてそこを攻められてじゃ」
「こちらがやられる」
「だからじゃ」
「力攻めは無理じゃ」
石田はこのことを強く言った。
「それでわしも言うのじゃ」
「わかっておる、そして言ったが」
「三方が沼、そして田じゃな」
「田がある、即ちじゃ」
「言うまでもない、田には多くの水が必要じゃ」
これを知らぬ者はいない、切れ者として知られる石田ならば尚更だ。
「実際近くに水源があるが」
「川があるな」
「その川を使うぞ」
「水攻めか」
「うむ」92
まさにそれだというのだ。
「それを考えておる」
「そうか、ではな」
「早速そうして攻めるぞ」
「堤を造ってな」
「この時用心すべきは」
何かというとだ、大谷はその目を鋭くさせながら言うのだった。
「堤を壊されないこと」
「そうなっては終わりじゃな」
「そこに用心してな」
「堤を築いていくか」
「そして水で囲んでな」
「攻め落とすか」
「水で囲めば敵も諦める」
忍城の北条の者達もというのだ。
「そこで降る様に言おうぞ」
「わしは無駄な殺生は嫌いじゃ」
石田はこのこともはっきりと言った。
「何よりもな」
「そこも御主のいいところじゃ」
またこう言った大谷だった。
「殺生を好まぬものな」
「戦は人が死ぬ」
石田はまたしてもはっきりと言った。
「しかしじゃ」
「それでもじゃな」
「そうであっても血は出来る限り少ない方がよい」
「流れる血はじゃな」
「死ぬ者は最低限でよい」
あくまでというのだ。
「だからな」
「この度の城攻めでもじゃな」
「降る様にする」
攻め落とすよりもというのだ。
「そうしようぞ」
「うむ、ではな」
「水攻めでいこうぞ」
大谷に応えてだ、そしてだった。
石田は大谷と共に忍城の周りに堤を築きそのうえで近くの川から水を流し込みにかかった、水攻めにする為に。
この際石田は兵達にだ、こう命じていた。
「よいか、忍城から敵兵が来てもな」
「はい、堤には近寄せぬ」
「そうしますな」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「堤を壊させるな」
「そしてですな」
「そのうえで堤を完成させ」
「水攻めにかかる」
「そうしますな」
「その通りじゃ、蟻一匹通すでないぞ」
「わかりました」
兵達は石田の言葉に頷いた、そしてだった。
彼等は堤を的確に守っていた、その守りは大谷と石田の軍師である島左近が力を合わせて行っていてだった。
忍城の者達も迂闊に手を出せなかった、それでだ。
城主に成田は苦い顔でだ、城の主な者達にこう言った。
「これではじゃ」
「はい、どうにもですな」
「敵の堤を壊すことは出来ませぬな」
「どうしても」
「この状況では」
「うむ、石田殿は実は武にも優れているというが」
ただ文の者だけではないとだ、成田は言った。
「実際にな」
「中々ですな」
「見事な采配ぶりですな」
「大谷殿、島殿の助けも受け」
「的確にことを進めていますな」
「うむ」
その通りだとだ、また言った成田だった。
「これは迂闊にじゃ」
「攻められませぬ」
「そして攻められないならです」
「このまま川から水が入り込み」
「水攻めとなります」
「水攻めになればな」
それでというのだ。
「我等は打つ手がなくなりじゃ」
「降るしかありませぬな」
「そうなるしかなくなりますな」
「そうなればこの城を攻めている敵がさらに動き」
「他の城を攻めまするな」
「この戦は辛い」
北条家にとってとだ、成田はこうも言った。
「敗れるやも知れぬ、しかしじゃ」
「それでもですな」
「ここであの者達を動かすことはしない」
「この城に引き寄せ」
「動けない様にしますか」
「そうするべきじゃ、だからじゃ」
この考え故にというのだ。
「この城を攻め落とすことはさせぬぞ」
「何としても」
「降ることもせぬ」
「あの者達は自由にさせぬ」
「何としてもですな」
「そうじゃ、水攻めが完成すれば降るしかない」
その時はというのだ。
「兵達のことも考えればな」
「最早攻めるどころではなくなりますし」
「その場合は仕方ありませぬな」
「備中高松城の二の舞です」
「そうなりますな」
「だからじゃ」
そのことがわかっているからこそとだ、成田は言うのだった。
「ここはな」
「何としてもですな」
「堤を壊しましょう」
「どうしようもなくなるまでに」
「何とか」
「そうしたが果たしてどうしたものか」
袖の中で腕を組み考える顔になってだ、成田は考える顔になった。だがどうしても答えは見つからなかった、
しかしその彼にだ、家臣達の中にいた一人の女武者、白い服と具足に陣羽織という北条家の服を着た者がいて成田に言ってきた。見れば眉目秀麗で長い髪は膝のところまであり鉢巻きを締めている。
「父上、それではです」
「甲斐か」
「時を見て私がです」
こう言うのだった。
「堤に夜襲を仕掛け」
「そのうえでか」
「堤を壊してみせましょう」
「口ではそう言うがな」
成田は自身の娘である甲斐姫に答えた。
「それが出来るかどうか」
「難しいですか」
「うむ、それはな」
「いえ、時は必ず来ます」
甲斐姫は父に毅然として言った。
「ですから」
「その時にか」
「一気に攻めます」
まさにと言うのだった。
「お任せ下さい」
「ではじゃ」
「はい、この城の危機をお救いします」
「そうするか、ではじゃ」
父は娘の言葉を受けた、そしてだった。
甲斐姫にだ、あらためてこう告げた。
「その時が来れば動くがいい」
「さすれば」
「全て任せた」
こう甲斐姫に言うのだった、こうして彼等がどうするかは決まった。だがその間にもだった。石田率いる軍勢は。
堤を築いていく、石田はその状況を見て言った。
「このままいくとな」
「はい、堤を完成させてです」
島が石田に応えた。
「そのうえで」
「水を流し込むことが出来るな」
「そうなりましょう」
「では城を攻めることが出来るか」
石田は確かな声で言った。
「水攻めで」
「そうなるかと、ただ」
「油断はじゃな」
「はい、禁物です」
くれぐれもと言う島だった。
「相手もわかっております」
「水攻めになれば終わりということがな」
「ですから」
それでというのだ。
「守りを固めていきましょう」
「最後の最後までな」
「堤全体を守りましょう」
「夜も気をつけよ」
今度は大谷が言ってきた、彼は今も石田の傍にいる。
「わかっておるな」
「うむ、夜こそ敵は来る」
石田も大谷のその言葉に確かな声で答える。
「特にこうした時はな」
「そうじゃ、だからな」
「夜もじゃな」
「守りは固めておこうぞ」
「そうしていこう、しかし甲斐姫が来れば」
その時が来ればとだ、石田は強い声で言った。
「厄介か」
「うむ、東国一の女武者という」
「巴御前の様なじゃな」
「だからじゃ」
それ故にというのだ。
「その時はわしが行く」
「御主がか」
「そうじゃ、わしが甲斐姫と戦う」
腰の刀を手にしての言葉だ。
「御主はその時は堤全体を守れ、よいな」
「御主の剣の腕でか」
「防ぐ、何としてもな」
「大谷殿は剣の腕も確かですが」
島が大谷に言ってきた。
「その剣で、ですか」
「甲斐姫にあたる」
「そうされますか」
「だから御主は佐吉と共にじゃ」
「堤全体の守りをですな」
「頼んだ」
「さすれば」
「兵の数と布陣で勝っておる」
既にこの二つではというのだ。
「それを活かして戦えば甲斐姫といえどもな」
「退けられるな」
「退ける」
石田への返事は絶対にというものだった。
「ならばよいな」
「わかった、ではな」
「このまま守りを固めようぞ」
こう言ってだった、石田達は堤の守りを固めつつそれを築かせ続けた。そしてそのうえで忍城を水攻めにせんとしていた。
その状況を城の中から見てだ、甲斐姫は父に言った。
「では今宵です」
「うって出るか」
「はい」
まさにそうするというのだ。
「そしてです」
「堤を壊してか」
「城の危機を救います」
「そうするか」
「そしてです」
城の危機を救ってというのだ。
「生きて帰ってきます」
「死ぬつもりはないか」
「戦はまだ続きます」
例え堤を崩してもというのだ。
「ですから」
「戦が終わるまではか」
「何としても生きます」
毅然としての言葉だった。
「そうします」
「そうか、ではな」
「何としてもです」
まさにというのだ。
「堤を壊してきます」
「ではな」
「はい、それでは今宵」
こう話してだ、そのうえで。
甲斐姫はこっそりと夜襲の用意に入った、その時にだ。
城の外ではだ、大谷が城を見つつ言った。
「これはじゃ」
「うむ、そうじゃな」
「間違いありませぬな」
石田と島も城の方を見て言う。
「夜襲じゃな」
「それをしてきますな」
「飯を炊く煙が今から出ておる」
それも多くだ、三人共それを見て言うのだった。
「ならばな」
「今宵来るな」
「そうしてきますな」
「だからじゃ」
それでというのだ。
「ここは守るぞ」
「堤をな」
「何があろうとも」
「ここまで築いたのじゃ」
堤、それをというのだ。
「ならばな」
「このまま完成させてな」
「水攻めを入りましょう」
「そうじゃ、だからこそじゃ」
絶対にというのだ。
「今宵守るぞ」
「わかった、ではな」
石田達も夜襲を警戒し守りを固めた、そのうえで夜を待ち。
夜になった時にだ、大谷は本陣において石田にあらためて言った。
「堤の全てに兵を置いた」
「そしてじゃな」
「うむ、わしは遊撃の兵を率いて甲斐姫にあたる」
「問題は甲斐姫が何処に来るかじゃな」
石田は腕を組み鋭い目になって言った。
「どの堤にじゃ」
「それじゃ、何時かじゃ」
「水が溜まってきておるが」
石田は水攻めの状況を言った。
「堤全体に」
「今日凌げば城は水に覆われてな」
「降るのを待つしかなくなるな」
「その正念場じゃ、だから今宵しかないが」
「問題は甲斐姫か」
「甲斐姫は強い、しかもじゃ」
石田に干し飯を勧めながらの言葉だ、石田もそれを受け取り食う。二人の夕飯は今は干し飯に水であった。
大谷も干し飯を食いつつだ、石田に言う。
「正々堂々としておる」
「そうした気性か」
「だからどう攻めてくるかというとな」
「夜襲ながらも正々堂々か」
「そうしてくる」
このことは間違いないというのだ。
「だからわしも正面から受けて立つ」
「北条の兵は白い服と具足じゃ」
石田は目を鋭くさせこのことを指摘した。
「だから戦うにあたっては目立つぞ」
「夜でもな」
「それはわし等もじゃがな」
羽柴家の兵は服も具足も旗も金色だ、派手好きな秀吉が金色を羽柴家の色として定めたのである。
「大層目立つがな」
「しかし北条の兵も同じ」
「城は目立つ」
「その城で動く兵があればな」
「それが甲斐姫の兵か」
「わしはそこに向かう、何時来てもな」
その時はというのだ。
「行って来る、ではよいな」
「頼むぞ、わしは本陣を守っておる」
「その様にな、では本陣は任せたぞ」
「ではな」
二人で夕飯を食い合い話を決めた、そのうえで大谷は甲斐姫を待っていたが本陣に一人の兵が飛び込んで報を届けてきた。
「白い具足の騎馬武者達が一直線にです」
「動いておるか」
「はい、堤に向けて」
まさにというのだ。
「凄まじい速さです」
「わかった、ではじゃ」
そこまで聞いてだ、すぐにだった。
大谷は立ち上がり己の馬に飛び乗った、そのうえで。
精兵達を率い堤に向かってきているという北条の軍勢のところまで来た、そのうえで彼等に対して叫んだ。
「そこの者達、名を名乗れ!」
「名乗れというは如何な者か!」
「大谷吉継!」
大谷は自ら名乗った。
「以後見知られよ」
「私は甲斐姫」
軍勢の戦闘をいく女が言って来た、兜は着けず鉢巻きだけを締めた姿が月の光に眩く映し出されている。
「成田家の娘であります」
「そうか、貴殿が甲斐姫か」
鋭い目になりだ、大谷は応えた。
「名は聞いている」
「私の名をご存知とは」
「有り難く思われるか」
「はい、しかしです」
それでもというのだった。
「ここは負けませぬ」
「それは我等も同じ、ではじゃ」
「死合いましょう」
「堤は壊させぬ、ではじゃ」
大谷は刀を抜いた、甲斐姫は既に馬上で薙刀を構えている。両者は互いに馬を飛ばしそのうえで一騎打ちをはじめた。
一騎打ちは十合二十合と続いたが決着はつかない、大谷も甲斐姫も一歩も引かず斬り合う。
だがそれでも勝敗はつかずだ、大谷が率いる兵達は驚きを隠せなかった。彼等は大谷の命通り堤を守る様に布陣している。
そのうえでだ、両者の深夜の一騎打ちを見つつ話した。
「大谷様と互角とは」
「あの甲斐姫強いぞ」
「うむ、相当にな」
「これ程の方は滅多におらぬぞ」
剣の腕も相当な大谷と互角の勝負をしていることに驚いているのだ、勝敗は中々つかず何時しか百合になっていた。
だがここでだった、甲斐姫は。
まずは間合いを離してだ、そのうえで。
薙刀を左手に持ち替えると右手からあるものを投げた、それは。
黒く丸いものだった、大谷は甲斐姫が間合いを離したのを見て一気に間合いを詰めようとしたがその一瞬にだった。
甲斐姫はそれを投げた、それは大谷を狙わずに。
堤、大谷の兵達のすぐ動くのそこに当たった。甲斐姫はそれを見て会心の笑みを浮かべ率いる兵達にも言った。
「続け!」
「はっ!」
「今こそですな!」
「堤に向けて投げろ!」
「いかん!撃て!」
大谷は甲斐姫の指示が何かすぐに察した、そのうえで率いる兵達に告げた。
「迷うな!敵兵達を撃て!」
「は、はい!」
「すぐに!」
大谷の兵達も応えすぐに鉄砲や弓矢を放とうとする、だがそれよりも前にだった。
甲斐姫の兵達はその黒く丸いものを投げると即座にだった、踵を返し退散した。鉄砲や弓矢は彼等がいた場所を通っただけだった。
甲斐姫も同じだった、既に戦の場を後にしていた。それはまさに一瞬のことだった。
その一瞬後にだ、大谷は兵達に大声で叫んだ。
「逃げよ!」
「!?一体」
「どうなったのですか」
「逃げよとは」
「ここの守りは」
「話は後じゃ、早く逃げよ!」
大谷は己の言葉にいぶかしむ兵達にさらに叫んだ。
「ここから去り高い場所に行くぞ!」
「わ、わかりました」
「それでは」
「馬を走らせよ!」
大谷は自ら馬に鞭をやった、そのうえで。
兵達をその場から去らせる、堤を守っていた者達も。
多くの者が去ることが出来た、だが。
中には逃げ遅れた者がいてだ、決壊した堤から出た濁流に飲み込まれてだった。
溺れ死ぬ者も多かった、石田は本陣から堤の決壊を見て周りの者達に言った。
「佐吉と兵達は無事か!」
「佐吉様はご無事ですが」
「兵の中には濁流に飲み込まれた者もいます」
「堤が決壊してです」
「そこから溢れ出た濁流に飲み込まれてしまいました」
こう石田に報告する。
「その数はわかりませぬ」
「しかし結構な者がそうなりました」
「抜かった、して佐吉をじゃ」
吉継、彼をというのだ。
「すぐにここに呼ぶのじゃ」
「本陣にですか」
「そうせよ、よいな」
こう命じるのだった。
「どうなったかな」
「わかりました」
「それでjは」
兵達も応える、そしてだった。
大谷はすぐに本陣に戻り甲斐姫との戦のことを話した、石田はその話を聞いてすぐにく「言ったのだった。
「包絡か」
「わかったか、御主にも」
「うむ、それをを投げてじゃな」
「堤を壊しおった」
そうしたというのだ。
「包絡の火薬でな」
「考えおったな」
石田は大谷のその話を聞いて唸って言った。
「そうきたか」
「戦になり足止めを受けても包絡を使えばじゃ」
それでというのだ。
「確かに火薬の力で堤を壊せるな」
「うむ」
その通りだとだ、石田も頷いて答える。
「それならばな」
「しかも何十発もぶつければな」
「大砲の様な威力がある」
「それで堤を壊したのじゃ」
「御主との一騎打ちの間にもじゃ」
「そうしたな、しかし」
「これでじゃ」
大谷は忌々しげに言った。
「我等の水攻めは失敗した」
「そうじゃな」
「再びやるか」
「いや、もう無理じゃ」
石田は大谷のその問いにすぐに答えた。
「二度してもな」
「もう相手に読まれておるからじゃな」
「だからじゃ」
それでというのだ。
「もうせぬ方がいい」
「では別の攻め方でいくな」
「そうしようぞ、とはいってもな」
石田は大谷に難しい顔で述べた。
「水攻めをこの様な形で潰されるとな」
「他の攻め方もな」
「迂闊に出来ぬ、これはどうして攻めるか」
「少し考えるとするか」
「そうしようぞ」
こう話してだ、石田は島に命じ堤の決壊から逃れてあちこちに散った兵達を呼び戻させそのうえであらためて城を囲んだがそれ以上は攻めなかった、その話を小田原で聞いてだった。
秀吉は目を鋭くさせてだ、報を届けた者に問うた。
「甲斐姫という姫がか」
「はい、石田様大谷様の水攻めを破られました」
「そうか、佐吉には左近がついておるが」
「それでもです」
「その甲斐姫、かなりの人物じゃな」
「どうやら」
その報をする者も言った。
「そうかと」
「そうじゃな、ではな」
「それではとは」
「わしもその甲斐姫に会いたくなったわ」
にんまりと笑っての言葉だった。
「これはな」
「またそう言われますか」
秀吉のその言葉を聞いてだ、秀長はやや呆れた様にして言った。
「兄上は」
「ははは、面白い者と聞けば会わずにはおれぬ」
「そしてご自身のものとせねばですな」
「気が済まぬ」
笑って言うのだった。
「どうしてもな」
「では甲斐姫も」
「この戦が終われば会おう」
是非にというのだ。
「甲斐姫ともな、してじゃ」
「はい、明日です」
秀長は兄にあらためて答えた。
「伊達殿が来られます」
「そうか、遂にか」
「この小田原まで」
「では会おうぞ、それも楽しみじゃ」
政宗と会うこともとだ、やはり笑って言う秀吉だった。
「どの様な者かな」
「実にですな」
「うむ、そして気に入ればな」
その時はというのだ。
「やはり欲しくなるであろうな」
「人ならばですな」
「流石に他人の女房には手を出さぬが」
それでもというのだ。
「他人の亭主ならよかろう」
「そう言われてもどうかと思われますぞ」
「安心せよ、わしはそっちの趣味はない」
秀吉は生来の武士ではなくそちらの道については関心がないのだ、だから信長の様な趣味はないのだ。
「あくまでおなごだけじゃ」
「そしておなごもですな」
「他人の妻には興味がない」
全く、というのだ。
「そこは言っておく」
「そうですか」
「しかし甲斐姫も伊達政宗もじゃ」
二人共、というのだ。
「会いたいのう」
「欲張りですな」
「欲は張ってこそじゃ」
まさにというのだ。
「実るのじゃ」
「兄上の座右の銘の一つですな」
「そうじゃ、欲は思い切り持て」
「そしてその欲に向かってですな」
「ことを進めるのじゃ」
それがいいというのだ。
「さすれば大願も成就するのじゃ」
「ですな、では」
「明日が楽しみじゃ」
こう言ってだ、そしてだった。
秀吉は甲斐姫の話を聞いて石田達に怒るのではなく甲斐姫の武勇に喜びそうして次の日政宗と会うことを楽しみにしていた。その政宗はというと。
小田原城を見てだ、共にいる片倉小十郎と伊達成実に言っていた。
「明日にじゃ」
「まことにですか」
「その様にされますか」
「うむ」
そうだとだ、彼は二人に答えた。見れば片倉は知的な美男子であり成実は端整な顔だ。政宗も非常に整った顔だが右目には眼帯がある。
「そうする」
「傾かれますか」
「ああ、そうするわ」
片倉ににやりと笑って答えた。
「わしの一世一代の傾き場になるやもな」
「ですか」
「その為にはじゃ」
周りの己の軍勢も見る、伊達家の水色の服と具足、旗の軍勢を。
「この水色も脱いでな」
「そしてですな」
成実も言う。
「その服を着られて」
「行くわ」
「ではです」
「お話しましたが」
片倉と成実が言って来た、ここで政宗に。
「我等もです」
「お供致します」
「そうしてくれるか」
「我等は伊達家の臣です」
「ならば当然のことです」
それが二人の返事だった。
「ではです」
「何処までもお供致します」
「若し殿がお許し頂けぬのなら」
「その時はです」
二人は政宗に意を決した顔で言った。
「何があってもです」
「殿と伊達家をお守りします」
「ですから」
「我等も」
「御主等の命は捨てさせぬ」
確かな声でだ、政宗はその二人に言った。
「それならばわし一人でよいだろう」
「何を言われます、殿は伊達家の柱です」
政宗にだ、片倉は強い声で言った。
「ならばです」
「命を捨てさせぬか」
「はい」
まさにという返事だった。
「関白様が何を言われようとも」
「それがしも同じです」
成実は主に毅然として言った。
「殿には指一本です」
「触れさせぬか」
「はい」
こう答えるのだった。
「何があろうとも」
「そう言ってくれるか、しかしわし一人と御主達二人ではじゃ」
「我等の方がですか」
「そう言われますか」
「そうじゃ、そもそもわしは死ぬつもりはない」
笑ってだ、政宗は二人に告げた。
「傾くのは確かに死と表裏一体じゃがな」
「それでもですな」
「ただ傾くだけではない」
「そうだというのですな」
「まさに」
「そうじゃ、無駄死にはせぬ」
それが傾きだというのだ。
「死ぬのなら思いきり派手に散る」
「それがですな」
「傾きですな」
「そうじゃ、だからじゃ」
ここはというのだ。
「盛大にやるぞ」
「はい、それでは」
「生きる為にですな」
「殿は行かれる」
「そうなのですな」
「御主達はわしの晴れ舞台を見ておれ」
まさにというのだ。
「わかったな」
「はい、それでは」
「そうさせて頂きます」
「殿の一世一代の傾きをです」
「見せて頂きます」
「ではな」
政宗は笑って言う、そしてだった。
彼は二人にだ、こうも言った。
「ではな」
「では?」
「ではといいますと」
「飲むか」
酒をというのだ。
「明日に向けてな」
「祝杯ですか」
「前祝いですか」
「そうじゃ、酒を飲みな」
そしてというのだ。
「盛大に前祝いをしようぞ」
「三人で、ですな」
「そしてですな」
「祝いそして」
「明日に向かいますか」
「そうしようぞ、そして明日帰ればじゃ」
伊達家の本陣にというのだ。
「大いにな」
「飲むのですな」
「今日以上に」
「そうしようぞ、しかしわしは降ってもじゃ」
こう言う政宗だった。
「わかるな」
「はい、心はですな」
「決して降られぬ」
「そしてまた機が来れば」
「その時は」
「動く」
不敵な笑みでだ、こう言ったのだった。
「そしてじゃ」
「そのうえで、ですな」
「天下を目指される」
「そうされますな」
「目指すのは天下じゃ」
片倉と成実に言う。
「そしてじゃ」
「我等もですな」
「その時は」
「頼むぞ、わしは天下を望むが」
しかしというのだ。
「御主達と共にいてこそじゃ」
「天下を目指す」
「いつもそう言っておられますな」
「だからですな」
「我等もまた」
「その時も力を借りる」
何があろうともというのだ。
「わかったな」
「承知しております」
「既に」
これが二人の返事だった。
「ではです」
「今は機を待ちましょう」
「天下がまた動く時を」
「その時を」
「さて、関白様は今はご健在だが」
その隻眼の目でだ、政宗はにやりと笑って言った。
「果たしてその後はどうかのう」
「ご子息の捨丸様がおられますが」
「それでもですな」
「幼子はすぐに死ぬ」
まさにというのだ。
「昨日元気だった者がな」
「朝起きれば死んでいる」
「そうしたこともざらですな」
「元服するまでわからぬ」
子供の生死はというのだ。
「特に七つまではな」
「だからですな」
「捨丸様もわからぬ」
「関白様の一粒種ですが」
「それでも」
「その時はわからぬ、では機を待つとしよう」
こう言って今は秀吉に降ることにした政宗だった、その夜に。
幸村は星を見てだ、十勇士達に顔を顰めさせて言った。
「これはいかんな」
「いかん?」
「いかんといいますと」
「星が何か教えてくれましたか」
「左様ですか」
「うむ、敗れたな」
星の動きがそれを示しているとだ、幸村は十勇士達に答えた。
「我等が」
「まさか小田原が」
「小田原での戦に敗れたのですか」
「そうなったのですか」
「いや、北条家の将星の輝きは弱まっている」
幸村にはこのこともわかった、星の動きを見て。
「だからそれはない、大きな筋では負けてはおらぬが」
「小さな戦ですか」
「それで敗れたというのですな」
「これまで勝ち続けていたが」
それがというのだ。
「一つの城でな」
「そうなった」
「左様ですか」
「おそらく忍城じゃ」
幸村は天下、西国の軍勢が敗れたその城が何処かも言った。
「このことは星には出ておらんがな」
「おわかりですか」
「それも」
「他に敗れる様な城はない」
秀吉が率いる天下の軍勢がというのだ。
「あの城は堅城で甲斐姫という女武者もいるからな」
「だからですか」
「他には考えられませぬか」
「敗れる様な城は」
「他には」
「ない」
まさにというのだ。
「おそらく明日か明後日に報が来るわ」
「忍城での負けが」
「それの報が」
「それを待つことになろう、問題はな」
ここで幸村は顔を曇らせて言った。
「義父上がどうなったか」
「石田殿と共に忍城を攻められていますが」
「それでもですな」
「負けたならどうなるか」
「それがお気になられますな」
「見たところ星は落ちておらぬ」
どの星もというのだ。
「義父上も石田殿もご無事と思うが」
「それもですな」
「報次第ですな」
「それもな」
こう言うのだった。
「まあ明日か明後日になればわかる」
「では今は、ですか」
「その報を待ちますか」
「お義父上のことも」
「あの方のことも」
「そうしよう、ではじゃ」
ここまで話してだ、幸村は十勇士に言った。
「今宵はこれで終わりじゃ」
「はい、寝ますか」
「そうしますか」
「そうしようぞ」
こう言ってだった、幸村は十勇士達と共にこの日は休んだ。そして次の日朝早くにだ。
早馬からの報を聞いて笑みを浮かべた、敗戦の報であったがその報の中身を聞いて自然とそうなった。
巻ノ五十九 完
2016・5・29