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巻ノ七十一

                 巻ノ七十一  危惧

 秀吉に子が産まれたことは瞬く間に天下に知れ渡った、家康はこのことを懐妊の頃より知っていたが。

 彼は大坂の己の屋敷でだ、主な家臣達にこう言った。

「今もじゃ」

「信じられませぬな」

「太閤様にお子とは」

「五十五を超えられて」

「まさか」

 四天王の面々も言うのだった。

「お子とは」

「いや、それはです」

「どうにも」

「俄には」

「まあわしもじゃ」

 ここでこう言った家康だった。

「正室は今はおらぬがな」

「ご側室の方がですか」

「幾人かおられ」

「そして、ですな」

「お子も」

「出来ておるが」

 しかしと言うのだった。

「太閤様はな」

「はい、どうにも」

「あの方は近頃めっきり弱られています」

「衰えがです」

「隠せませぬ」

「それでお子か」

 難しい顔で言うのだった。

「妙な話じゃ」

「若しや」

 本多正純が言って来た、本多正信の子で父親以上の謀略家として家中で知られている。それと共に忌み嫌われてもいる。謀略を嫌う家中の気風により。

「それは」

「滅多なことを言うな」

 すぐにだ、酒井がその正純を嫌悪の目で見て言った。

「その様なことはな」

「そうじゃ、そんなことは言うな」

「武士の風上にも置けぬ言葉ぞ」

「口に出すでない」

 榊原と本多、井伊も正純に言う。

「全く、御主といい父親といい」

「碌なことを言わぬな」

「そして考えぬわ」

「そこまで言うでない」

 家康はここでは四天王を窘め彼等にこう言った。

「まあとにかく信じられぬ話じゃ、今も」

「ですな、確かに」

「そのこと自体はです」

「太閤様にお子ですか」

「今ここで」

「このままではな」

 さらに言った家康だった。

「跡を継がれるのはな」

「関白様ですな」

「聚楽第におられる」

「あの方でしたな」

「このまま」

「そうなる筈であったが」

 それがというのだ。

「ここでな」

「わからなくなったと」

「太閤様にご子息が生まれ」

「そうなったからこそ」

「これは」

「そう思う、甥よりもな」

 家康は血の話もした。

「やはりな」

「実の子」

「それ故に」

「太閤様もですか」

「ここは」

「既に跡継ぎは決められておるが」

 その秀次にだ。

「しかしな」

「それは変えられるものですし」

「太閤様の一存で」

「それでは、ですな」

「これは危うくなりましたか」

「わしは天下の泰平を望んでおる」

 家康は四天王達に己の偽らざる願いを述べた。

「折角戦国の世が終わったからな」

「それならばですな」

「このまま泰平であり続けて欲しい」

「再び戦乱の世にならぬ」

「そうあって欲しいですな」

「泰平であってこそ田畑もよくなり町も栄えてじゃ」

 そしてと言うのだった。

「民達も幸せに暮らせるのじゃ」

「だからこそですな」

「天下は泰平であって欲しいですな」

「それが第一ですな」

「何といっても」

「このまま太閤様から関白様に移れば」

 天下人の座がだ。

「何も問題はない」

「はい、関白様ならば」

「あの方ならばです」

「無事に天下を治められます」

「お歳からもご資質から言っても」

「だからそう思うが」

 しかしと言うのだった。

「それがな」

「若しも、ですか」

「お生まれになったお子に継がせられようとし」

「太閤様が動かれれば」

「危ういですな」

「そうやも知れぬ、これはな」

 ここでまた言った家康だった。

「若しもの時はわしもな」

「太閤様にな」

「お話されますか」

「そしてそのうえで」

「関白様を次の天下人に」

「そうするとしよう」

 家康は四天王達にこう話した、だが。

 四天王達と別れ屋敷の道場で剣術の鍛錬をしているとだ、そこに先程は四天王達に叱られてから沈黙していた正純が来てだ。

 そしてだ、こう家康に言ってきた。

「殿、実はです」

「どうしたのじゃ?」

「若し関白様に何かあれば」

 剣呑な目の光でだ、正純は顔を伏せたうえで目だけで家康を見て言ってきた。

「その時はです」

「若しやと思うが」

「はい、そうです」

「拙僧もそう思いまする」

 見れば正純の他にもいた、以心崇伝だ。家康は南禅寺の住職であった彼の学識と頭の回転の速さを聞いて召し抱えたのだ。

「若しもですが」

「関白様に異変があればか」

「天下はです」

「そう言うか」

「はい」

 その通りというのだ。

「そう思いまするが」

「天下か」

 家康はその話を聞いてこう言った。

「そう言われるとな」

「如何ですか」

「その時は」

「何も思わぬと言えば嘘になる」

 家康は表情を変えずに言った。

「実は駿府に入り甲斐、信濃を手に入れた頃からな」

「天下をですな」

「考えておられましたな」

「よもやt思っておったしこのことは主な者にも言っておった」

 四天王や他の主な重臣達、所謂徳川十六神将にだ。

「そして太閤様もな」

「そのことはご承知で」

「それで、ですな」

「関東に転封とされ」

「今も大坂に留めておられますな」

「天下を望んだことがあるのは事実じゃ」

 家康は正純と崇伝に話した。

「確かにな、しかし」

「今は、ですな」

「そのお考えは」

「消しておった、関東のこともあるし関白様が天下人として無事に治められる」

 だからこそというのだ。

「その考えは消しておったが」

「しかしです」

 正純は家康にあえて言った。

「その関白様がどうかなれば」

「次に天下を治められるのはか」

「殿だけです」

 こう己の主に言うのだった。

「この天下に」

「だからか」

「はい、その時は」

「わしに天下人になれというか」

「殿のお考え次第です」

「その言葉は聞いた、しかしじゃ」 

 それでもと言う家康だった。

「他言は無用、わしの胸の中に留めておいてじゃ」

「そしてですか」

「わしは関白様をお護りする」

 こう言うのだった。

「必ずな」

「そうされますか」

「天下を乱す者は天下人の器ではない」

「その逆ですな」

「天下を安らかにする者じゃ」

「例え戦があろうとも」

「無論野心はある」

 家康はこれの存在は否定しなかった。

「天下を目指そうとするな、しかしな」

「それでもですな」

「そうじゃ、天下人になるには」

 その為にはというのだ。

「野心も必要じゃ、しかし野心があろうとも」

「この天下を」

 正純も言う。

「安らかにする」

「それが肝心なのじゃ」

「だから乱すのではなく」

「所詮人の場所は限られておる」

 家康は遠い目になりだ、正純と崇伝にこうも言った。

「起きて半畳、寝て一畳」

「人がおる場所は」

「それだけですか」

「天下を取っても己の場所はそれだけじゃ」

 こう言うのだった。

「その後はな」

「天下万民のもの」

「天下人になろうとも」

「そういうものじゃ、野心だけで天下を取っても」

 乱してまでだ、そうしてもというのだ。

「続かぬ」

「到底ですな」

「天下を手に入れても」

「野心だけの者は」

「権勢だけ求める者は」

「わしはそれだけで天下を取るつもりはない」

 あくまでだ、家康はこのことは断った。

「天下を取って何をするかじゃ」

「では殿は」

 崇伝はここまで語った家康にあえて問うた。

「天下人になられたならその先は」

「考えがあるというのか」

「そうでしょうか」

「それは言わぬ」

 今は、と返した家康だった。

「わかるな」

「はい、そういうことですか」

「今言うのはこれだけじゃ」

「畏まりました」

「あくまでな、しかし天下か」

 家康はまた言った。

「わからぬ様になるか」

「殿、どうもです」

 稽古の相手をしていた大柄で逞しい顔に強い目の光の者が言ってきた。家康そして徳川家のぶどう指南役である柳生宗厳だ。

「関東のことですが」

「何かあったか」

「はい、蒲生殿のお身体がです」

 会津にいる彼がというのだ。

「思わしくないとか」

「そうなのか」

「近頃」

「ふむ、薬を送るとしよう」

「そして関東の政ですが」

「そちらはまだじゃな」

「本腰となるのは」

 それはというのだ。

「先です」

「そうか、まだか」

「はい、ですがあの地は治めますと」

「豊かになるな」

「土は上方に比べて悪いです」

「それでもじゃな」

「川が多く」

 それでというのだ。

「しかと治めればです」

「その水を使ってじゃな」

「よき田畑、港が出来て」

「町もじゃな」

「そして城も」

「江戸のそれもか」

「かなりのものが出来るかと」 

 家康に畏まって述べた。

「それがしも思いました」

「わかった、では関東にいる者達にはじゃ」

「このままですか」

「わしの命のままにな」

「政をですな」

「続ける様に言おう」

 こう柳生に述べた。

「御主は先程まで江戸におったが」

「それで見てきたうえでの言葉です」

「ならな、しかし城もか」

「天海殿も言われていますが」

「相当なものが築けるか」

「考え様によっては小田原、そして」

「大坂城よりも」

 さらにというのだ、秀吉の居城である今現在天下の城と言われている名城よりもというのである。

「見事なものにか」

「なるかも」

「そうか、ではな」

「城もですな」

「また戻る時が来よう」

 江戸、そこにだ。

「その時にな」

「あらためてですな」

「命じよう、はじめて見た時は何もなかったが」

「しかしそれはです」

「うむ、何処も同じじゃ」

 はじめは何もない場所であるということはだ。

「都にしろこの大坂にしろじゃ」

「はじめは何もなく」

「そこに人が入りな」

 そしてというのだ。

「築く」

「そのうえで」

「もうけられるのじゃ」 

 田畑や町に港、城がというのだ。

「だからな」

「江戸もまた」

「築く」 

 これからというのだ。

「そうする」

「わかり申した」

「そしてやはりな」

「城ですな」

「うむ、築くことが出来れば」

 その時はというのだ。

「巨城を築こうぞ」

「是非共」

 こうした話もした家康だった、だが。

 正純と崇伝にはだ、厳しい顔で注意もしたのだった。

「わしは謀は使うが」

「あまり、ですか」

「みだりにはですか」

「用いるものではないとも考えておる」

 こう言って注意するのだった。

「やはり正道を歩むべきじゃ」

「殿としては」

「その様にお考えですか」

「天下は謀ではなく法と仁によって治めるものじゃ」

 家康の根底にある考えだ、実際にこの考えに基づきこれまで領地を治めてきて領民達にも公平な名君として慕われてもいる。苛斂誅求もせず彼は領地の民からはよく殿様として愛されてもいるのだ。

「だからな」

「はい、では」

「我等も必要な時以外は」

「言うことはない、わしも用いぬ」

 謀をみだりにはというのだ。

「正道の政こそが最もよいのだからな」

「わかり申した」

 二人も家康の言葉に頷いた、だが家康はここで再び天下に考えを巡らせることとなった。だがそれは己の胸の内に収め。

 そしてだ、秀次を陰に日向に支える様になっていた。特に。

 服部にだ、こう命じたのだった。

「若し関白様に何かあればな」

「その時は」

「お護りせよ」

「我等伊賀者が忍として」

「そうせよ、必要とあらば伊賀十二神将もじゃ」

 服部の腹心であり伊賀の上忍達である彼等もというのだ。

「使ってな」

「わかり申した、それでは」

「政の方はわしが何とかする」

「関白様の御為に」

「天下の為にな、しかし」

「しかしとは」

「日に日にじゃ」

 家康は屋敷の己の間で呼んだ服部に難しい顔で述べた。

「雲行きが怪しくなってきておるわ」

「関白様に関して」

「太閤様に暗いお考えが宿られておる」

「まさか」

「そのまさかじゃ」

 家康は服部にすぐに答えた。

「関白様をな」

「そして、ですか」

「お拾様をな」

 我が子である彼をというのだ。

「その様に考えておられる」

「ですが太閤様はご高齢で」

「若し何かあればな」

「はい、お拾様はご幼少です」

「とても天下は治まらぬ」

「だからですな」

「次の天下人は関白様でなくてはならぬが」

 それでもというのだ。

「今の太閤様はな」

「お拾様が可愛く」

「やはり我が子は可愛い」

 家康はここで彼の長子であった信康のことを思い出した、信長の命で泣く泣く腹を切らせたが彼への愛情を忘れたことは一日たりともない。

「それでじゃ」

「どうしてもですな」

「その様にお考えになられておる」

「ですが」

「言った通りじゃ、太閤様はご高齢じゃ」

「何かあれば」

「お拾様は幼過ぎる」

 それでというのだ。

「関白様でなければな」

「それがおわかりになられぬ」

「太閤様ではないというのじゃな」

「そう思いまするが」

「親子の情は何よりも深い」

 ここでまた信康のことを思い出した家康だった、そのうえで服部にも言うのだった。

「御主もわかるであろう」

「確かに」

 服部にも子がいる、それで家康の言葉に頷くのだった。

「そう言われますと」

「それでじゃ」

「このことに関しては」

「このままではそのお想いが日に日に強くなりな」

「止めることがですか」

「出来なくなる、既に利休殿と唐入りのことがある」

 この二つのことにもだ、家康は言及した。

「大納言様がいつもお傍におられた時とは違う」

「歯止めがですか」

「効かぬことがある、だからな」

「今のうちにですか」

「何とかする様に動いておく」

「それが為にも」

「頼むぞ」

「わかり申した」

 服部も応えた、そして実際に彼は腹心である十二神将達にも話し秀次の身の周りの警護を密かにさせた。

 秀吉の異変には大谷も気付いてだ、大坂城内で石田に密かに囁いた。

「気付いておるな」

「うむ、危ういな」

 石田は腕を組み大谷に険しい顔で答えた。

「太閤様はな」

「関白様を邪険に思われておる」

「近頃都や大坂で妙な噂が出はじめておる」

 石田も大谷に言う。

「殺生関白という言葉じゃ」

「摂政関白をもじったな」

「関白様が狩りが禁じられている時や場所に狩りをして獣を殺したりな」

 石田はまずこのことを話した。

「そして聚楽第から鉄砲で民を撃っておるだのな」

「馬鹿な、そんなことは」

「うむ、有り得ぬ」

 石田も言う。

「あの方はそうした無道はされぬ」

「そうした方では断じてない」

「他にも武具を集めておるなぞな」

「それは武家の嗜みじゃ」

 武士ならば戦に備えるものだからだ、大谷はこのことは問題なしとした。

「何がおかしいのだ」

「そうだな、しかしだ」

「それがか」

「口実になりそうじゃ」

「関白様ご謀反の」

「その意図ありとな」

「馬鹿な、その様なことを言えば」 

 それこそとだ、大谷は石田に返した。

「誰でも大名、いや武家ならばじゃ」

「謀反の考えありとな」

「なってしまうぞ」

「しかしそうしてでもな」

「太閤様はか」

「考えはじめておられるやもな」

「それは大変なことじゃ」

 さしもの大谷も驚愕を禁じ得ない、背中を冷たい汗が流れ止まることはない。明らかな危機をそこに感じているからだ。

「そうまでして口実にしたいと思われておるのなら」

「太閤様はな」

「関白様を何が何でもじゃ」 

 それこそ恥も外聞もなくだ。

「消すおつもりじゃ」

「お拾様を跡継ぎにする為にな」

「お拾様はまだお生まれになったばかりじゃ」

 この事実をだ、大谷は言った。

「まだ何があるかわからぬ」

「子はどうしてもな」

「昨日笑って駆け回っていてもじゃ」

「次の日にはということがある」

「少しの風邪ですぐに死ぬ」

 それが子供だというのだ。

「若し関白様がおられねば」

「その通りじゃ」

「それでお拾様に何かあれば」

「豊臣の血は絶える」

「ましてやそのまま成長されても」

 大谷は拾がそうなる場合についても述べた。

「太閤様も還暦が近いのじゃ」

「ではな」

「何時どうなるかわからぬ」

「関白様にいてもらわねばならぬ」

「ご幼少では天下は治まらぬ」

 まだそうした時期ではなかった、天下が統一されてまだ数年だ。天下の治は磐石とまでは至っていないのだ。

 だからだ、秀吉に何かあった場合残された幼少の拾ではというのだ。

「乱れる素じゃ」

「それでわしも思う」

「次の天下人はじゃな」

「関白様しかおられぬ」

「では」

「わしは何があっても関白様をお護りする」

 石田は大谷にその誓いを告げた。

 そのうえでだ、大谷に頭を下げんばかりにして言った。

「御主も頼む」

「最初からそう決めておる」

 これが大谷の返事だった。

「ならばば」

「うむ、それではな」

「我等、そして心ある者達を集め」

「関白様をお護りしよう」

「必ずな」

 こう誓い合う、二人は早速有志達を集め秀吉の考えをあらためさせると共に秀次を護る為に動きはじめた。そして。

 秀吉の正妻である北政所にもだ、二人は面会を願い出て言うのだった。

「どうか関白様をです」

「お護り下さい」

「どうも太閤様はお拾様を大事にされるあまり」

「関白様を」

「それは私も感じています」

 ねね、北政所は二人に静かに答えた。

「太閤様はどうも」

「はい、関白様がおられねば」

「天下は危うくなります」

「ですからどうか」

「北政所様からも」

「私もそのつもりです、ですが」

 北政所はその温和で人懐っこい感じの顔を曇らせてだ、己に何度も頭を下げて頼む石田と大谷、彼女が幼い頃から加藤や福島達と共に育ててきた子供の様な彼等に言った。

「近頃太閤様は毎日ここに来られてもすぐに」

「茶々様のところにですか」

「行かれて」

「お拾殿に会われています」

 他ならぬ我が子にというのだ。

「ですから」

「奥方様からもですか」

「言うことは」

「その時がどうも」

 言う前にというのだ。

「出来ません」

「では」

「それでは」

「茶々殿に私が話そうとしても」 

 この場合についてもだ、北政所は二人に話した。

「私は百姓の娘、あの方は浅井長政殿と」

「お市様のお子」

「だからですか」

「かつてとはいえ主家筋の方です」

 市は信長の妹だ、北政所も信長には色々とよくしてもらった。夫婦喧嘩では彼女を立てて秀吉を窘めたこともある。

「ですから」

「ですか、では」

「北政所様からも」

「どうしても言えませぬ」 

 出来る様な間柄ではないというのだ。

「これが」

「何と厄介な」

「それでは」

「小竹殿がおられれば」

 北政所も無念の顔で言った。

「この様なことはなかったのですが」

「全くです」

「あの方がおられれば」

「太閤様を止めてくれました」

「必ず」

「内府殿にお話をしましたか」

 北政所は二人にこう尋ねた、家康にはというのだ。

「あの方には」

「はい、既に」

「そうしました」

「それであの方にもです」

「動いてもらっていますが」

「ならば大丈夫です」

 家康ならばとだ、北政所は言った。

 だがそれでもだ、北政所は心の中に不吉なものを感じそのうえで二人にこうも言った。

「ですが利休殿のことを思い出すのです」

「あの方の時」

「あの急な」

「太閤様のお動きは速いです」

「はい、非常に」

「そのことは」

「だからこそ」

 正室として共に一介の足軽だった頃から共にいて糟糠も舐めてきた、北政所はこの経験から二人に話した。

「非常にお動きは速く」

「身動きも頭の回転も」

「どちらも」

「確かにあの方もお歳です」

 それが為の衰えは隠せないというのだ、秀吉も。

「ですが」

「それでもですね」

「そのお動きの速さは衰えておられない」

「ご決断は早く」

「動かれることも」

「このことで天下に勝る者はいません」

 それこそというのだ。

「内府殿、又左殿も」

「とてもですな」

「あの方のお動きには敵わない」

「そのお速さには」

「私も若い頃より驚くことが多かったです」

 彼女自身もというのだ。

「もうそうされたのかと」

「では」

「この度のことも」

「少しでも気を抜けば」

「利休殿の時の様に」

「そうです、それにそなた達は朝鮮を行き来してもいます」

 唐入りの戦においてだ、二人は武具や兵糧の調達と送りを受け持っている。それで唐入り二十万の大軍を戦わせているのだ。

「それにも忙しく天下の政もあります」

「だからこそ」

「少しでもそちらが忙しいと」

「その間に」

「そうしたことも有り得るのですな」

「私も見ておきます」

 北政所は二人に約束はした。 

 だがそれでもだった、二人にこうも言うしかなかった。

「ですが太閤様ということを承知しておくのです」

「わかり申した」

「さすれば」

 二人もここは頭を垂れて応えるしかなかった、そしてだった。

 北政所の下を退出してからだ、二人は話した。

「北政所様の言われる通りだな」

「全くだ」

 大谷は石田の言葉に頷いた。

「少しでも気を抜くとな」

「関白様は危ういぞ」

「利休殿の時もそうであった」

「そのことも思うとな」

「そうじゃな、しかしわしも御主もな」

「唐入りの仕事もあるし天下の政のこともある」

 石田もこのことを言った。

「それに御主は」

「この病がな」

 大谷は歯噛みした、頭巾で覆ったその顔を抑えて。

「無念じゃ、こうした時に」

「わしが送った薬は飲んでおるか」

「常にな」

「それで何とか治して」

「そしてじゃな」

「治れ」

 その業病に対しての言葉だった。

「御主の様な者は病に倒れてはならぬ」

「そしてじゃな」

「長く生きよ、天下の役に立てずともよい」

「天寿を全うせよというのだ」

「そうあれ、だからな」

「かたじけない、だがわしもな」

 大谷は自分を心から気遣う石田に痛み入りつつ応えた。

「そう簡単には倒れぬ」

「その病でもか」

「うむ」 

 こう言って誓うのだった。

「安心せよ、必ずな」

「病を治してじゃな」

「充分に働く、そしてじゃ」

「関白様も」

「お助けしようぞ」

「内府殿も又左殿もおられるしな」

「それに都には近頃伊賀者が入り源次郎殿もおられる」

 大谷は幸村の名前も出した。

「我が娘婿殿がな」

「うむ、あの御仁もか」

「頼りになる娘婿殿じゃ、だからな」

「わしも頼りにしてか」

「よい、とにかく何としてもな」

「天下の、豊臣家の為にも」

「関白様をお護りしようぞ」

 二人でもあらためて誓い合った、二人は何とか秀次を護ろうとしていた。だが空の星の動きを見てだった。

 天海は弟子達にだ、暗い顔で言った。

「間違いない、凶兆は近い」

「以前からお師匠様が言われている様に」

「そうなのですか」

「あってはならないことが起こる」

 嘆息しつつこうも言った。

「いかんな」

「では」

「上方のことは殿がお伝えになっていますが」

「関白様が」

「あの方が」

「星の動きにはそう出ておる」

 まさにというのだ。

「多くの御仁がお助けしようとしているが」

「それが、ですか」

「残念なことに」

「そうなるのう」

 言葉の調子は変わらなかった。

「やはり」

「左様ですか」

「ではこのことは」

「殿にお伝えしますか」

「そうしますか」

「うむ、しかしこの星の動きは」

 さらに言う天海だった、それを見ながら。

「お伝えする頃にはな」

「手遅れと」

「そうなりますか」

「最悪の事態じゃ」

 こうも言った天海だった。

「豊臣家にとっては、しかし」

「しかし?」

「しかしとは」

「いや、何でもない」

 ここで天海は将星の一つの輝きが大きく強くなるのを見た。黄色い光を放つそれが。

 だがその星のことはだ、今は誰にも伏せていた。 

 そしてだ、星の動きをさらに見て弟子達に言った。

「一度荒れるかも知れぬがすぐに収まり」

「そしてですか」

「そのうえで」

「天下はまた泰平となり今度こそは長く治まる」

 収まる、ではなかった。

「そうなると出ておる」

「ですか、では」

「この度のことは、ですか」

「確かに酷いことになりますが」

「天下自体は」

「むしろ一度荒れた後でな」

 それからというのだ。

「よりな」

「よく治まる」

「そうなるのですか」

「星の動きを見ますと」

「そうなのですか」

「拙僧はそう見る」

 天海は弟子達にも穏やかで謙虚だ、決して声を荒くすることなく心優しい。このことが崇伝とは違うところだ。それで今もこう言ったのだ。

「大事であるがそれで天下は大いに乱れることにはならぬ」

「では」

「天下の泰平は、ですか」

「一度荒れはしても」

「続きますか」

「むしろ磐石になり」

 その泰平がだ。

「本朝は長く平和に栄えることになりそうじゃ」

「それはよきこと」

「民も喜びまする」

「この戦国が終わりそうなるとは」

「まさに」

「全く以てな、では夜も遅い」

 星を見終わりだ、天海は弟子達に身体を向けてここでも穏やかに言った。

「寝るとしよう」

「わかりました」

「さすれば」 

 弟子達も応える、そしてだった。

 天海は自身の床に入った、だが翌朝起きるとすぐに家康に星で見たことを書いた文を送った。

 その文を大坂で読んでだ、即座にだった。

 家康はその文を焼き捨ててだ、崇伝に己の顔の相を見させて問うた。

「今のわしの相はどうなっておる」

「はい、非常にです」

 崇伝は家康の問いにすぐに答えた。

「よいものです」

「そうか」

「はい、これ以上はないまでによく」

「ならよいがな」

「前にも増してです」

 崇伝は見たままを述べていく。

「いいものになっています、これはです」

「これは?」

「稀に見る、宋の太祖の様な」

「そうした相か」

「そうなっています」

「そうか、宋の太祖か」

 そう聞いてだ、家康は頷いた。実は今話している崇伝が感情的に天海に対抗心を燃やし彼を嫌っているのは知っている、だからここはあえて天海の文のことは言っていない。

「わしの今の相は」

「漢の高祖ではなく」

「そちらか」

「間違っても明の太祖ではありませぬ」

「ならよい、明の太祖はな」

 家康もこの皇帝のことは聞いている、確かに英傑であるが。

「あまりにも惨い」

「そうした方でしたな」

「血は流さずに限る」

「ですから殿は」

「宋の太祖か」

「そうした相になってます」

「わかった、そういえば宋の太祖は大酒で死んだ」

 弟を己の部屋に呼び二人だけで酒を飲んでいて弟に自分の次の皇帝になれと言って皇帝になった時は断固としてやれという様なことを言ってこと切れたという、とはいってもこの最期については色々と言われている。

「わしも酒は控え身を慎むか」

「それがようございますな」

「わかった、では身を慎みな」

「酒等も控えられ」

「己の身を保とう」

「そうされますか」

「そうか、宋の太祖であり」

 天海の文のことも思い出して言う。

「そういうことか」

「?殿一体」

「いや、何でもない」

 ここで天海の文のことは隠した。

 そしてだ、崇伝にあらためて問うた。

「ところで運命は変えられるな」

「はい、それにつきましては」

 崇伝は家康に己の学識から話した。

「人には天命がありますが」

「それは行い次第で変わるな」

「助ける者もいれば」

「それでじゃな」

「人の運命も変わりまする」

 それもまた、というのだ。

「この世のあらゆることと同じく」

「そうか」

「左様です」

「ではわしはまず正しきことを行おう」

「と、いいますと」

「関白様は何としてもお護りする」

 これが家康の選んだ正しきことであった。

「太閤様にも申し上げる」

「何処となく」

「あの方がお聞きになられる様にな」

「そうですな、やはり人の道を考えますと」

「それが一番よいな」

「拙僧も否定出来ませぬ」

 僧侶でありながら含むものも多く正純の様に陰謀を得意とする崇伝にしてもだ、そうした行いがよいことは事実と述べた。

「やはり」

「ではな」

「関白様もですか」

「わしは運命を変えたい」

「若し関白様の運命が危ういのなら」

「そうしたい」

 是非にと言うのだった。

「あの方の運命を変えよう」

「何としても」

「やはりあの方は天下に必要じゃからな」

 そう思うからこそとだ、家康もまた秀次を何とかして助けようと決意した、このことは秀次の耳にも入っていたが。

 彼は近い者達にだ、こう漏らしていた。

「わしは何か悪いことをしたのか」

「巷で言う殺生関白ですか」

「あのお言葉ですか」

「それもあるが」

 浮かない顔での言葉だった。

「何か太閤様に悪いことをしたのか」

「いえ、それはないかと」

「誓って言えます」

「関白様は何も悪くありませぬ」

「何も悪いことはしておられませぬ」

「断じてです」

「それはありませぬ」

「ならばどうしてじゃ」

 難しい顔での問いだった。

「わしもわかる、太閤様は今はわしを邪魔に思われている」

「それはやはり」

 一人が言った。

「お拾様がお生まれになったので」

「やはりそれか」

「あの方を世継ぎにされたいので」

「ならそうすればよかろう」

 それもよいとだ、秀次は言った。

「お拾様が天下人でもな」

「それでもですな」

「関白様はよいのですか」

「天下人の座も」

「そちらも」

「太閤様がそうされたいのならな」

 達観さえ見せてだ、秀次は語った。

「わしは喜んでお拾様に天下を明け渡す」

「しかしです」

「その場合は関白様はお拾様の後見となられ」

「やはりお拾様の上にあります」

「そうした方になられますので」

「摂政でもか」

 ここでも残念な顔になった秀次だった。

「わしが邪魔か」

「お拾様の為には」

「太閤様はそう思われています」

「ですから」

「ここはどうにかしてです」

「治部殿と刑部殿はお味方です」

 まずは二人の名が挙げられた。

「そして徳川殿、前田殿も」

「真田幸村殿もお味方です」

「この方々が関白様を助けて下さいます」

「有り難い、ではわしは太閤様とお話をしよう」

 これが秀次の考えだった。

「そのうえでお拾様にもな」

「天下を譲られますか」

「そうされますか」

「そうしよう、しかしわしには謀反の話もある様じゃしな」

 だから武具を集めていると言われているのだ、これは武士の嗜みであるがそれすらも口実になっているのだ。

「刀はいらぬ」

「では兵も」

「いりませぬか」

「全て太閤様の兵じゃ」

 こうまで言った。

「それでじゃ」

「では」

「その様にされますか」

「ここは」

「あえて」

「そうしよう、わしには他意はない」

 野心、それはだ。

「お拾様は太閤様のお子、あの方が天下人になられるのはどうりでもあるからな」

「だからこそ」

「ここはですな」

「お拾様を天下人に」

「そう申し出られますか」

「そうしようぞ」

 こう話してだ、秀次は秀吉と話をしようと決意した。大坂に赴き。

 だがその大坂ではだ、石田も大谷もだった。急な話に驚いていた。

「大坂から名護屋には」

「我等が両方共行くのか」

「行けとか」

「太閤様が言われたのか」

「はい」

 そうだとだ、二人に伝えた者が答えた。

「すぐに、そして前田殿と内府殿も」

「お二人もか」

「それぞれ」

「少し領地に帰る様にとです」

 その様にというのだ。

「そう言われています」

「しかし今我等が大坂におらぬと」

「関白様がのう」

「危ういが」

「どうなる」

「しかしです」

 伝える者は戸惑う二人に彼もまた二人の様子に戸惑いながらそのうえで述べた。

「これは太閤様のお言葉です」

「だからじゃな」

「どうしてもじゃな」

「はい、向かわれよとのことです」

 名護屋にというのだ、ここでこの者はそれぞれの者が何処に行く様に秀吉に言われたのかを伝えると。

 二人は瞬時にだ、顔を強張らせて言った。

「全て関白様のお味方ではないか」

「これはまさか」

「太閤様が」

「そう思いたくはないが」

「少しの間とのことですが」

 また二人に言うのだった。

「それでもですか」

「いや、これはな」

「何でもない」 

 この者は二人と親しく身内と言ってもいい、だからあえて言った。木村という者だ。

「気にするな」

「そうしてもらいたい」

「わかっております、ですが」

 それでもと言う木村だった。

「太閤様のことは」

「何とかしたい」

「御主にも頼む」

「出来る限りな」

「関白様を頼む」

「わかり申した」

 木村も応えた、確かな声で。

 そのうえでだ、二人にあらためて言ったのだった。

「ではそれがしも」

「頼む、それでだが」

 ここでだ、石田は木村に問うた。

「御主子が生まれたな」

「はい、先日」

「その子も大事にする様にな」

「有り難うございます」

「子はかすがいじゃ」

 石田はこの言葉も出した。

「宜しくな」

「それでは」

 こう話してだ、そしてだった。

 石田と大谷は彼等が頼む者達に対していない間を頼んだ、そのうえで名護屋に向かう。後ろ髪を引かれる思いであったが。

 それは家康も同じでだ、一時とはいえ江戸に向かう時に大坂城を見て言った。

「これではな」

「はい、残念ですが」

 服部も言う。

「それがしも十二神将達も」

「御主達も言われるとはな」

「これでは」

「うむ、関白様をな」

「お護り出来ません」

 どうしてもというのだ。

「残念ですが、しかし」

「まだ都にはな」

「真田殿がおられます、そして十勇士という」

「あの者達か」

「いますので」

 だからだというのだ。

「まだです」

「何とかなるか」

「そう祈りましょう」

「真田幸村殿か、敵であった時は恐ろしい相手だったが」

 しかしと言うのだった。

「味方になるとな」

「これ以上になく頼りになりますな」

「あの御仁がいれば」

「最後の頼みとしよう」

 こう話してだ、そしてだった。

 家康は大坂城から顔を離してだ、そしてだった。

 江戸に向かった、幸村を頼りにしつつ。



巻ノ七十一   完



                     2016・8・30


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