巻ノ六十九 前田慶次
幸村はこの時都に来た前田利家と話していた、前田はその大柄な身体に身振りを入れて彼に明るく昔のことを話していた。
織田家にいた時のことをだ、幸村に話すのだった。
「若い頃はな」
「右府様と」
「そうじゃ、殿とな」
今も信長をこう呼ぶ前田だった、それも明るく。
「いつも戦の場を駆けてな」
「そしてですな」
「右に左に敵を倒し」
そのうえでというのだ。
「首を幾つも取ったわ」
「そういえば前田殿は」
「槍じゃ」
それだというのだ。
「槍には自信がある」
「そしてその槍で」
「首を幾つも取ったわ」
「武辺者と聞いてます」
「自信はある、そしてな」
さらに話す前田だった。
「あの時のわしは傾いておった」
「傾奇者だったと」
「うむ、派手な服をいつも着ておった」
このことも笑って話す前田だった。
「その時の服は今も持っておるわ」
「左様ですか」
「御主は傾いておらぬな」
ここで前田は幸村に言った。
「槍はおそらく若い時のわしより上じゃが」
「それでもですか」
「傾いておらぬな」
「どうもそれがしそちらは」
「ないか」
「はい、傾くことはです」
生真面目な幸村にとってはというのだ。
「性分ではなく」
「今の様にか」
「この通りです」
見てのままというのだ。
「ありのままです」
「そうか、まあわしもな」
かく言う前田自身もというのだ。
「それは若い時の話じゃ」
「今は、ですか」
「傾いておらぬ」
見れば今は正しい身なりだ、百万石の大身に相応しく。
「この通りじゃ」
「そうですか、今は」
「しかしな」
「しかし」
「あ奴は違う」
少し苦笑いになってだ、前田はここで幸村にこう言った。
「甥はな」
「甥殿といいますと」
「そうじゃ、慶次じゃ」
幸村は自分から名前を出した。
「あ奴じゃ」
「噂には聞いておりますが」
「家を出てな」
そしてというのだ。
「ずっとじゃ」
「傾いておられて」
「天下を遊び歩いておるわ」
「そうですか」
「全く、わしが幾ら言ってもじゃ」
「お家にはですか」
「戻らぬ」
そうだというのだ。
「そして遊んでおる」
「噂には聞いております」
「そうであろうな」
前田も幸村の言葉に頷く。
「あ奴は目立つ」
「お会いしたことはないですが」
「そうか、ではな」
「お会いすればですか」
「そうしてみよ」
こう幸村に言うのだった。
「無礼があればわしに言ってな」
「前田殿にですか」
「わしがしこたま殴っておく」
若し慶次に非礼があればというのだ。
「だからな」
「安心せよと」
「そうじゃ」
例え慶次が無礼を働いてもというのである。
「よいな」
「それは」
「よい、あ奴はわしの甥じゃ」
「それ故に」
「あ奴とは叔父と甥じゃが歳が近くてな」
慶次は前田の長兄の子である、だが実は彼は養子で元々は滝川家後に織田家の重臣となる家の者だったのだ。
それでだ、直系の者の中で最も優れた前田が兄の跡を継ぐ様に信長に言われて彼が前田家の主となったのだ。長兄と彼は元々歳が離れていて甥である慶次ともだ。
「若い頃はよくな」
「喧嘩をですか」
「殴り合いをしたものじゃ」
「それはつい最近まででした」
奥村が苦笑いで幸村に話した。
「お二人は顔を会わせれば」
「そうなのですか」
「家の者はいつも困っていました」
「あ奴は拳でしかわからぬ」
これが前田の言葉だ。
「だからいつも殴っておったのじゃ」
「そうでしたか」
「そしてあ奴もじゃ」
慶次もというのだ。
「常にな」
「殴り返してきて」
「いつも殴り合いになっていた」
「これが万石持ちになってからもで」
また奥村が苦笑いで言う。
「いつも困っていました」
「そうでしたか」
「奥方様でないと」
前田の正室であるまつだ、夫を支える良妻で度胸のある性格で知られている。
「お二人を止められず」
「まつには苦労をかけたな」
前田も笑って奥村に応える。
「その都度」
「しかもしょっちゅうでしたし」
「あ奴は政はせぬし町に出れば酒か喧嘩か遊郭じゃぞ」
「そして悪戯もですな」
「幼い頃からそうでな」
まさにというのだ。
「悪童のままで」
「殿もそれに応えられて」
「殴っておったのじゃ」
「槍の又左の御名そのままに」
「ふん、今は傾いておらぬが」
それでもというのだ。
「腕も力も肝も衰えておらぬ」
「全く、殿も困ります」
「何が困る」
「ですから大名ですから」
その大名がというのだ。
「軽挙なことは」
「ふん、だから何度も言うがじゃ」
「拳でないとですか」
「あ奴はわからぬからな」
何度も言う前田だった、だがだった。
その話をしてだった、前田はあくまで引かない。しかし幸村は前田と奥村のやり取りも聞きつつそのうえで言うのだった。
「それがしは別にです」
「無礼はか」
「気にしませぬ」
「そうか、しかしな」
「それでもですか」
「御主も大名じゃ」
そうなったからというのだ。
「これはな」
「大名としての誇りをですか」
「あ奴が汚せばな」
その時はというのだ。
「わしが殴っておくからな」
「それでは」
「遠慮なくわしに言うのじゃ」
あくまでこう言うのだった。
「よいな」
「ですか」
「まあ慶次には会ってもらいたい」
こうも言った前田だった。
「あれで腕は立つし悪い者ではない」
「それ故に」
「会って何か得られる」
「だからこそ」
「どうも御主は生真面目に過ぎる」
幸村の何処までも一本気なその心を見ての言葉だ。
「だから遊びもな」
「知ってですか」
「これからのことに活かしてもらいたい」
「では」
「あ奴は、都ならな」
この町ならと言うのだった。
「勇躍にでもおるわ」
「ではそこに向かえば」
「会える、そこにいなければな」
「喧嘩ですか」
「その辺りの喧嘩を売ってきたならず者を叩きのめしておる」
遊郭にいなければというのだ。
「そうしておるわ」
「では」
「うむ、行くことじゃ」
そこにというのだ。
「いいな」
「わかり申した」
幸村も応えてだった、彼は前田慶次と会うことにした。それを決めて真田家の屋敷を出るとだった。そこで。
十勇士達が一斉に幸村のところに集まってだ、こう言って来た。
「殿、戻りました」
「今から何処かに行かれるのですか」
「そうされるのですか」
「うむ、これより遊郭に行きな」
そしてというのだ。
「前田慶次殿に会うつもりじゃが」
「あの、ですか」
「あの前田慶次殿とですか」
「お会いになられますか」
「そのおつもりですか」
「知っておるのじゃな」
幸村は十勇士達に問うた。
「前田慶次殿のことを」
「有名な方ですから」
「天下屈指の傾奇者と」
「槍の腕も凄く」
「相当な猛者であられると」
「立派な馬に乗られて」
十勇士達は幸村にこう答えた。
「確か松風といいましたな」
「途方もなく見事な馬だとか」
「前田慶次殿ご自身も大柄で」
「馬も大層だとな」
「そうか、そこまで知っているのならな」
幸村も応えて言う。
「御主達も来るか」
「はい、そのうえで」
「我等全員で前田慶次殿に会いに行きましょう」
「あの御仁はよく遊郭におられるとか」
「そこで日々遊んでおられるとのことですから」
「ではな」
ここまで話してだ、そしてだった。
幸村は十勇士達を連れてその上で遊郭に向かった、都の遊郭はこの時もかなりの賑わいを見せていた。そこに入り。
慶次のいる店は何処か聞いているとだ、上から声がした。
「わしを探しているか」
「その声は」
「上から失礼する」
一行のすぐ左にある遊郭の店の二階からだ、黒髪を荒々しく髷にした太い眉を持つ彫のある顔の男が出て来た、手には異様に大きな煙管がある。
「わしが前田慶次だ」
「そうでござるか、貴殿が」
「真田源次郎幸村殿か」
慶次は自分から幸村の名を問うた。
「そうであるか」
「如何にも」
幸村は下から慶次を見上げて答えた。
「それがし真田幸村と申す」
「その後ろに控えるのは十勇士」
慶次は彼等も見て言った。
「天下無双の豪傑達か」
「むう、会ったばかりというのに」
「もう我等のことを言ってくるとは」
「既にご存知か」
「そうなのか」
「噂は聞いている、都にまたとない豪の者達がいると」
やはり笑って言う慶次だった。
「貴殿達か、しかし」
「しかし?」
「しかしとは」
「上からこうして話すのは非礼」
慶次はまたこのことについて言った。
「そしてわしを探しておるのはわしに用があってのこと」
「その通りでござる」
幸村が慶次に答えた。
「それで参上した次第」
「では来られよ」
「この店の二階まで」
「酒でも飲みながら」
「さすれば」
「御主達も来るのだ」
慶次は十勇士達にも声をかけた。
「そして話をしよう」
「我等もか」
「我等もそうしてよいのか」
「殿だけでなく」
「我等十人も」
「ははは、遠慮はいらぬ」
慶次は十勇士達にも笑って答えた、全体的にざっくばらんで豪放だ。そこは彼の叔父である前田を思わせた。
「酒は大勢で飲む方がよい」
「それでは」
「お言葉に甘えて」
「そのうえで」
「これより」
「さあ、来られよ」
また笑顔で言う慶次だった。
「酒を飲みつつ話をしようぞ」
「それでは」
こうしてだった、幸村主従は店に入りそこの二階に上がり慶次と話をすることになった。慶次は二階の十六畳はある広い部屋で派手な色の着物の遊女二人を横に置いていた。
服は黒い上着に虎の毛皮を羽織り袴は赤い、その誰もが目を留めずにはいられない派手な身なりで座っていてだ。
部屋に入って来た一同にだ、煙管を片手に言ってきた。
「よく来られた」
「お招きに応じ」
「ははは、堅苦しいことは抜きでな」
「そのうえで」
「話をしよう、さて」
ここでだ、慶次は。
遊女達に顔を向けてだ、こう言った。
「悪いが暫しな」
「はい、では」
「わちき共は」
「少し休んでいてくれ」
こう言うのだった。
「少しこの方々と話がしたい」
「じゃあ酒と馳走を持ってきますので」
「そちらを楽しみつつ」
「頼む、馳走はな」
慶次は遊女達にこちらのことも話した。
「鯉がよいな」
「鯉ですか」
「それをですか」
「でかい鯉を油で揚げてじゃ」
そしてというのだ。
「持って来てくれ」
「わかりました、では」
「そちらを」
「うむ、ではな」
こうした話をしてだった、そのうえで。
慶次は遊女達を下がらせた、するとだった。
すぐにだ、慶次は上座だった己が座っていた場所から退いてだ、幸村の前に進み出てだ。深々と頭を下げて言った。
「まずは非礼深くお詫びし申す」
「二階から声をかけられたことを」
「そして上座で応対したことを」
このこともというのだ。
「深くお詫びします」
「いやいや、それは」
「そうもいきませぬ、これはわしの非礼」
だからこそというのだ。
「お詫び致します」
「そうですか」
「はい、まことに」
「わかり申した、ではお顔を上げられて」
幸村は慶次に穏やかな声で応えて言った。
「これより」
「共にですか」
「楽しみましょうぞ」
「そう言って頂き何より、では」
「はい、酒ですな」
「それにです」
「先程言われていましたが」
幸村は顔を上げた慶次にあらためて問うた。
「鯉を」
「はい、揚げたものがありまして」
「それをこれよりですか」
「共に食しましょうぞ」
「鯉を揚げるとは」
この食い方についてだ、幸村は目を丸くさせていた。それは十勇士達も同じでそれぞれこう言ったのだった。
「鍋ではないのか」
「焼くのではないのか」
「そして煮るのでもない」
「ましてや刺身にもしない」
「揚げるとは」
「これはまた」
「新鮮な魚は刺身すれば実に美味い」
慶次もこう言う。
「それは確かにされど」
「はい、どうしてもです」
幸村はその慶次に応えた。
「虫が気になりまする」
「川魚の虫は厄介でござる」
「だから刺身は美味でも」
「わしは食いませぬ」
「それがしもです」
幸村も応えて言う。
「あたれば厄介なので」
「身を慎んでこそですな」
「いざという時万全に戦えまする」
それだからこそというのだ。
「川魚を生では食しませぬ」
「そういうことですな、しかしです」
「揚げるとですか」
「これが実に美味いので」
「我等に馳走して頂けますか」
「この店はよい店でして」
慶次は笑いつつだ、幸村達に話した。
「おなごもよければ酒も料理もです」
「そのどれもがですか」
「非常によいので」
「だからこそですか」
「はい、真田殿はおなごは」
「奥がおりますので」
これが幸村の返事だった。
「こうした遊郭にはです」
「入りませぬか」
「入ったこともはじめてです」
「左様ですか」
「酒や美味いものは好きですが」
「しかしこうした店は」
「今まで入ったことがありませぬ」
また答えた幸村だった。
「酒や美味いものも他の店で楽しんできました」
「左様でござるか、しかしです」
「この店はですか」
「酒も馳走も美味いので」
「この度はですな」
「こちらをお楽しみ下され」
幸村も十勇士達も女色にはこれといって強い関心がなく遊郭にも興味がないことをわかっていてそのうえで勧めたのだ。
「是非」
「それでは」
「では酒と馳走を口にしつつ」
慶次は再び幸村に話した。
「話をしましょうぞ」
「はい、実は慶次殿のところに参上したのも」
「わしとですな」
「お話をしたいが為ですし」
「ははは、わしの悪さの話ですか」
「そうなりますな」
幸村は微笑んでだ、慶次の笑っての言葉に応えた。
「やはりです」
「左様ですな、では今より」
「酒と馳走を楽しみつつ」
「話をしましょうぞ」
こう二人で話してだった、十勇士達と共に酒それに鯉を揚げたものそれに豆腐や湯葉を口にしつつだった。彼等は話をはじめた。
朱、漆を塗った見事な大杯で飲みつつだった。慶次は幸村に言った。
「いや、まことに叔父御はです」
「慶次殿がそうされてですか」
「怒りまして」
「冬に風呂と称して水風呂を馳走されますと」
「これ以上はないまでに怒られて褌一丁でわしのところに怒鳴り込んできてです」
そしてというのだ。
「あのでかい拳で顔を張り飛ばしてきました」
「それはまた」
「水風呂は貴様がしたのだと」
「そしてそれは」
「わしがしました」
笑って言う前田だった。
「まことに」
「前田殿が思われた通りに」
「そうしました、しかしですぞ」
「前田殿が、ですな」
「褌一枚でそれがしの部屋まで駆け込んできて」
水風呂から飛び出るなりだ。
「殴ってきたのです」
「それも思い切り」
「全く、叔父御はいつもこうでして」
「慶次殿の悪戯にですか」
「いつもかかりますが」
しかしというのだ。
「その都度です」
「殴られますか」
「殴られなかった試しはありませぬ」
「そして前田殿もですな」
「いつもです」
「そうした悪戯があれば」
「わしだと思いまする」
やはり笑って話す慶次だった。
「常に」
「そうですか、そしてですな」
「織田家におった頃からです」
慶次も前田も若い頃からというのだ。
「家中でそうしたことをしますのは」
「慶次殿だけですか」
「はい」
まさにというのだ。
「流石に信長公にはしませんでしたが」
「それは、ですか」
「わしも出来ませんでした」
信長、主君であった彼だけにはというのだ。
「とても」
「左様ですか」
「はい、やはりです」
どうしてもというのだ。
「あの方は違いました」
「気が違う」
「そうです、そうした悪戯もさせぬ」
慶次であってもというのだ。
「そうした方でした」
「覇気ですか」
「それがありました、もっともそうしたことで怒る方ではないですが」
信長はそうだったというのだ。
「悪戯はするならしてみよと」
「そう言われていましたか」
「はい、しかしそれがしも」
「しようと思えど」
「出来ませんでした」
「そうでしたか」
「柴田殿や丹羽殿には出来ました」
織田家の中でも屈指の重臣であった彼等にはというのだ、この二人ももうこの世を去ってしまっている。
「特に柴田殿にはです」
「あの御仁にはですか」
「はい、何かと悪戯をして」
そしてというのだ。
「殴られていました」
「あの方は織田家でも屈指の力持ちだったとか」
「攻めが上手なだけでなく」
「ご自身の武勇もですか」
「よき方でした、さて」
ここでだ、鯉の揚げたものが来た。既に酒は飲んでいて最初から肴もあったがその主役が来たのである。
その鯉を見てだ、十勇士達は目を丸くさせて言った。
「これはまた」
「凄いですな」
「大きい鯉ですな」
「しかもそれが六尾も」
「凄いものです」
「ははは、二人で一尾ということで」
それでというのだ。
「召し上がられよ」
「二人でとは」
「いや、これだけの大きな鯉を」
「それは有り難い」
「何という大盤振る舞いか」
「酒や馳走は皆で楽しむからこそ美味いもの」
こう言う慶次だった、朱の大杯で酒を楽しみつつ。
「だからこそ」
「これだけのものをですか」
「用意して下さったのですか」
「そうでしたか」
「少し遊女達に言えば」
それでというのだ。
「用意してくれたので」
「では、ですな」
「遠慮は無用」
ここでもこう言う慶次だった。
「ささ、召し上がられよ」
「それでは」
「お言葉に甘えまして」
十勇士達も応える、そしてだった。
彼等も幸村無論慶次も鯉の揚げたものに箸をつけた、そうしつつ慶次は話を戻した。
「それでなのですが」
「はい、柴田殿ですか」
「よい御仁でした」
懐かしむ目での言葉だった。
「実に」
「軍略と勇猛、そして武芸にですな」
「一本気で二心のない方で」
「信長公にも忠義一筋だったとか」
「左様でした、それがしもいつも殴られましたが」
当然悪戯の結果だ、とかくよく殴られたというのだ。
「いつもそれで終わり屈託なくです」
「前田殿にもよくして下さいましたか」
「左様でした、しかしこの世を去ったことは仕方のないこと」
秀吉に敗れ自ら腹を切って果てたことはというのだ。
「戦国の世での常、ですから」
「柴田殿が去ったことは」
「武士として見事なお最期とのこと、それでです」
「よいのですか」
「柴田殿は生真面目でしたがそこに傾奇を見ました」
北ノ庄城においてお市の方と共に腹を切り炎の中に消えたこのことがというのだ。
「ですから」
「よいですか」
「はい、実は太閤様も嫌いでないし」
「では」
「はい、その様に」
こう言うのだった。
「よいです」
「そうですか」
「はい、実はあの御仁とは織田家の頃共に遊んだこともよくありまして」
「前田殿とお若い頃より親しかったので」
「そのこともあり」
それでというのだ。
「それがし太閤様もです」
「お嫌いではないですか」
「そうなのです、まさか天下人になられるとは思いませんでしたが」
それでもというのだ。
「それも戦国の世ですな」
「力があればそれに相応しい座に就く」
「それが」
「では慶次殿は」
「ははは、わしは大不便者」
殊更に笑ってだ、慶次は幸村に答えた。
「今が丁度よいです」
「左様ですか」
「よく大名とか言いますな」
「そうした話を聞きます」
「大名なぞ、槍を振るうだけが能の者なぞ」
それではとだ、笑って言う慶次だった。
「大名には相応しいものではありませぬ」
「学問、茶にも長けていると聞いていますが」
「采配や政のことには興味がありませぬ故」
「大名にはですか」
「なりませぬ、そうしたものには全くです」
「興味が、ですか」
「地位なぞ傾奇者には無用」
「ではこのままで」
「充分でござる」
あくまでこう言うのだった。
「銭はあるだけで」
「傾けるだけで」
「左様、不便に生きて」
「不便にですか」
「死にまする」
「左様ですか」
「傾き続け」
そうしてというのだ。
「生きていきまする、しかし」
「しかし?」
「真田殿は違いますな」
微笑んでだ、幸村のその目を見て問うたのだった。
「それは」
「それがしは」
「武士として、義に生きることがですな」
「そして義に死ぬことが」
「望みですな」
「そう言われますと」
そう言われるとだった、幸村は飲みつつも態度を畏まったものにさせてだった。そのうえで慶次に対して答えたのだった。
「それがし確かに」
「義をですな」
「守りそして」
「生きていきたいですな」
「最後の最後まで」
「ではそうされて下され、真田殿ならばです」
幸村、彼ならというのだ。
「それを必ずです」
「出来ますか」
「家臣の方々と共に」
十勇士も見ている慶次だった、幸村と共にいる。
「主従で」
「我等は殿と一緒です」
「何があろうと共におります」
「火の中水の中」
「六界の何処にでもです」
幸村が行くのならというのだ。
「お供致します」
「そして死ぬ時は一緒です」
「生まれた時は違えども」
「よき家臣を持たれている」
慶次はこのことにもだ、微笑んで述べた。
「しかも十人も」
「それがしには過ぎた者達です」
その彼等を見てだ、幸村は慶次に答えた。
「非常に」
「ならばですな」
「はい、この者達がいるので」
共に、というのだ。
「それがし随分助けられています」
「そうでしょうな、では家臣も大事にされ」
「そのうえで」
「義を歩まれよ、ではわしは」
「傾奇者としてですか」
「大不便者として生きまする」
ここでも笑ってこう言う慶次だった。
「そうしていきまする」
「大不便者ですか」
「はい、やはりです」
「慶次殿はですか」
「槍しか芸のないこれ以上はないまでの」
自分のことをこう語るのだった。
「大不便者なので」
「そうして生きていかれますか」
「最後まで」
「ですか、では共に生きる道を踏み外さずに」
「そしてですな」
「生きていきましょうぞ」
「そうしましょうぞ、では」
ここまで話してだ、慶次は幸村と十勇士達にさらに話した。
「酒と鯉を」
「はい、残さずですな」
「食べましょうぞ」
こうして最後の最後までだった、主従は慶次が馳走してくれた酒と鯉を残さず楽しんだ、それが終わってだった。
慶次と笑顔で別れ屋敷に戻った、そして後日前田に会って慶次の話をすると。
ここでだ、前田はやれやれといった顔になってだ、幸村に言った。
「全くあ奴は」
「相変わらずだと」
「仕方のない奴だ」
苦いが親しみを思い出す顔での言葉だった。
「ああして傾いてばかりで」
「ご自身のことを大不便者と言われ」
「欲もなくじゃな」
「傾いておられました」
「大名にもじゃな」
「興味がおありでないと」
「そうであろう」
わかっているといった返事だった。
「そうした奴じゃ」
「確か禄は」
「親族じゃ」
義理であるがというのだ。
「出しておるが」
「それもですか」
「万石出すといってもな」
「断られたのですな」
「そうじゃ、大名なぞ堅苦しいだけとな」
「やはりそう言われましたか」
「それでじゃ」
前田にもこう言ってというのだ。
「八千石と言ってもな」
「それもですか」
「出奔したと笑ってな」
「ですが前田殿は」
「認めておらぬ」
慶次のそれをというのだ。
「あ奴が勝手に言っておるだけじゃ」
「やはりそうですか」
「それで三千石でな」
「ようやくですか」
「納得しおった、それでその三千石で傾いておるわ」
都においてというのだ。
「困った奴じゃ」
「そうですか、ですが」
「うむ、ああした奴がいてもじゃ」
ここでさらに親しみを出して言った前田だった。
「よい」
「左様ですか」
「ああして何処までも傾く者がいてもな」
「いいですな」
「傾きたくば傾け」
前田は言った。
「あ奴に言った言葉じゃ」
「何処までもですか」
「あ奴は傾く道を選んだからな」
「それだけに」
「そう言ってやった」
他ならぬ慶次本人にというのだ。
「そしてあ奴も笑って応えた」
「そうでしたか」
「あ奴らしいな」
「はい、確かに」
「それも道じゃ」
こう言うのだった。
「だからよいとした」
「左様ですか」
「うむ、そして話は変わるが」
「と、いいますと」
「御主の義父のことじゃが」
大谷のことを言うのだった。
「残念じゃな」
「はい、実に」
「まだ若いというのに」
一転してだ、前田は苦い顔になって述べた。
「しかもあれだけの者が」
「業病になられるとは」
「刑部と治部でじゃ」
この二人でというのだ。
「国の両輪となれた」
「まさに」
「治部は宰相の器じゃが」
「それでもですか」
「あ奴は平壊者じゃ」
前田も石田のこの難点を指摘した。
「あ奴自身にも言ったが」
「それでもですか」
「なおらぬ、正しいと思えばな」
そう思えばというのだ。
「あ奴は止まらぬ」
「誰に対しても」
「言う、場所も考えずにな」
「それが正しくあろうとも」
「人は言われたい時もあればじゃ」
「そうでない時もありますな」
「あ奴がそれがわかっておらぬ」
それが石田の難点だというのだ。
「何度言ってもな」
「正しいことは正しいですな」
「あ奴はな」
「そうした方だからですな」
「宰相の器でもな」
石田は確かにそれだけの人物だというのだ、だがその難所故にというのだ。
「あ奴をその場で止められる者が必要じゃ」
「そしてそれが」
「刑部じゃったが」
「その義父上がですか」
「病になってはのう」
「難しいですか」
「何かとな、どうしたものか」
前田は難しい顔のまま述べた。
「これからの天下は」
「治部殿だけでは危うい」
「平壊者故にな」
「しかし関白様がおられますし」
「いや、関白様の世にそのままなればよいが」
「と、いいますと」
「世の中何が起こるかわからぬ」
前田もこう言うのだった。
「だからな」
「若し関白様に何かあれば」
「太閤様の後が危うくなる」
「関白様にご子息がおられても」
「まだご幼少じゃ、まだ天下は幼君ではな」
「治りませぬな」
「そこまで至っていらぬ」
天下が統一されて間もないが故にというのだ。
「だからな」
「関白様でないと」
「関白様のお歳と資質なら問題ないが」
「関白様に何かあれば」
「次が危ういのう」
「では関白様を何とか」
「御主は大抵都におる」
このことから言う前田だった。
「だからな」
「関白様を」
「何かあれば頼めるか」
「わかり申した」
幸村は前田に確かな声で答えた。
「関白様の御身は」
「御主がおればじゃ」
幸村の腕を知っての言葉だ。
「頼れる、だからな」
「わかり申した」
「ではな、あとわしはじゃ」
前田はさらに言った。
「内府殿と共に大坂におる」
「前田殿は」
「うむ、そのうえで太閤様をお助けする」
「唐入りにはですな」
「行かぬ」
はっきりと名言した言葉だった。
「大坂に残る」
「では内府殿も」
「あの御仁もな、もっとも内府殿はな」
「ご本人としては」
「江戸におられたいであろう」
自身の領地にというのだ。
「移って間もない」
「それ故に」
「ご領地を治めたいであろう」
「やはりそうですな」
「しかしあの御仁もじゃ」
「大坂におられ」
「天下の政をされておる」
その家康もというのだ。
「わしと共にな」
「では何かあれば」
「大坂に来るのじゃ」
まさにそこにというのだ。
「よいな」
「わかり申した」
「さて、ではわしは用が終われば大坂に戻る」
前田は穏やかな顔に戻り幸村に言った。
「また何かあれば都にも上がる」
「そしてその時は」
「また話そうぞ」
「はい、それでは」
こうした話をしてだった、前田は実際に彼の務めを行いそのうえで大坂に戻った。そしてそのうえでだった。
幸村はあらためてだ、十勇士達に話した。
「東国の徳川殿じゃが」
「はい、あの方ですな」
「これまでも見ていましたが」
「あの方をですか」
「これからも」
「見てもらいたい」
こう言うのだった。
「やはり気になった」
「東国のことが」
「また、ですな」
「あの方のことも」
「気になる」
だからというのだ。
「妙にな、そして徳川家といえば」
「はい、伊賀と甲賀」
「この二つの忍が存在しています」
「だからですな」
「その忍達には注意せよ」
「そうだというのですな」
「そうじゃ、あまり見ておると命を奪われぬまでも」
例えそうでもというのだ。
「咎められるからな」
「そうなっては厄介ですし」
「出来る限りですな」
「怪しまれぬ様に」
「見に行けと」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「前田殿とのお話から少しな」
「気になり」
「そして、ですか」
「徳川家のことを知りたくなった」
「そうなのですな」
「何か気になる」
幸村は勘からそう動いていた。
「まさかと思うが」
「天下第一の大名ですし」
「豊臣家は二百万石ですが徳川家は二百五十万石です」
禄の話も出た。
「豊臣家は金山や貿易も持っていますが」
「石高は徳川家の方が上です」
「そのこともありますし」
「若し徳川家が動けば」
「その時は」
「天下は乱れるかも知れぬからな」
それ故にというのだ、そしてだった。
幸村は十勇士達に東国特に徳川家の領地をこれまで以上に見る様に命じた、そしてそのことを話して実際にだった。
幸村は都においてだ、天下の情勢を見ていた。今は穏やかな天下を。
巻ノ六十九 完
2016・8・13