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巻ノ七十

                 巻ノ七十  破滅のはじまり

 天下の情勢は唐入りの戦を行っているとはいえ穏やかだった、天下の政は安定しこのまま泰平が磐石になると思われていた。

 だが幸村は聚楽第で秀次からその話を聞いてだ、即座に言った。

「義父上はその様な」

「うむ、刑部はな」

「される方ではありません」

「わしもわかっておる」

 秀次も幸村に確かな声で答えた。

「業病が治る願掛けに百人を斬るなぞな」

「それは迷信ですし」

「若しそれがまことでもじゃ」

「ご自身の為に人を無闇に殺めるなぞ」

「刑部はせぬ」

「はい、絶対に」

「これは質の悪い噂じゃ」

 秀次は言い切った。

「まことにな」

「どうしてそうした話が出たのか」

「元々業病が治るというな」

「そうした話があるのは知っていますが」

 幸村もだ。

「ですがそれを義父上がなぞと」

「そうした噂をする者はおる」

「世には」

「そうじゃ、だからじゃ」

「そうした噂が出ましたか」

「うむ、しかしな」

 秀次はここでまた幸村に言った。

「太閤様はそのことを聞かれ大いに怒られてじゃ」

「そのうえで」

「そうした噂をしたものを処罰し実際に人斬りをしておった者を打ち首にした」

「そうされましたか」

「実はその者は業病ではなく偸盗であった」

「盗人でしたか」

「大坂の夜で暴れていたな」

 そうした者だったというのだ。

「そこは違ったが」

「しかしですか」

「実際に人を殺しておった」

 このことは確かだったというのだ。

「それでどちらにしてもこの話は終わった」

「義父上への疑いも晴れましたか」

「幸いな、しかし業病はな」

 秀次は大谷のこの病については難しい顔で述べた。

「厄介じゃ」

「どうにもなりませぬか」

「薬を取り寄せ祈祷もしておるが」

 それでもというのだ。

「よくならぬ」

「そうですか」

「全く、刑部程の者が」

 秀次は苦い顔で言った。

「どうにかなって欲しいが」

「ですな、まことに」

「しかしそれはな」

「どうにかなりませぬか」

「うむ、薬や祈祷でもな」

 それでもというのだ、こうしたことを話してだった。

 そしてだ、秀次は幸村にあらためて話した。

「してじゃ、太閤様は今は刑部のことを収められ」

「そしてですな」

「お元気じゃ」

「それは何よりです」

「よく茶々殿とおられる」

「茶々殿と」

「叔母上よりもな」

 ねねのことをだ、秀次はこう呼んでいて幸村にもこの呼び名で話した。

「そうされておられる」

「左様ですか」

「太閤様のご側室は多いがな」

「その中でもですな」

「うむ、茶々殿がお気に入りでな」 

 それでというのだ。

「今もじゃ」

「よく一緒におられますか」

「そうじゃ、あの方とは」

「茶々殿はです」

 幸村もその茶々について話した。

「かつて太閤様のお子を生まれていますな」

「捨丸様じゃな」

「そうでしたが」

「太閤様はお子はな」

「どうしても」

「ずっと恵まれておられなかった」

 若い頃から女好きでそのことでねねと何度も大喧嘩になり信長が嗜めることもあった。この時信長はねねに手紙も送っている。

「それがじゃ」

「茶々殿との間にはですな」

「お子が出来たからのう」

「余計にですな」

「あの方が特にお気に入りじゃ、それに」

 秀次は幸村にさらに話した。

「あの方はな」

「はい、お市の方のご息女で」

「お市の方に最もよく似ておられる」

「その話それがしも聞いたことがあります」

 幸村も秀次にこう返した。

「大層お奇麗な方だと」

「そうじゃった、織田家はお顔立ちの整った方が多いが」

 信長にしてもそうだった、彼は生前その整った顔立ちでも知られていた。彼の次男織田信雄もその顔立ちは有名である。

「その中でも特にじゃ」

「お市の方は」

「見事なお顔立ちの方で背も高く」

 秀次は幸村にこのことも話した。

「非常にお奇麗であられた」

「そしてですな」

「そのお市の方にな」

「茶々殿は最もですか」

「似ておられるのじゃ」

 そうだというのだ。

「生き写しと言ってもいい」

「そうですか」

「うむ、実にな」

「そういえば太閤様は」

「時折世で言われておるな」

 秀次も幸村に応えて話した。

「お市の方を慕われていたと」

「それはまことだったのですか」

「表立っては言えぬが」

 ここで秀次は小声になった、幸村は信頼出来る者だとわかっているが自然とそうなってしまったのである。

「しかしな」

「それでもですか」

「太閤様は慕っておられた」

「やはりそうでしたか」

「これはあくまで内密の話じゃがな」

「それでもですか」

「この話はまことじゃ」

 こう幸村に話した。

「太閤様も誰にも言われぬが」

「見る限りは」

「北ノ庄の城が落城してじゃ」

 ここで柴田勝家は滅んで秀吉の天下は確かなものになった、そしてこの時にお市の方も夫であった柴田と共に自害しているのだ。

「その時太閤様はいたく落胆しておられた」

「お市の方のご自害に」

「そうされておられた」

「やはりそうでしたか」

「そうしたことを見るとな」

「太閤様はお市の方を慕われていて」

「生き写しの茶々殿にな」

 まさにというのだ。

「思い入れが強いのであろう」

「左様ですか」

「うむ、それでじゃ」

「そのことはわかりました、ですが」

 ここまで聞いてだ、幸村は考える顔になった。そのうえで秀次に問うた。

「太閤様は茶々殿にとってはです」

「親の仇じゃな」

「そうなりますな」

「あの方は小谷城攻めの陣頭に立っておられた」

 浅井長政の本城だ、茶々の父の。

「小谷城が落ちてな」

「それでお父上が自害され」

「そして北ノ庄城でな」

「お母上が」

「どちらもご自身は二人の妹君と共に助かっておるがな」

「はい、幸いに」

「しかしそこで兄上もじゃ」

 茶々のだ、名を万福丸といった。

「太閤様がな」

「捕らえた後で関ヶ原で処刑されましたな」

「田楽刺しのうえ磔になった」

 その万福丸はというのだ。

「そうしたこともあった」

「では太閤様を」

「深く恨んでおられたであろうが」

「その茶々殿が」

「太閤様はお気に入りじゃ」 

 まさにというのだ。

「誰よりもな」

「そうなのですな」

「うむ、よくお傍におられて今はな」

「その茶々殿も」

「太閤様を慕われている」

 かつては深く強く恨んでいたがというのだ。

「そうなった」

「そうなのですな」

「仇の室になるのも戦国の世のならいじゃが」

「それでもですな」

「その茶々殿すら惹き寄せる」

「それが太閤様ですな」

「天下無双の人たらしと言われるだけはある」

 秀吉、彼はというのだ。

「まさにな」

「ですな、確かに」

「もう太閤様はお子は諦めておられる」

 秀次はこのことについてもだ、幸村に話した。

「最早な、それがな」

「関白様としましては」

「悲しくある、わしはこう考えておる」

 秀次は幸村に己の考えも話した。

「わしは太閤様の跡を継ぐ」

「そして天下人となられますが」

「次の天下人はわしの子ではなくな」

「太閤様のお子を」

「そう考えておる、若しくはわしは天下人にならずな」

 そうしてというのだ。

「お子に天下人になって頂き」

「後見人にですか」

「なろうと思っておるのだ」

「そうでしたか」

「だからな、何とかな」

「太閤様にはですか」

「諦めず」

 そのうえでというのだ。

「お子をもうけるようにされて欲しいが」

「しかしですか」

「こればかりはな」 

 子宝を授かることはというのだ。

「上手くいくものではないからな」

「だからですか」

「太閤様も諦めておられる様じゃ」

 秀次は幸村に難しい顔で述べた。

「何度かわし自身太閤様にお話しておるが」

「お子をもうけられる様にと」

「いつも太閤様に言われる、それは務めておるが」

「それでもですか」

「出来ぬとは、笑って言われる」

「左様ですか」

「まことに子のことは難しい」

 授かることはというのだ。

「どんどん生まれる場合もあれば」

「そうでない場合もありますか」

「だからじゃ」

 それでというのだ。

「わからぬ」

「そうですか、では」

「太閤様も同じじゃ、どうにもな」

「お子を授かりませんか」

「そういえば御主もじゃが」

「それがしも」

「まあ中々出来ずともな」

 それでもというのだ。

「諦めるでないぞ」

「はい、それがしもまた」

「ましてや御主は若い」

 それだけにというのだ。

「まだこれからじゃ」

「では」

「そして子が出来れば大事にせよ」

 幸村にこうも言った。

「よいな」

「はい、文武の両道と」

「人の道をじゃな」

「教えたいと思っております」

「ではその様にな」

「子が出来ればそうします」

「ではな、それと実はな」

 ここでだ、秀次は幸村にこうしたことも話したのだった。

「先日大坂に行った時に叔母上に言われた」

「北政所様に」

「太閤様が変わられたとな」

「言われましたか」

「どうも勘気を起こされるとな」

 それがというのだ。

「止まらずしかも極端だとな」

「その様にですか」

「変わられたとな」

「そういえば」

 その話を聞いてだ、幸村はすぐに察して言った。

「利休殿のことは」

「あのこともじゃな」

「それになるでしょうか」

「あの時はわしも不思議に思った」

「太閤様の為され様にしては」

「あまりにも酷だと思ってな」

 器が大きく無闇な殺生は殺さない秀吉であるがというのだ。

「わしも妙に思っておった」

「ですか」

「わしもお止めしようとしたが」

「それが、ですな」

「出来なかった」

 難しい顔での言葉だった。

「このことは今でも無念に思っておるが」

「その勘気がですか」

「年を経るごとにな」

「酷くなっていますか」

「大和の叔父上とじゃ」

 秀長のことである。

「大野政所様が隠れてからな」

「そうなられましたか」

「その様じゃ、それでわしも気をつけよと」

「北政所様に言われましたか」

「うむ」

 実際にというのだ。

「その様にな」

「若しや関白様にも」

「勘気を受けぬ様にとな」

「言われましたか」

「実際な、だからわしも太閤様のことを気遣い」

「そしてですか」

「穏やかな話をしておるが」

 それがというのだ。

「わしから見れば太閤様はな」

「特にですか」

「変わらぬ様に見える」

 そうだというのだ。

「別にな」

「そうしたことはなく」

「以前と変わらぬ、利休殿のことはな」

 それはというと。

「何かあったのかとな」

「太閤様だけがご存知だ」

「そうした事情があったのかと思っておる」

「では太閤様は」

「そうですか」

「しかしどの様な事情であれ」

 秀次は悲しい顔になり幸村にこうも話した。

「大納言様、叔父上がおられれば」

「利休殿はですか」

「叔父上が止められてな」

 秀吉、他ならぬ彼をだ。

「ああはならなかった」

「よく言われていますな」

「太閤様を止められるのはな」

「大納言様だけでしたか」

「そうであった、治部と刑部も頑張ってな」

 そしてとだ、秀次はさらに話した。

「前田殿も内府殿もおられるが」

「太閤様を必ず止められるのは」

「あの方しかおられなかった」

 秀長、彼あけあったというのだ。

「それがな」

「太閤様より早く亡くなられ」

「叔母上の話も聞かれるが」

 それでもというのだ。

「常に傍におられぬ」

「大納言様とは違い」

「そうじゃ、叔父上はいつも太閤様の傍におられた」

 秀吉の実の弟としてだ、それで秀吉の傍にいつも控え何かあればすぐに彼を止めていたのだ。

「叔母上はおなごであられるからな」

「女は家にいるもので」

「戦の場や政の場にはおられぬ」

 それが為にというのだ。

「太閤様を止められてもな」

「すぐにその場でとは」

「いかぬ、しかも叔母上は縁の下の方」

「だからですな」

「政に口を出される方ではない」

 あくまで女房なのだ、その立場から秀吉を支え続けており根っからの百姓のおなごであるのがねねである。

「だからな」

「政のこととなると」

「叔父上は必要であられた」

 どうしてもというのだ。

「今言っても仕方ないが」

「ですか」

「とにかくわしは今はここでな」

 都にある聚楽第にいてというのだ。

「政を見る、そしてな」

「やがては」

「天下を治める」

「では」

「その時は御主にも力を借りたい」

 幸村、彼にもというのだ。

「頼むぞ」

「わかり申した」

「御主は自分では政は不得手だと思っておるな」

「実は」

 このことを隠さずだ、幸村は秀次に答えた。

「そう自覚しています」

「どちらかというと武じゃ」

「そちらの者かと」

「そうじゃな、しかし御主も決してな」

「政についてですか」

「劣っておらぬ」

 世の者達と比べてというのだ。

「だから政のこともさらに学びな」

「そのうえで」

「わしが天下の政を見る時になれば」

「助けにですか」

「なってもらいたい」

「わかり申した、では及ばずながら」

「頼むな」

 こう幸村に話す、そしてだった。

 幸村も秀次に誓った、そのうえで政のことも学んでいった。そして来たるべきに備えていた。

 世は唐入りの戦があり名護屋に多くの兵が集まっていてもおおむね穏やかであった。だがその中でだった。

 ある夜幸村は屋敷に戻っていた十勇士達と共にまた外で酒を飲んで宴としていた。だがそこで星達の状況を見てだ。

 前の様に蒼白になりだ、こう言ったのだった。

「将星が落ちた」

「将星が」

「あれが」

「うむ、見るのじゃ」

 空から大きな星が落ちていた、その動きを見ての言葉なのだ。

「あの星をな」

「では」

「天下の将のどなたかがですか」

「近いうちにお亡くなりになられる」

「そうなのですか」

「しかも他の星達の動きがじゃ」 

 それも見て言う幸村だった。

「禍々しい、天下に凶兆が幾つか起こる」

「幾つかとは」

「それは一体」

「何じゃ、この星の動きは」

 さらに言う幸村だった。

「これまでにない、恐ろしいことになるか」

「そこまで、ですか」

「凶兆が幾つも起こる」

「そうなるのですか」

「その様じゃ、これは大事に備えねば」

 そうしなければならないとも言うのだった。

「真田家も、そして天下に凶兆を起こさせぬ為にも」

「必ず」

「そうしなければ」

「ならない」

 こう言うのだった、そしてだった。

 幸村は秀次に星のことを話した、すると秀次も真剣な顔で応えた。

「わかった、ではな」

「関白様も」

「将星ということは天下の柱ともいうべき方が亡くなられる」

「そしてです」

「凶兆は何かわからぬが」

 それでもというのだ。

「謀反や地震、野分や火事とな」

「色々考えられまする」

「何があってもよい様に銭や兵を動かす用意をしておこう」

「常に」

「備えあれば憂いなしじゃ」

 だからこそというのだ。

「備えておこう」

「天下に異変があった時に」

「いつもな、そして治部や刑部にも話し」

「天下の急には」

「すぐに動ける様にしておこう」

「それでは」

「よく伝えてくれた」

 秀次は微笑み幸村に礼も述べた。

「ではな」

「銭や兵を備え」

「そしてじゃ」

「いざという時は」

「そうしたものを使い」

「危機を乗り切るとしよう」

「わかりました」

 幸村はまた頷いて答えた、そして。

 秀次にだ、こうも言った。

「このことはです」

「うむ、太閤様にもな」

「お話をしておきましょう」

「何故兵や銭を用意しておくか」

「そのことをお話しておきますと」

「いらぬ噂が出てもな」

「太閤様が事情をご存知なので」

「問題はない」

「ですから」

 それでというのだ。

「お話しておきましょう」

「わしもそう思う、ではな」

「その様に」

「うむ、太閤様にお話をしておこう」

 兵や銭を集めておく理由をというのだ、秀次は幸村の言葉を受けて実際にそうした。すると秀吉も秀次自身から大坂城でそう言われてだった。

 笑みを浮かべてだ、彼に答えたのだった。

「ははは、そんなことか」

「宜しいですか」

「わしに言わずともよかったわ」

 そうした話だったというのだ。

「御主は関白じゃ」

「だからですか」

「わしの跡を継ぐ、そうしたものが火急に備えていなくてはな」

 それこそというのだ。

「その方が駄目じゃ」

「では」

「うむ、よいぞ」

 やはり笑って答えた秀吉だった。

「断りを入れるまでもない」

「それでは」

「そして兵や銭だけではないな」

「兵糧や武具も」 

 そうしやものもとだ、秀次は答えた。

「蓄えております」

「尚よい、兵や銭を置いておいてもな」

「飯や矢、槍がなければ」

「とても戦えぬ、そして御主自身もじゃな」

「はい、刀を集めています」

「そうしておるな」

「百姓あがりですが」

 豊臣家自身がだ、だがそれでもと秀次は言うのだ。

「それがしも武士」

「だからじゃな」

「刀を集めて手に入れております」

「それもよい、義輝公程でないにしても」

 足利幕府の十三代将軍だ、天下の剣豪でもあり松永久秀に殺される時に思う存分集めた刀を振るい戦った末に死んでいる。

「それでもな」

「刀を集めることはですな」

「武士のしかも高い場所におればな」

「嗜みですな」

「そうじゃ」

 まさにというのだ。

「だからな」

「刀を集めていることも」

「よい」

 まさにというのだ。

「これからも集めよ」

「さすれば」

「わしもな」

 ここでこうも言った秀吉だった。

「五十五を過ぎた、ならばな」

「そこから先は」

「よい、人間五十年という」

 信長が愛していた敦盛の言葉も出す。

「それならばな」

「五十五を超えられたからには」

「何時どうなるかわからぬ」

 そうしたものだというのだ。

「だからな」

「後は、ですか」

「頼むぞ」

 こう言うのだった。

「わしの跡は大坂に入りじゃ」

「そして」

「天下とな」

 そして、というのだ。

「ねね、そして茶々達もな」

「はい、それでは」

「任せるからな」

「わかり申した」

「治部、刑部にじゃ」

 この二人にというのだ。

「徳川殿に前田殿もいる」

「お二人も」

「頼れ、わかったな」

「はい、ですが」

「徳川殿じゃな」

「あの方は」

「律儀ではあるが」

 天下の話通りだ、確かに家康は律儀である。しかしというのだ。

「二百五十万石の力があり」

「知勇兼備であられ」

「徳もある」

「そうした方であられ」

「野心もな、今は消えておるが」

「消えていても」

「それはもたげていないだけじゃ」

 そうした意味で消えているだけだというのだ。

「だからな」

「何かあれば」

「出る」

 そうした野心だというのだ。

「だからじゃ」

「徳川殿には隙を見せるな」

「そのうえでじゃ」

「お力を借りよと」

「まあ御主なら大丈夫じゃ」

 秀次、彼ならばというのだ。

「それなりの歳で資質もあり家臣もおる」

「だからこそ」

「徳川殿もな」

「野心を起こされず」

「無事に御主を助ける」

「左様ですか」

「御主ならな」

 秀次の年齢と才覚ならというのだ。

「大丈夫じゃ、むしろ何かあればな」

「徳川殿を頼り」

「又左殿とな」

「そしてですか」

「天下を治めよ、大坂城に入りな」

「わかり申した」

「さて、ではじゃ」

 ここまで話してだ、秀吉は。好々爺の笑顔で秀次にこうも言った。

「茶を飲まぬか」

「茶ですか」

「そうじゃ、とびきりの茶が入ってな」

 それでというのだ。

「虎之助があちらから送ってくれたものじゃ」

「朝鮮から」

「いや、あちらでは茶を飲まぬそうじゃ」

「そうなのですか」

「我が国と明ではよく飲むが」

「朝鮮ではですか」

「茶は飲まぬ」

 そうだというのだ。

「だからな」

「そちらからの茶ではありませぬか」

「うむ、明との戦であちらの将が持っておった茶が手に入ってな」

「その茶をですか」

「こちらまで送ってくれた」

 大坂までというのだ。

「わしへの献上ものとしてな」

「では」

「これから飲もうぞ」

 その茶をというのだ。

「よいな」

「わかり申した、それでは」

「これから飲もうぞ」

 こう話してだ、そしてだった。

 秀吉は秀次を気前よくかつ人懐っこく茶に誘いそうして共に飲んだ、秀次から見た彼はこれまで通り優しく寛容な叔父だった。

 幸村はこの時は父昌幸が都に来てそのうえで彼を屋敷に留めてそこで茶を飲みながら上田のこと等を聞いていた、しかし。

 その場でだ、朗報が来たのだった。

 家臣の一人が二人のところに来てだ、こう言って来たのだ。

「茶々様ご懐妊です」

「何と、茶々殿がか」

「はい」

 家臣は頭を下げたまま昌幸に答えた。

「間違いないとのこと」

「そうか、姫ならよいが」

「父上、それは何故ですか」

 幸村は父の今の言葉にすぐに問い返した。

「姫ならよいとは」

「もう次の天下人は決まっておるからじゃ」

「関白様で」

「そうじゃ、だからじゃ」

「若しご子息ならば」

「その時はどうなる」

「太閤様のお子ですか」

 幸村もこのことからすぐに察した、そのうえで父に答えた。

「確かに。その場合は」

「若し太閤様が心変わりされれば」

「その時は」

「天下が乱れるもとじゃ」

 それになるというのだ。

「だからな」

「それで、ですか」

「うむ、姫君ならばよい」

「その場合は何もなくですな」

「関白様が跡を継がれな」

「豊臣家の天下となりますな」

「唐入りも収まり」

 そしてというのだ。

「あらためて天下泰平を磐石にする為の政が行われる」

「だからこそ」

「よいのじゃが」

「ご子息ならば」

「太閤様は変わられた」

 昌幸は顔を険しくさせて言った。

「だからな」

「お変わりになられましたか」

「大納言様がおられなくなってからじゃ」

 まさにその時からというのだ。

「一変されたからな」

「それがしはそこまでは」

「わしにはわかる」

 天下屈指の智略の持ち主と言われたことは伊達ではないというのだ。その自負もあり昌幸はこう言うのである。

「あの方は歯止めが効かぬ様になっておる」

「だから唐入りも利休殿のことも」

「ああなったのじゃ」

「では」

「若しご子息ならばな」

 茶々が産む子がというのだ。

「厄介なことになるぞ」

「左様ですか」

「その場合太閤様は必ず関白様を遠ざける」

「そしてそれが」

「天下の乱のもととなる」

 まさにというのだ。

「そうなる」

「左様ですか」

「うむ、危険じゃ」

「ではこれは」

「ご子息ならば凶兆じゃ」

 天下のそれだというのだ。

「天下のな」

「そうなりますか」

「まずいことになった」

 昌幸は難しい顔で言った。

「生まれてくる可能性は半々じゃが」

「それでもですか」

「天下はどうなるか」

「それが、ですか」

「わからなくなったわ」

「では」

「よいか、関白様は天下に必要な方じゃ」

 天下が泰平であり続ける為にはというのだ。

「だからな」

「お護りすることですな」

「それに務めよ、しかしな」

「それでもですか」

「それは家があってのことじゃ」

 真田家がというのだ。

「わかるな」

「はい、関白様をお護りしても」

「家に危害が及ばぬまでじゃ」

「それまでに留めるべきですか」

「若し太閤様に睨まれれば」

 秀吉、他ならぬ彼にだ。

「わかるな」

「はい、その時は」

「当家なぞ吹けば飛ぶものじゃ」

 秀吉にしてみればというのだ。

「十万石程度ではな」

「はい、徳川家ならともかく」

「所詮十万石じゃ」

 その程度ならばというのだ。

「太閤様にしてみればどうということはない」

「だからですな」

「そこまではするな、しかし」

「はい、関白様はです」

 幸村は昌幸に強い声で言った、申し出る様にして。

「それがしを認めて下さいました」

「そうじゃな」

「人としてです」

「己を認めた者は見捨てたくない」

「そう思いまする」

「だからじゃな」

「はい、出来れば」 

 幸村は必死にだ、昌幸に言った。

「そう考えています」

「そう言うと思っておったわ、ではな」

「それではですか」

「何かあったら言え」

「では」

「わしがこの頭を使ってじゃ」

 そしてというのだった、昌幸は幸村に笑って話した。

「家を守る」

「そうして下さるのですか」

「何、確かに太閤様から見れば吹けば飛ぶ様な家じゃが」

 それでもというのだ。

「護ることは出来る」

「それでは」

「存分にやれ、しかし太閤様は切れる方じゃ」

 昌幸は秀吉のこともだ、幸村に話した。

「動きも非常に速い」

「だからですな」

「その動きを読みきることは難しい」

 それでというのだ。

「そうした方じゃからな」

「関白様をお護りするには」

「御主も全てを賭けて動け」

「それでは」

 幸村は父の言葉に強い声で頷いた、しかし。

 昌幸はその幸村にだ、こうも言ったのだった。

「だがそれはな」

「半々ですな」

「姫君が生まれる場合もある」

「その可能性もですな」

「半分じゃ」

 それだけあるというのだ。

「そして姫君が生まれればな」

「何もないですな」

「その姫君がどうなるか」

「それは」

「うむ、よいことになる」

 茶々が産む子が娘ならというのだ。

「徳川殿のご子息のどなたかとな」

「婚姻を結び」

「強い結びつきとなりますな」

「その場合はな、あと死産もある」

「産まれても」

「そして産まれた子もな」

 折角産まれてもというのだ。

「すぐ死ぬことも多い」

「ですな、赤子は」

「幼な子もな」

「そういえば捨丸様も」

「むしろその場合はな」 

 苦い顔での言葉だった、だがそれでもと言うのだった。

「まだその方がな」

「よいですか」

「うむ」

 こう言うのだった。

「子供が死ぬ方がな」

「男の方なら」

「これは内密の話じゃ」

「はい、わかっておりまする」

「ご子息が生まれられるとな」

「まずいのですな」

「そうした状況じゃ」

 それ故にというのだ。

「わしはそう願っておる」

「困ったことですな」

「うむ、まさかここで太閤様にお子が出来るとは」

「父上もですか」

「思いもしなかった」

 昌幸の智謀を以てしてもというのだ。

「まことにな」

「しかしですな」

「こればかりはまさかと思っていてもな」

「わからぬことですか」

「人が生まれることはな」

「人ではわからぬ」

「そういうものじゃ」

 まさにというのだった。

「難しいことじゃ」

「確かに、人であるなら」

「そこまではわからぬ、天の配剤じゃからな」

「どうしても」

「わしでも読めぬ、しかしまことにじゃ」

 また言う昌幸だった。

「今の太閤様にな」

「ご高齢であられる」

「お子が出来たものじゃ」

「それが、ですな」

「不思議ではある」

 こう言うのだった。

「出来たにしてもな」

「まさか、ですな」

「還暦近くでお子か、実はな」

「実はとは」

「この噂は全くの根拠のないものじゃ」

 こう前置きしてだ、昌幸は幸村に話した。

「茶々殿のお子が太閤様のお子ではない」

「その話は」

「聞いたことがあるか」

「何か口さがない者達が言っておるとです」

「御主も聞いておるか」

「捨丸様の時に」

「あったな」

「はい、それがですか」

 この怪しい噂がというのだ。

「再びですか」

「出るやもな」

「しかし茶々殿のお傍には」

「うむ、太閤様以外の男はじゃ」

「行くことが出来ませぬ筈です」

「その通りじゃ、ましてや二人きりになるなぞな」

 そうした疑われる様な状況になることはというのだ。

「有り得ぬことじゃ」

「左様ですな」

「捨丸様の時は治部殿だの大野修理殿だの言われたが」

「治部殿が」

「あると思うか」

「そんなことは有り得ませぬ」

 絶対にとだ、幸村は父に対して言い切った。

「治部殿の様な生真面目で清廉な方がです」

「主の側室とな」

「その様なことは有り得ませぬ」

 幸村は父に強く語った。

「それがしも治部殿がどういった方が知っていますが」

「わしもじゃ、何があろうともじゃ」

「治部殿はそうしたことはされませぬ」

「天と地がひっくり返ってもな」

「とても」

「それは大野殿とて同じじゃ」

 もう一人噂のある彼もというのだ。

「あの御仁もじゃ」

「茶々殿が近江におられた頃からのですな」

「茶々殿の乳母のご子息でな」

「その頃からのお付き合いですな」

「そうであった、しかし」

「大野殿もまた」

「その様なことをされる方ではない」

 彼についてもだ、昌幸は言い切った。

「とてもな」

「左様ですな」

「そうじゃ」

「それがし実は大野殿ともです」

「お会いしたことがあるな」

「大坂において、大柄で恰幅のよい偉状夫で」

 大野の外見からだ、幸村は話した。

「礼儀正しく謙虚な」

「よく出来た方じゃな」

「治部殿、刑部殿に比べて目立ちませぬが」

「忠義のお心があるな」

「確かな方です、ただ」

 大野についてだ、幸村はこうも言ったのだった。

「私はない方にしても押しはです」

「ないな」

「治部殿や刑部殿の様に身体を張ってお止めする方ではないかと」

「引き摺られるな」

「そうした方に見受けますが」

「誰かを裏切る方ではない」

「はい」

 まさにとだ、幸村は語った。

「あの方も」

「そうであるな」

「ではこの話も」

「やはりな」

「口さがない噂ですか」

「捨丸様の時もな、そしてな」

「今度も」

「そうした話が出る」

 まず、とだ。昌幸は幸村に話した。

「このことは既に源三郎にも話したが」

「兄上にも」

「話した、しかしな」

「それでもですな」

「この話はおかしな方向に向かう恐れがあり」

「そうした嫌な噂もですな」

「出る、このことを頭に入れておくことじゃ」

 幸村に対して話した。

「わかったな」

「わかり申した、それでは」

「うむ、そのうえでな」

「このまま都で務めを果たしていきまする」

「その様にな」

 こう話してだ、そしてだった。

 幸村は秀吉にまた子が出来たことを祝いつつも確かに不吉なものを感じていた、そのうえで己の下に戻った十勇士達に話した。

「父上からのお話じゃ」

「若し産まれるお子がですか」

「ご子息ならばですか」

「気をつけよ」

「そう言われますか」

「そうじゃ、父上に言われたが確かにな」

 実際にとだ、幸村は十勇士達に話した。

「天下に二日はいらぬし跡継ぎもじゃ」

「二人はいらぬ」

「そうなりますか」

「うむ」

 その通りだというのだった。

「まだわからぬがな」

「若しも、ですな」

「ご子息が産まれたならば」

「その時はですか」

「我等も」

「動いてもらうやも知れぬ、拙者もじゃ」

 幸村自身もというのだ。

「動く」

「そうされますか」

「そしてそのうえで」

「関白様をお助けしますか」

「そうする、だから頼む」

 是非にと言うのだった、十勇士達に。

「その時はな」

「承知しました」

「では我等もです」

「関白様の為に」

「働かせて頂きます」

「その様にな、さて」

 ここまで話してだ、、幸村は。

 秀次を守りいざという時は救おうと決意し動こうとしはじめた、そして。

 その彼にだ、家臣の一人が伝えた。

「ご子息であるか」

「はい」

 その家臣は幸村に畏まって答えた。

「それも母子共にです」

「お元気か」

「随分大きな赤子とか」

 家臣は幸村にこのことも話した。

「お身体もお声も」

「お元気なのじゃな」

「それもかなり」

「そうか、危険なことになった」

 まさにとだ、幸村は述べた。

「これは」

「と、いいますと」

「関白様に何かあればじゃ」

 幸村は己の言葉にいぶかしむ家臣にさらに言った。

「その時は拙者にすぐに伝えてくれ」

「わかりました、では」

「その様にな」

 幸村は家臣に告げた、そしてだった。

 その夜星を見てだ、十勇士達に言った。

「ようやくわかった」

「星の動きが」

「それが」

「うむ、これまで凶兆を見てきたが」

 夜の空に出ていたそれをだ。

「わかった、そういうことであったのだ」

「太閤様のお子はご子息だとか」

「では、ですな」

「そのことが」

「まさに」

「凶兆となる、関白様にとってだけでなく天下にとっても」

 その夜空を見ての言葉だ。

「大変なことになる、だからな」

「はい、では」

「関白様をですな」

「何とかお護りせねば」

「天下泰平の為にも」

「ただ、父上から言われた」

 十勇士達にもこのことを話した。

「家のことを第一に考えよとの」

「真田家の」

「我等の家の」

「そう言われた、そのうえで全身全霊を使い」

 そしてというのだ。

「関白様をお護りしよう」

「お家も関白様も」

「どちらも」

「欲を張りたくなった」

 こうも言った幸村だった。

「必ずな」

「ではその殿の欲に」

「我等も共に進みます」

「無欲な殿が珍しく出された欲」

「それに」

「頼むぞ」 

 こう話すのだった、そしてだった。

 幸村はその話を聞いてあらためて誓った、秀次を護ることを。武士として己を認めてくれた相手に対して。



巻ノ七十   完



                            2016・8・22

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