巻ノ七十二 太閤乱心
石田、大谷、家康、前田をはじめとしてだった。
秀次を守ろうとする者達は名護屋やそれぞれの領地に戻らさせられた。他ならぬ秀吉の言葉によって。
都に残ったのは幸村だけだった、幸村はここで十勇士達に言った。
「御主達を皆呼び戻したのはじゃ」
「はい、関白様ですな」
「関白様をお護りする」
「その為にですな」
「呼び戻されたのですな」
「そうじゃ」
まさにとだ、幸村は十勇士達に真剣な顔で答えた。
「それで皆に集まってもらった」
「では」
「我等がですか」
「今はですな」
「お護りするのですな」
「そうじゃ、治部殿も義父上もおられず」
二人共既に名護屋に発っているからだ。
「そして内府殿も前田殿もな」
「どなたもですな」
「大坂にも都にもおられない」
「それではですな」
「今都にいるのは我等だけ」
「だからですな」
「ここは我等でお護りするのじゃ」
こう言うのだった、それでだった。
幸村は秀次の周りを十勇士達と共に護っていた、だがこのことを見逃す秀吉ではなかった。確かに年齢故の衰えはあったが。
幸村が秀次の傍に常にいると聞いてだ、即座に言った。
「そういえば伊勢についてじゃ」
「と、いいますと」
「何かありますか」
「わしの代わりに参る必要じゃった」
伊勢神宮だ、言うまでもなく皇室の社である。
「それに行かせる者が決まった」
「ではそれは」
「どなたでしょうか」
「都におる源次郎じゃ」
幸村、彼だというのだ。
「あの者を伊勢に送ろう」
「真田殿を」
「そうされるのですか」
「これより」
「そうされますか」
「うむ、すぐに行かせよう」
こうしてだった、幸村に使者を送ってだった。彼は周りの者達を下がらせて一人笑った。
「これでよし、邪魔になる者はいなくなった」
こう言って笑うのだった。
「拾が次の天下人になる」
秀吉の次のというのだ。一人そうなることを夢見て笑っていた。
幸村に使者が来たのはまさにその日のうちにだった、早馬が彼の屋敷に来てこのことを伝えた。それを聞いてだ。
幸村は驚愕してだ、使者に問い返した。
「それがしが伊勢に」
「すぐに行ってもらいたいとです」
「太閤様がか」
「お命じになっています」
「では」
秀吉の命ならばだ、他の者と同じくだった。幸村も従うしかなかった。
それでだ、使者にもこう答えるしかなかった。
「これより」
「それでは」
「参ります」
こう答えてだ、そしてだった。彼は伊勢に参拝することを了承した、そこにある秀吉の意図を察したうえで。
だがここでだ、使者は幸村にさらに話した。
「十人の供の者達も」
「共に」
「そう言われています」
秀吉、彼がというのだ。
「そして伊勢参りを楽しまれて来いとです」
「左様か」
「すぐに」
「わかった」
太閤直々の命だ、それでだった。
彼はだ、こう使者に答えた。
「では伊勢に参ろう」
「それでは」
こうしてだった、秀吉の命に従って伊勢に行くことにした。だがこのことについてだ。
使者が帰った後でだった、幸村は十勇士達を呼び問うた。
「どう思うか」
「はい、おそらくです」
「太閤様は読まれています」
「殿が関白様を護っておられることを」
「それ故にです」
「伊勢に行く様に言われたのでしょう」
「そしてそのうえで」
十勇士達も言う。
「我等にもです」
「伊勢に行く様に言われたのでしょう」
「そうじゃな」
苦い顔でだ、幸村は応えた。
そしてだ、こう十勇士達に言った。
「拙者も御主達もな」
「これで関白様をお護りする者がいなくなった」
「治部殿も刑部殿も大坂におられません」
「そして都にも」
「これで」
「まずいのう」
幸村は袖の中で腕を組んで言った。
「我等がいない間にな」
「はい、そして」
「そのうえで、ですな」
「手を打ってくる」
「そうしてこられますな」
「伊賀者も江戸に行く様に言われている」
彼等についてもというのだ。
「だから護りはな」
「もうない」
「誰も関白様をお護り出来ぬ」
「そうした状況ですな」
「流石は太閤様じゃ」
幸村は感嘆と共に述べた。
「瞬く間に全ての手を打たれた」
「間違いなくです」
筧は強張った顔で述べた。
「太閤様は関白様を」
「そうじゃな、刺客か」
望月はそれではないかと見た。
「それを送られるか」
「それはあるのう」
由利も言う。
「最早関白様をお護り出来る者はおられぬ」
「太閤様をお止め出来る者は」
穴山は真剣に探していた、彼の頭の知識の中で。
「もう北政所様しかおられぬが」
「ではあの方に文をお送りすべきか」
清海はこう言った。
「ここは」
「ではすぐに殿にお書きしてもらうか」
海野は幸村を見つつこう言った。
「ここは」
「それがいいかもな」
猿飛も幸村を見ている。
「ここは」
「ことは一刻を争いまする」
伊佐も緊張した面持ちで語る。
「殿にすぐにお書き頂き」
「急がなくては」
霧隠もかなり緊張している、とはいっても必死に焦りを抑えている。
「ここは」
「では殿」
最後に根津が幸村に言った。
「お願い出来ますか」
「わかった、ではすぐに書くとしよう」
幸村も家臣達に応えた。
「北政所様にどうか関白様をお護りする様にな」
「では」
「その様に」
「お願いします」
「伊勢に発つ前に」
「何とか」
「出来ればな」
こうも言った幸村だった。
「今日のうちに書いてな」
「そしてそのうえで」
「伊勢に参りましょう」
「北政所様が動かれれば」
「何とかなります」
「すぐに書く」
こうしてだった、幸村は十勇士達の言葉を入れすぐに北政所に対して文を送った。関白のことを常に頼む様にと。
だが、だ。秀吉は。
幸村が文を書いていたその時にだ、ふと気付いて言った。
「ねねに文を送られては厄介じゃな、では」
すぐにだ、北政所のところに行って彼女ににこやかに言った。
「ねね、ちと有馬に行って来るか」
「有馬にですか」
「そこで湯を楽しんでくるか」
こう言うのだった。
「そうしてくるか」
「有馬にですか」
「湯に馳走を楽しんで来るのじゃ」
「また急な申し出で」
「ははは、女房を大事にすることもじゃ」
秀吉は己の考えを隠しつつ北政所に言う。
「たまにはせぬとな」
「では」
「うむ、行くか」
「折角なので」
「ではな」
「行って参ります」
「すぐに行くがいい」
笑顔のまま言う。
「有馬までな」
「湯に馳走を楽しみ」
「ゆっくりとしていよ」
「そうさせて頂きます」
こうしてだった、北政所は有馬に赴きそこで湯や馳走を楽しむことになった。そして幸村の文は大坂においてだ。
秀吉が受け取りだ、彼は読まずにそのまま火に放り込んでしまった。
そのうえでだ、遂に動いた。106
秀次にだ、即座に高野山に行く様に言った。その早馬を聞いて秀次の側近達は狼狽して秀次に言った。
「関白様、これはです」
「かなり危ういです」
[このままでは」
「関白様が」
「そうじゃな」
秀次も言う。
「わしに高野山に入れか」
「すぐにでもと」
「そこで謹慎されよとはです」
「まずはそうして」
「そのうえで」
「今のわしはじゃ」
秀次はさらに言った。
「内府殿もどなたもな」
「おられあませぬ」
「治部殿も刑部殿も」
「真田殿もです」
「北政所様も有馬に赴かれました」
「太閤様のお言葉で」
「それで高野山に入るとな」
どうなるかとだ、秀次は自ら言った。
「わしはまさに手も足も出ぬ」
「まさに囚われの獣です」
「檻の中に入れられた」
「そうなるな」
一旦瞑目して言った、ここでは。
「まさに」
「関白様、ここはです」
「何とかです」
「大坂に行かれ釈明しましょう」
「関白様に」
「既に徳川殿、前田殿に送る文を書いております」
護ってくれる者達にだ。
「治部殿、刑部殿にも」
「この方々に文を送られ」
「太閤様に今は猶予を願い出て」
「そのうえで、です」
「この方々と共に大坂に入られ」
「太閤様とお会いしましょう」
こう口々に言う、だが。
家臣達の必死の言葉を聞いたうえでだ、秀次はこう言ったのだった。
「いや、そうしてもな」
「そうしてもとは」
「一体」
「もう太閤様は何としてもじゃ」
叔父である秀吉の考えがだ、秀次は今や手に取る様にわかった。それだからこそ自分のことを必死に護ろうとする彼等に言うのだった。
「わしを消すおつもりじゃ」
「高野山に入れられずとも」
「何としても」
「お拾様に跡を継がせる為に」
「そうじゃ、もうわしはあの方にとって愛しい跡継ぎではない」
達観した、しかし悲しみを込めた目で笑って言った。
「憎くて仕方のない敵なのじゃ」
「お拾様が跡を継がれることを邪魔する」
「そうした」
「そうじゃ、ではな」
このことが痛いまでにわかるからこそだった、秀次は。
彼の家臣達にだ、こう言ったのだった。
「御主達は去れ、もうこれ以上わしのところにいると害が及ぶ」
「いえ、それは」
「その様には出来ませぬ」
家臣達は秀次にすぐに言った。
「お供します」
「そうしますので」
「ですからその様なことは言われないで下さい」
「どうか」
「そうか、そうしてくれるか」
秀次は彼等の言葉を聞き再び瞑目する様に目を閉じた。
そしてだ、彼等にこう告げたのだった。
「では好きな様にせよ」
「共に高野山に入りましょう」
「何処までもお供します」
「それではな」
こうしてだった、秀次はすぐにだった。高野山に入れられた。一応蟄居ということだったが大坂においてもだ。
秀吉の近くにいる者達もだ、困り果てた顔で話した。
「これはまずいぞ」
「釈明の機会すら与えられぬとは」
「高野山に入られるとな」
秀次、彼がだ。
「もう終わりじゃ」
「後はどうとでもなる」
「高野山にはそうそう手出しは出来ぬ」
一旦そこに入った者はだ。
「最早な」
「内府殿でも入ることは出来ぬ」
「誰も関白様をお救い出来ぬ」
「忍の者もあそこには入られぬ」
「場所が場所じゃ」
空海が開いたこの山は恐ろしく深い場所にある、山窩と言われる者すら周りの山から入ることは出来ない。紀伊の中でも特に深い。
だからだ、忍の者達もというのだ。
「とてもな」
「入られぬ」
「どうしようもない」
「そうした場所じゃ」
「だから高野山に入られると」
「終わりじゃ」
秀次、彼はというのだ。
「まだ高野山に向かわれる途中じゃ」
「何とか出来ぬか」
「我等は大坂から出るなと言われておるし」
「どうにもならぬ」
彼等も秀次を助けたいがだ。
「どうしたらいいのじゃ」
「このままではまことに関白様は殺されてしまうぞ」
「叔父であられる太閤様に」
大坂の者達も何とかしたい、だが。
誰もどうにも出来ずにだ、急いでだった。
秀次は高野山に入れられた。多くの者がこのことを知ったのは彼が高野山に入ってからだった。それでだった。
家康もだ、江戸でその報を聞き驚愕して言った。
「終わったわ・・・・・・」
「関白様が」
「もうどうにもならぬ」
こう言ったのだった。
「誰もな」
「高野山にはです」
傍にいた天海も言う。
「それこそ太閤様でないと」
「自由にはな」
「入られませぬ」
「忍もな」
「あそこは忍び込むなぞ」
服部も言ってきた。
「流石に」
「無理か」
「拙者と十二神将以外は」
「その御主達をじゃ」
家康はここでも苦々しい顔で述べた。
「太閤様は動くなと言われた」
「はい、東国から」
「伊達家を見よな」
「確かにです」
服部は家康に対して応えて言った。
「伊達殿は油断ならぬ方」
「東国平定の折太閤様に降られた」
あえて死装束で出て来てだ、その傾奇っぷりに秀吉も惚れ込みそのうえで彼を笑って許している。切腹及び伊達家を取り潰されても不思議ではなかったが。
「しかしな」
「その御野心は」
「消えておらぬ」
「左様ですな」
「その抑えが蒲生殿じゃが」
もっと言えば蒲生は家康の抑えでもある、会津で二人の間に楔を打ち込んでいるんだ。
「しかしな」
「それでもですな」
「うむ、その蒲生殿が近頃な」
「お身体が優れませぬ故」
「御主達にその動きを見に行けとじゃ」
「言われ」
「間もなく行かねばならぬ」
伊達家の領地である仙台にだ、無論隠密として隠れてだ。
「だからな」
「はい、致し方ありませぬ」
「外から高野山に入られるのは」
家康は考えた、服部及び十二神将の他にそれが為せる者は。
「あの者達だけか」
「真田殿と」
「十勇士じゃ」
「あの御仁とですな」
「おらぬな、しかし真田殿はな」
「はい、伊勢に行かれ」
これも秀吉の命であることはわかっている。
「今は」
「そうじゃ、どうしたものか」
「殿、ここはです」
柳生がだった、家康に行ってきた。
「真田殿にお願いしてみますか」
「伊勢におる、か」
「関白様のお命だけでもというのなら」
「お救いしてじゃな」
「せめて何処かで人知れず」
生きてもらいたいというのだ、秀次に。
「そうされては」
「そうじゃな、では源次郎殿達に変装出来る者達をじゃな」
「伊勢にすぐに送り」
「そしてじゃな」
「はい、身代わりとなっている間にです」
まさにその間にというのだ。
「そして真田殿と十勇士にです」
「高野山に行ってもらい」
「関白様を救って頂きましょう」
「それしかないか」
家康は袖の中で腕を組み考え込んだ、そのうえでだった。
考えつつ目を閉じていたがその目を開いてだ、家臣達に答えた。
「よし、決めた」
「では」
「すぐに」
「半蔵」
即座に服部に声をかけた、彼に顔を向けて。
「伊賀者の中から十一人じゃ」
「真田殿と十勇士」
「変装の得意な者をすぐに伊勢に送れ」
「そしてですな」
「暫く入れ替わり源次郎殿達になってもらいな」
「真田殿に」
「関白様を救ってもらう」
こう言うのだった。
「よいな」
「はい、それでは」
「関白様のお立場は守れなかったが」
それでもとだ、家康は言った。
「何とかな、お命だけは」
「お救いしますか」
「最早これしかない」
秀次を救うにはというのだ。
「ではな」
「その様に」
「では殿」
「関白様のお命をお救いし」
「そのうえで」
「後は静かに」
「そうじゃ」
家康は四天王達にも答えた。
「そうして頂く」
「さすれば」
「その様に」
「これしかないとはな」
家康はまたしても苦々しい顔になり言った。
「残念なことじゃ」
「全くです」
「しかしそれでもです」
「これしかないのなら」
「それならば」
「こうするだけじゃ」
こうしてだった、家康はすぐに伊賀者から変装の得意な者達を十一人服部に選ばせ江戸から伊勢に向かわせた、それも風の如く。
伊賀者達はすぐに伊勢に着いた、幸村はこの時用意されていた宿でじくじくたる思いで留まっていたがその彼にだ。
伊賀者達は陰からだ、こう彼に言った。
「真田殿、宜しいでしょうか」
「気付いておった」
実は彼等が宿の傍に来た時からだ、幸村は気付いていた。
「伊賀の方々か」
「はい、実は」
「拙者達にすぐに高野山に行けと」
「殿からのお願いです」
「では」
「その間は我等が身代わりになります」
変装して、というのだ。
「ですから」
「わかった、それでは」
「今すぐにですな」
「すぐに高野山に参る」
幸村は座したまま声に約束した。
「そうさせてもらう」
「有り難うございます」
「ではな」
「はい」
このやり取りの後でだった、すぐに。
幸村は消えた、そして近くにいた十勇士達もだった。即座に姿を消した。幸村達はいたがそれでもだった。
彼等は高野山に向かった、彼等だけが知っている道を駆け。そうしつつ幸村は十勇士達に対して言った。
「よいな」
「はい、これより」
「関白様をお助けする」
「何とかお命だけだ」
「そうするのですな」
「そうだ、お命だけは」
そうするというのだ、そしてだった。
彼等はひたすら歩いていく、それも駆ける勢いで。
山道であるが彼等は苦にならなかった、一路進んでいく。
飯はそうしつつ食い寝るのもだ。
僅かな間でとにかく駆けた、十勇士達は幸村にその中で問うた。
「殿、高野山ですが」
「そこに進めば」
「そのうえで」
「関白様の下へ」
「参るのですな」
「おおよその場所はわかっている」
秀次がいる場所はというのだ。
「高野山に入ればな」
「すぐに関白のところに行き」
「そしてそのうえで」
「お救いし」
「それからは」
「後はだ」
ここでだ、こう言った幸村だった。
「関白様はお匿いする」
「何処に」
「何処に」
「江戸にじゃ」
そこにというのだ。
「お連れしてな」
「そしてですか」
「そのうえで」
「後は徳川殿がどうにかして下さる」
家康、彼がというのだ。
「高野山を出てこの道を戻り」
「そしてですな」
「伊勢に戻り」
「そのうえで関白様を徳川殿の方々がですな」
「江戸に」
「うむ、お連れしてな」
そしてというのだ、そのうえで。
「江戸にお連れする、では」
「そのうえで」
「我等は」
「元に戻ってな」
入れ替わった者達と、というのだ。
「後は都に戻るぞ」
「わかりました」
「それでは」
「その様にしましょう」
「今は」
「ではな」
こう話してだ、そのうえで。
幸村はだ、こう言ってだった。
幸村は十勇士達と共に進んだ、ただひたすら。そして彼自身も信じられない速さで高野山まで進んでだった。
高野山の裏手まで来た、ここでだった。
雪無rは十勇士達に静かな声で言った。
「ではな」
「はい、これより」
「高野山に忍び込み」
「そのうえで」
「関白様をお助けする」
幸村は家康の想いを受けてだ、そのうえで。
十勇士達と共に高野山に入った、そこから高野山の中の誰にも気付かれず秀次がいる場所まで進んだ。そして。
秀次の部屋まで行ってだ、幸村は彼の前に参上して言った。
「関白様、お迎えに参りました」
「源次郎か」
「はい、実は内府殿に言われまして」
「わしをか」
「お救いしてもらいたいと」
「それで来たのか」
「左様です、後はです」
先のことも言おうとした、だが。
その幸村にだ、秀次は確かな声でこう言った。
「わしが消えたらどうなる」
「それは」
「太閤様はすぐに異変に気付くぞ」
「では」
「代わりを立ててもな」
それでもというのだ。
「すぐにわかる」
「太閤様には」
「わしの代わりに誰が腹を切ってもな」
秀吉には見抜かれるというのだ。
「もうすぐここには大夫達が来る」
「福島殿が」
福島正則だ、まさに家康子飼いの者だ。そうした意味では加藤清正と同じで石田や大谷ともそうであると言える。
「それでは」
「わしが当人であるかはな」
「即座に」
「わかる、それにじゃ」
秀次は幸村にさらに話した。
「わしは身代わりを立てることはせぬ」
「では」
「腹を切る時はわし自身がじゃ」
「そうされますか」
「そうする、それにわしが一人生きてもじゃ」
幸村に達観している声のまま話す。
「妻妾や子達はどうなる」
「いえ、その方々は」
まさかとだ、幸村は秀次に返した。
「その様なことは」
「太閤様はわしの全てを消したいのじゃ」
「だからですか」
「わしの妻や子達もな」
全てというのだ。
「首を斬られるわ」
「これより」
「そうなってわしだけが生きてどうする」
「では」
「わしは先に死んであの者達を待つ」
こう幸村に言うのだった。
「そうする」
「左様ですか」
「だからな」
「ここで」
「わしは腹を切る」
澄み切った、迷いのない声での言葉だった。
「そうする」
「わかり申した」
「ただ、わしも豊臣家の者」
秀次はこうも言った。
「だから豊臣家の安泰、それが駄目なら存続をな」
「望まれますか」
「そうじゃ、よかったらお拾様をじゃ」
「あの方を」
「頼めるか、若し豊臣家が天下人になれなくなったら」
その時はというのだ。
「お拾様のお命だけはな」
「お護りせよと」
「そうしてくれるか、これでわしが去り」
それからのこともだ、秀次は言うのだった。
「太閤様がお拾様元服される前に世を去られれば」
「その時は」
「どうなるかわかるな」
「天下はとても」
「天下を治める者がいなくなる」
そうした状況になってしまうというのだ。
「どうしてもな」
「確かに。そうなれば」
「天下はまだ定まってはおらぬ」
この現実もだ、秀次はわかっているのだ。それで言うのだ。
「だからな」
「お拾様だけになりますと」
「豊臣家の天下ではな」
「なりなりますな」
「とても保てぬ、しかし天下は泰平でなければならぬ」
秀次は幸村に言った。
「だからな」
「次の天下人が、ですか」
「必要になるが」
「それは」
「若しお拾様を支える者がいれば別じゃが」
「そうでなければ」
「天下を望む御仁が天下人になってもじゃ」
例えそうなってもというのだ。
「仕方ない、まずは泰平じゃ」
「それがあるべきですな」
「だからな、その御仁に譲ってもよいが」
天下、それをだ。
「お拾様をな」
「お命だけでも」
「お護りして欲しいがよいか」
「ですが関白様はその」
拾の為にというのだ、幸村は秀次にこのことを話した。動かしようのない事実を。
「お拾様の為に」
「それでもじゃ、豊臣家が残る為にはな」
「どうしてもですか」
「お拾様を頼めるか」
「それがし、関白様に認めて頂きました」
武士としての彼をだ、幸村は秀次にこのことを述べた。
「士は人を知る者の為に、義を貫くもと聞いています」
「だからか」
「はい、そのお言葉必ずや」
「ではな」
「この幸村何としても果たしまする」
「頼んだぞ」
「さすれば」
幸村も応えた、そしてだった。
秀次にだ、今生の別れを述べた。
「おさらばです」
「うむ、この生ではな」
秀次も微笑んで応えた。
「最後になる」
「はい、では」
「さらばじゃ」
秀次は優しい微笑みで幸村に別れを告げた、これでだった。
幸村は秀次の前から風の様に消えた、そして十勇士達の前に戻りそのうえで彼等に秀次と話したことを全て話した。
そのうえでだ、項垂れる彼等に言った。
「戻ろうぞ」
「関白様がそこまで言われるのなら」
「致し方ありませぬな」
「それでは」
「この度は」
「それしかない」
戻るしか、というのだ。
「わかったな」
「はい、では」
「これよりです」
「伊勢に戻りましょう」
「そしてですな」
「伊賀の方々にも話す」
秀次と話したことをというのだ。
「そのうえでな」
「去りましょう」
「そうしましょうぞ」
「ではな」
こう話してだ、そしてだった。
幸村は十勇士達を連れ高野山を後にした。そして高野山を出たその時にだ。
十勇士達と共に高野山に深々と頭を下げてだ、伊勢に向かった。
そのうえで身代わりになっている者達に事情を話すとだ、彼等も項垂れた。
「そう、ですか」
「では」
「そのことを殿にお話します」
「残念ですが」
「お頼み申す」
幸村は彼等に申し訳なさそうに言った。
「内府殿に」
「ではすぐに江戸に戻ります」
「そのうえで」
「それでは」
幸村は彼等にも別れを告げた、入れ替わりから元に戻ったのは一瞬だった。伊賀者達はすぐに江戸へと戻った。
幸村はあらためてだ、十勇士達に言った。
「ではな」
「これよりですな」
「残った務めを果たし」
「そうして」
「帰るとしよう」
是非にと言うしかなかった。
「そのうえでな」
「まことに残念ですが」
「それしかないですから」
「では」
「そうしましょうぞ」
「それではな」
こう言うしかなくだ、幸村も。
務めを果たすだけだった、彼はそこに深い無念を感じていたがそれを必死に押し殺してそのうえでそうしていた。
そしてだった、彼が高野山を去った暫く後でだ。その高野山にだ。
福島達が来てだ、秀次に申し訳なさそうに告げた。
「明朝です」
「わかった」
秀次は一言で返した。
「ではな」
「はい、では」
「見てくれるのじゃな」
「申し訳ありませぬ」
福島は一同を代表してだった。
秀次に深々と頭を下げてだ、こう彼に言った。
「それがしも、関白様を」
「よい」
また一言で言った秀次だった。
「気にするな」
「そう言って頂けます」
「では明日の朝じゃな」
「立派だったとです」
福島は顔を上げた、見ればその顔は涙で濡れていた。そしてその顔で秀次に対してこう言ったのだった。
「世にはお伝えします」
「ははは、御主が見たままでよい」
「そうですか」
「ありのまま伝えよ、わしの最期はな」
「では」
「恥ずかしくない様にする」
秀次にしてもというのだ。
「出来るだけな」
「その様にされますか」
「最期もな」
その腹を切る時もというのだ。
「そうする、では今宵はな」
「これより」
「宴じゃ、御主も付き合え」
秀吉に自分に切腹をする様に言ってきてその腹を切るのを見届けに来た福島にだ、秀次は笑ったまま言った。
「ではな」
「はい、それでは」
「般若湯がある」
所謂酒だ。
「寺の者達も用意してくれておってな」
「それを飲み」
「精進ものもある」
肴もというのだ。
「それを食いながらな」
「宴ですな」
「それを楽しもうぞ」
「殿、それでなのですが」
これまで控えていた秀次の家臣達も応えた。
「我等もです」
「お供します」
「そうさせて頂きます」
「是非共」
「御主達は死ぬことはないが」
秀次はこうだ、彼の家臣達に悲しい笑顔で言った。
「よいのか」
「はい、我等はです」
「殿の家臣です」
「そのつもりでここまで来ました」
「ですから」
「ここはです」
「お供させて頂きます」
「そうか、わかった」
秀次は彼等の心を知った、それでだった。
彼等の心を汲み取りだ、こう返した。
「ではな、御主達も宴に出よ」
「では」
「今宵は」
「ははは、心ゆくまで飲もうぞ」
ここでもあえて笑ってだ、秀次は言ってみせた。
「そして明日な」
「見事に」
「旅立ちましょう」
「では」
福島は主従も見てまたしても涙を流した、感極まっていたがそれでもだった。役目を果たすことにしたのだった。
秀次主従と共に寺に来た者達と共に飲んだ、だがこの夜ばかりは無類の酒好きの彼も酒は殆ど飲まなかった、いや飲めなかった。
そしてだ、その次の朝だった。
家臣達が腹を切っていき秀次が彼等の願いを受けて自ら解釈をしてだった。最期に秀次が見事に果てたのを見届け。
福島は無念の顔でだ、泣きながら言った。
「見事であられました」
「まことに」
「これ以上はないまでに」
共に見た者達も言う。
「関白様に相応しい」
「そこまでのものですな」
「それだけに申し訳ありませぬ」
秀次にだ、福島は再び頭を下げた。
「お命を救えず」
「我等もです」
「申し訳ありませぬ」
他の者達も言う。
「まことに」
「何と言えばいいのか」
彼等も言葉がなかった、そしてだった。
福島は大坂に戻り秀吉に全てを話した、だが。
そこで秀吉に告げられた言葉でだ、彼は唖然として言った。
「な、何と」
「何かあるか」
秀吉は血走った目で福島に問い返した。
「わしの考えに」
「ですがそれは」
「決めたことじゃ」
有無を言わさぬ言葉だった。
「すぐにじゃ」
「そうせよと」
「そうじゃ、わかったな」
「です、か」
福島は呆然としつつ言うしか出来なかった、そしてだった。
惨事はまだ続いた、それは誰もが眉を顰めるものだった。
幸村は都に戻ってその話を聞いてだ、苦い顔で言った。
「やはりな」
「このことは、ですか」
「考えられた」
「左様ですか」
「いや、関白様からじゃ」
彼自身からとだ、十勇士達に答えた。
「お話されていた」
「そうでしたか」
「では」
「殿もですか」
「このことは」
「いや、関白様から言われてもな」
秀次、彼からだ。
「まさかそこまでとは思っておった」
「殿も」
「そこまでは、ですか」
「太閤様は本来は無駄な殺生をされぬ方」
それ故に人々に慕われ天下人になれたのだ、人を無駄に殺すことはない彼の人徳を見てそれを慕ったのである。
しかしだ、それでもだった。今の秀吉は。
「だが乱れておられる」
「ですから」
「その様なご無体まで、ですか」
「されますか」
「しかも頭とお動きの冴えはそのままじゃ」
秀吉のそうしたことはというのだ。
「だからおそらく我等が伊勢から戻る頃には」
「既にですか」
「ことは済んでいる」
「そうなっていますか」
「誰も止められぬ」
止めようとしてもそれより速く動くというのだ。
「どうにもならぬ、だからな」
「このことについても」
「どうにもならない」
「そうなのですな」
「悪い方に悪い方に流れておる」
そしてだった、幸村はここでわかった。そのわかったことはというと。
「夜の星達の動きにそれが出ておった」
「そういえば」
「以前言っておられましたな」
「それも幾度か」
「星の動きが不吉だと」
「まさに」
「関白様のことであった」
無念の顔での言葉だった。
「こうなることを星達は既に見せていたのじゃ」
「そしてその星達が知らせた通り」
「関白様は腹を切らされ」
「そのうえで」
「そういうことじゃ、しかし天下はどうもな」
こうも言った幸村だった。
「大きく乱れることはない様じゃ」
「これからは」
「関白様がおられなくなっても」
「ではお拾様の下」
「天下は治まるのでしょうか」
「そこまではわからぬ、しかし一度乱れてもな」
それでもというのだ。
「すぐに収まる様じゃ」
「左様ですか」
「では、ですな」
「天下は泰平のまま」
「そのことは確かですか」
「少なくとも大きく乱れることはない」
星達はそうは知らせていないというのだ。
「幸いな、しかしまことにな」
「関白様のことは」
「無念でしたな」
「全くじゃ」
こう言うのだった、彼が腹を切ることについては幸村もまたこう思うことしきりだった。
巻ノ七十二 完
2016・9・6