巻ノ七十三 離れる人心
幸村の予想通りだった、彼が都から戻った時には。
ことは全て終わっていた、四条河原において。
「そうであるか」
「はい、三十に及ぶ妻妾の方々も全て」
「三人のお子の方々もです」
「全てです」
「無残にも」
「最上家の姫君もおられましたが」
「あの姫君は嫁がれて間もない」
幸村はその話を聞いてすぐに言った。
「それでもか」
「はい、あの方もです」
「そうなりました」
「しかも」
「酷いな」
非常にとだ、幸村はこうも言った。
「あえて関白様の御前でか」
「わざわざです」
「もう腹を切られたというのに」
「その御首を晒され」
「その御前で」
「その様なことをしてはな」
幸村はこうも言った。
「人心が離れる」
「そうなりますか」
「必然的に」
「酷いと思い」
「誰もが」
「そうじゃ、しかもじゃ」
幸村はさらに言った。
「この度のことは明らかじゃ」
「何故そこまでされるか」
「そのことは」
「既にですな」
「そこまでされた訳は」
「お拾様に跡と継がせたいが為」
まさにそれが理由であるとだ、誰もがわかっているというのだ。
「それは明らか、だからな」
「その為に実の甥の腹を切らせた」
「しかもそのご家族まで」
「そうされるということは」
「まさに」
「あってはならぬこと」
完全にというのだ。
「それをしてしまった」
「では」
「このことは」
「徳のなきこと」
間違いなく、というのだ。
「だからな」
「このことは大きいですな」
「それもかなり」
「では」
「尾を引きますか」
「うむ」
また言ったのだった。
「必ずな」
「確かに、あまりにもです」
「酷い仕打ちです」
「実の甥の方にあそこまでとは」
「あまりと言えばあまり」
「しかもじゃ」
幸村はこのことも言った。
「豊臣家はもう太閤様の他はお拾様だけとなった」
「ですな、大納言様はおられず」
「大納言様にお子はおられません」
「他の親族の方もおられず」
「どなたも」
「跡継ぎは必要でじゃ」
しかもというのだ。
「親族もな」
「必要ですな」
「我等真田家もそうですし」
「お家騒動も起こりますが」
「それ以上に跡を継げる方がおられ」
「後見人や重臣にもなりますし」
「ご一門は必要ですな」
十勇士達もこう言う、このことについては。
「お家のことを考えますと」
「どうしても」
「そうじゃ、しかし豊臣家はな」
この家は最早というのだ。
「太閤様とお拾様しかおられぬ」
「これでは」
「かなり危ういですな」
「このことは否定出来ませぬな」
「若しお拾様に何かあれば」
「ご幼少のあの方に」
「これでは頼りない」
あまりにもというのだ。
「豊臣家の天下はな」
「では」
「若し太閤様に何かあれば」
「その時は」
「豊臣家は」
「それでじゃ」
拾一人になってしまうと、というのだ。
「豊臣家では天下は危ういとなりな」
「天下人は、ですか」
「別の方になられるかも知れぬ」
「そうなるやもですか」
「その場合はな」
幸村は先の先まで見ていた、それを広く出来る彼の識見がそうさせている。そのうえで
の言葉だった。
「おそらくじゃが」
「まさか」
「その場合の天下人は」
「若しや」
「やはりあの方じゃ」
袖の中で腕を組み言った。
「内府殿じゃ」
「そうなりますか」
「あの方は二百五十万石、天下一の大身です」
「しかも多くの民に慕われていて」
「政も戦もお見事です」
「徳も備えておられます」
「だからじゃ」
家康ならばというのだ。
「天下人はな」
「あの方ですか」
「あの方となりますか」
「太閤様に何かあれば」
「お拾様が幼いまでに」
「正直太閤様はじゃ」
秀吉、彼はという。
「最早な」
「お歳ですか」
「天下統一から言われていますが」
「やはりですな」
「もう還暦間近で」
「それでは」
「しかもお身体も弱ってきておられるという」
言うまでもなく歳によってだ、秀吉のこの老いは明らかでこのことも懸念されていることであるのだ。それも数年来。
「ではな」
「長くはないですか」
「いよいよ」
「そう思っていいですな」
「しかも天下は足場がな」
その基盤がというのだ。
「まだ固まっておらぬ」
「その力を唐入りに使っていて」
「それで、ですな」
「検知と刀狩りはしましたが」
「それでも」
「天下を治める確かな仕組みがじゃ」
それがというのだ。
「これまでの幕府の様に整ってはおらぬ」
「鎌倉や室町にあった」
「あの様な、ですか」
「幕府の様な仕組みが整っていない」
「それが為に」
「これではお拾様が幼いままだと」
それこそというのだ。
「天下は治められぬ」
「ですか、どうしても」
「では太閤様の後は」
「内府殿ですか」
「そうなりますか」
「そうなるやもな」
こう言うのだった。
「やはりな」
「ですか、では」
「天下は一つになりましたが」
「その天下が完全に確かになるには」
「泰平が確かになるには」
「唐入りの力をそちらに使えばよかったが」
つまり腰を落ち着けて政に向かえばというのだ。
「よかったが」
「それが、ですな」
「戦をした為に」
「そちらに力を多く使ってしまい」
「政には」
「そして関白様もな」
秀次、彼もというのだ。
「だからな」
「太閤様がおられればいいですが」
「太閤様がおられなくなると」
「最早」
「次の天下人で」
「豊臣家からは」
「せめてじゃ」
幸村は袖の中で腕を組み瞑目する様にして言った。
「織田家位にな」
「一門の方がおられ」
「跡継ぎの方もおられれば」
「この様な状況にはですか」
「なりませんでしたか」
「太閤様とお拾様だけでは」
とてもというのだ。
「心もとない」
「そういえば徳川家はです」
筧が言った、ここで。
「内府殿は子沢山で」
「そうじゃな、ご子息が多くおられる」
望月も筧のその言葉に頷く。
「何故か姫君は少ないが」
「ご子息は多く父親違いとはいえ弟君達もおられる」
海野はこのことも指摘した。
「一門衆もおられる」
「特にご子息が多い」
このこをだ、根津も言った。
「これは強いか」
「家中は一門衆もまとまっている」
由利は考える顔で言った。
「これも大きいのう」
「ご嫡男は竹千代殿か」
穴山はこの者の名前を出した。
「三男であられるな」
「ご嫡男はご長子であられたが」
清海は既にこの世を去った信康のことを言った、信長に言われて家康が仕方なく腹を切らせた我が子である。
「おられぬからな」
「ご次男は結城家を継がれています」
伊佐は家康の次男のことを話に出した。
「太閤様の養子でもあられましたが」
「ではご三男の竹千代殿か」
猿飛も言う。
「そうなるか」
「とかく子沢山でもあられる」
最後に霧隠が言った。
「このことも確かに大きいか」
「うむ、やはりな」
幸村も口々に話した十勇士達に穏やかに答えた。
「このことが大きい」
「やはりそうですか」
「徳川家はご子息も多い」
「ひいてはそれが一門衆であられる」
「だからですな」
「このことにおいても」
「内府殿は」
十勇士達はあらためて幸村に問うた。
「磐石なものがありますか」
「そちらにつきましても」
「そう思えてきた、内府殿が天下人となられれば」
その時はというと。
「天下を万全にじゃ」
「治められる」
「後も続く」
「そして天下は長く泰平になりますか」
「そうなるであろう、しかし拙者はな」
幸村はまた瞑目する様にして言った。
「徳川家の天下になろうとも」
「それでもですな」
「関白様に言われていますな」
「お拾様を頼むと」
「その様に」
「しかも義父上もおられる」
大谷、彼もというのだ。
「あちらにな、だからな」
「余計にですな」
「殿としましては」
「豊臣家にですか」
「そう思われていますか」
「家が第一であるが」
真田家、この家がだ。真田家はこれまで家を守る為に手段を尽くしてきたが彼もまた同じであった。それでだ。
幸村もこう言った、だがそれでもこうも言った。
「義はな」
「武士として」
「忘れてはならぬこと」
「それで、ですな」
「殿としては」
「出来ることなら義に従いたい」
幸村の偽らざる本音だった。
「何とかしてな」
「左様ですな、では」
「我等はです」
「殿に何処までも」
「その殿が進まれる道にです」
「従いまする」
十勇士達は皆幸村に微笑んで述べた。
「殿と共に」
「地獄の果てもまでも」
「お供致します」
「済まぬな、拙者は冨貴や権勢には関心がない」
それも一切だ、幸村にはそちらへの望みはない。それで彼等にもこう言った。
「御主達もそうしたことにはな」
「ははは、それは我等も同じ」
「そうしたものにはです」
「一切興味がありませぬ」
「そうしたものは所詮使えば消えたり落ちるもの」
「儚いものです」
冨貴や権勢といったものはというのだ。
「所詮は」
「ですからそうしたものはです」
「最初から求めておりませぬ」
「求めるものは殿と同じです」
「有り難い、ではこれからな」
あらためて言う幸村だった。
「共に稽古をしようぞ」
「稽古ですか」
「それをですか」
「これよりですか」
「しますか」
「今日も共に汗を長そう」
こう言うのだった。
「是非な」
「義兄弟として」
「そのうえで」
「そうじゃ、今日もな」
自ら立ってだった、幸村は十勇士達を稽古に誘った。屋敷に揃っている時に毎日行っているそれにである。
「そうしようぞ」
「はい、では」
「今日もそうしましょう」
「剣術に忍術にと」
「何かと」
「ではな」
幸村は主従で鍛錬を行った、彼は如何なる時でもそれを怠ってはいなかった。そうして心身を共に鍛えていた。
彼は秀次が世を去ってからも表向きは平静だった、しかし。
天下の話を聞いてだ、都に来ていた彼の義父である大谷にこう言った。
「どうも都でも」
「関白様のことでか」
「はい、太閤様をです」
「そうであろうな」
大谷は幸村の言葉を聞いて頭巾から見えている目を閉じて言った、既に左目は眼帯で覆われ右目だけとなっている。
「どうしてもな」
「あの件は」
「民達がそう思ってもじゃ」
「致し方ないことですか」
「言葉には出さずともじゃ」
「心では」
「違う」
そうなっているというのだ。
「人心は間違いなくな」
「そうなっていますな」
「この状況はまずい」
大谷は言った。
「非常にな」
「やはりそうですな」
「何とかもう一度民の心を取り戻したいが」
「ではどうされますか」
「政の失態は政でしか取り返せぬ」
「それでは」
「民の為になる政をしてな」
そうしてというのだ。
「人心を取り戻すとしよう」
「それでは」
「うむ、そしてな」
「そしてとは」
「内府殿じゃが」
家康のこともだ、大谷は幸村に言った。
「どう思われるか」
「あの方ですか」
「そうじゃ、御主の家は以前あの御仁と戦をしたが」
「はい、武田家にお仕えしていた時も」
「何かと争ってはきたな」
「立場を変えて」
真田家から見てだ、武田家に仕えていた時も武田家が滅んでからもだ、徳川家とは確かに何度も干戈を交えている。
「そうしてきました」
「しかしどうした御仁だと思うか」
家康、彼自身はだ。
「御主は」
「天下でも太閤様を除けば」
「まさにじゃな」
「第一の方かと」
家康、彼はというのだ。
「その石高、官位だけでなく」
「ご資質もな」
「無類の戦上手にして政も見事」
「ご領地をよく治めてもおられるな」
「はい」
このことにも頷く幸村だった。
「非常に」
「そうしたものを見るとな」
「まさか」
「天下泰平の為にはな」
「徳川殿がですか」
「そうも考える」
再び瞑目してだ、大谷は幸村に話した。
「わしはな」
「左様ですか」
「徳川殿は律儀な方」
この律儀さでも有名だ。
「お拾様も無下にはしない、ただ」
「ただ、とは」
「茶々様はそこを認められぬが」
次の天下人は我が子であるとあくまで言うというのだ、大谷は茶々がそう言うことを既に読んでいるのだ。
「しかしじゃ」
「茶々様は」
「わし等が何とかお止めすれば」
「それで、ですか」
「何とかなるからな」
「では」
「お拾様で天下がまとまらぬのなら」
そうとしか思えない場合はというのだ。
「わしもな」
「内府殿がですか」
「天下人になられることもじゃ」
「あるとですか」
「思いだしておる」
「あの方ならば」
「その際多少強引なことになろうとも」
家康の動き、それがだ。
「血生臭くない限りはな」
「よいですか」
「内府殿は血は好まぬ方でもある」
残忍無道、家康と最も縁遠い言葉の一つだ。
「ならばな」
「よいですか」
「そうも思っておる、とかくな」
「これからの天下は」
「豊臣家で足りぬのなら」
それならばというのだ。
「あの方でもな」
「よいですか」
「天下が泰平でなければ」
「苦しむのは民です」
「そうじゃ」
まさにとだ、大谷は幸村の言葉に頷いた。
「それはな」
「だからですな」
「わしはそれでもよいと思っておる、しかしな」
「治部殿jは」
「あ奴は無類の頑固者じゃ」
石田についても言うのだった。
「だからな」
「そうしたお考えはですな」
「出来ぬ」
石田、彼はというのだ。
「あ奴は真っ直ぐ過ぎる」
「潔癖ですな」
「清廉潔白じゃ」
まさにというのだ。
「それはよいことじゃが」
「それが過ぎるのですな」
「清濁どころかその濁は一点たりともじゃ」
「認められぬからこそ」
「だからな」
「豊臣家にですか」
「何があろうともじゃ」
それこそ天地がひっくり返ってもというのだ。
「あ奴は豊臣家に忠義を尽くしてな」
「それが変わることはありませんか」
「幼き頃に寺の小僧から太閤様に見出されてな」
秀吉が寺に入った時に三杯の茶をそれぞれ量と濃さ、熱さを変えて出して振る舞いその知恵を買われて召抱えられてだ、秀吉に深く恩を感じているのだ。
だからだ、石田はというのだ。
「わしよりも遥かにな」
「豊臣家に忠義を感じておられ」
「まさにじゃ」
「忠義一徹で」
「他の家の天下も認められぬ」
「そうした方ですな」
幸村も頷く。
「だからこそ」
「あ奴も泰平は好きじゃが」
「それでもですか」
「うむ、とにかく己を曲げぬ」
それも一切というのだ。
「そうした者じゃ」
「では」
「うむ、あ奴をどうしたものか」
「そこが義父上の悩むところですか」
「そうなのじゃ」
大谷は幸村に難しい顔で述べた。
「言って聞かぬ奴じゃしな」
「ご自身が正しいと思えば」
「前にしか進まぬからのう」
大谷は難しい顔でだ、幸村に述べた。
「厄介じゃ」
「この世でそこまで己を曲げることなく清廉潔白というのは」
「そうした奴は滅多におらぬ」
「左様ですな」
「誰でも曲げる」
自分自身をというのだ。
「我が身が可愛いかったりしてな、しかしな」
「治部殿は」
「己の身も捨てる」
「曲げられぬ」
「そうした者だからな」
「どうしてもですな」
「それがあ奴のいいところじゃが」
石田のその美点をだ、大谷は認めていて素晴らしいとも思っていた。このことは紛れもない事実である。
だが、だ。石田のその美点がというのだ。
「それが時として困ったことにもなっておる」
「近頃治部殿は」
「知っておるな、御主も」
「平壊者と」
「そう言われておる、空気を読まず何でも自分が言いたいことを言い場を壊す」
それが石田だというのだ。
「それが為に近頃な」
「加藤殿、福島殿と」
「加藤孫六、そしてな」
「池田殿、黒田殿、細川殿、蜂須賀殿と」
「七将がな」
合わせてだ、唐入りに向かっている者達が多い。
「あ奴を憎みだしておる」
「それが、ですな」
「厄介じゃ、共に天下を支えていくべきじゃが」
「それが、ですな」
「いがみ合っておる、少しは曲げぬと」
石田自身をというのだ。
「厄介なことになる、いつも言っておるが」
「それが」
「どうもな」
こう言うのだった。
「まことにな」
「どうしたものかと」
「考えておる、大納言様ならあ奴を止めれたが」
石田のそのあまりにも己を曲げぬ平壊者ぶりをというのだ。
「その大納言様もおられぬ」
「ですな」
「大納言様がおられれば他のこともな」
唐入りや利休のこと、秀次のこともだ。そうしたこともというのだ。
「止めてくれたが。それを言ってもな」
「仕方がないと」
「そうなる、何とかしたいが」
しかしというのだ。
「難しいことじゃ」
「そうなりますか」
「どうしたものか、わしは泰平のことを考えておるがな」
「ですか」
「御主はわしのことは気にするな」
大谷は幸村には微笑んでこう言った。
「お父上、源三郎殿の言う通りにな」
「真田家の者として」
「動き生きよ、よいな」
「では」
「その様にな、わしはな」
大谷はというと、彼はまた言った。
「泰平を考えておるがそれでも今はな」
「太閤様のことを」
「今度太閤様がわしの領地に来られる」
「では」
「思い切ったもてなしをさせてもらう」
笑みを浮かべてだ、大谷は幸村に話した。
「実はこれから領地に戻りな」
「その用意を」
「するつもりじゃ、百万石でも出来ぬ様な」
「おもてなしをですか」
「してみせる、これでも銭は貯めておいた」
「その銭を使い」
「そしてな」
それだけのもてなしをするというのだ。
「絶対にな」
「太閤様にですな」
「喜んで頂く」
強い、確かな声での言葉だった。
「わしもな」
「百万石のもてなしですか」
「そうじゃ」
「それはまた」
「ははは、わしは高々十万石じゃがな」
それが大谷だ、唐入りの動きを見て秀吉は百万の兵を与え存分に動かせさせたいとも言ったが石高はそうしたものなのだ。
「しかしな」
「それでもですか」
「やってみせる」
「百万石の宴を」
「是非な」
「それはまた」
「大きいな」
自分でもわかっていての言葉だった。
「そうであるな」
「お言葉ですが」
「それをしてみせる」
まさにという言葉だった。
「必ずな」
「そうされますか」
「そのうえで太閤様に喜んで頂く」
頭巾の中の片目がここでにっと笑った。
「そうする」
「それでは」
「うむ、わしも励むぞ」
笑って言ってだ、大谷は自分の領地で秀吉をもてなす用意をした。そして秀吉が来た時にまさにだった。
百万石の大名でも驚くだけのもてなしをした、このもてなしにはだ。
秀吉も驚いてだ、大谷に思わず問うた。
「刑部、これはじゃ」
「はい、何か」
「あまりにもじゃ」
それこそというのだ。
「贅が過ぎるのではないか」
「いえ、太閤様へのもてなしなので」
「わしのか」
「天下様へのです」
だからこそというのだ。
「これ位はです」
「何でもないか」
「はい」
まさにというのだ。
「ですから」
「ううむ、しかしな」
「ははは、銭はありました」
余裕を見せて笑ってだ、大谷は秀吉に言った。
「借金なぞしておりません」
「そうか、この時の為にか」
秀吉は大谷のことを察して言った。
「そうしてくれたか」
「そのことは」
言わないとだ。大谷はこのことは笑って言うだけだった。
「その様に」
「そうか、礼を言う」
秀吉は大谷の心を汲み取りつつ応えた。
「このこと忘れぬぞ」
「有り難きお言葉」
「御主の心よくわかった」
こう言ってだ、秀吉は大谷に褒美を取らせた、それは十万石の大名に対するとは思えぬまでであった。しかし。
大坂で怪しい噂が流れていてだ、幸村もその噂を聞いて眉を曇らせて言った。
「馬鹿な、その様なことはじゃ」
「はい、有り得ませぬ」
「義父様がその様なことをされるとは」
「義父様はされませぬ」
「あの様な方が」
「そうじゃ、義父上は戦の場でのみじゃ」
まさにとだ、幸村は十勇士達に答えた。
「剣を振るわれる方じゃ」
「それを辻斬りなぞ」
「辻斬りすればそれで業病が治るだのということで」
「その様なことを考えされるとはです」
「絶対に有り得ませぬ」
「そうじゃ、こうしたことはじゃ」
まさにとだ、幸村はまた言った。
「全く根も葉もない噂じゃ」
「誹謗中傷の類ですな」
「誰が言ったか知りませぬが」
「この様な話を広めて義父様を貶めるなぞ」
「人として許されぬことです」
「全くじゃ、許せぬ」
幸村は静かだったが眉を怒らせていた、そのうえでの言葉だ。
「とてもな」
「ではどうされますか」
「この噂については」
「殿としましては」
「どの様にして噂を消されますか」
「いや、拙者が動くまでもないであろう」
幸村は十勇士達の問いにはすぐにこう返した。
「拙者が動くより前にな」
「と、いいますと」
「一体」
「どうなると」
「太閤様が動かれる」
秀吉がというのだ。
「だからな」
「それでは」
「我等も動く必要はありませんか」
「殿も動かれず」
「そうされますか」
「うむ、そうしよう」
こう言うのだった。
「動かぬ」
「太閤様がどうされるか」
「これから見るのですな」
「そうされますな」
「それでよい」
こう言って実際にだった、幸村は動かず十勇士達もだった。彼の命がないので動くことはなかった。そして幸村が言った通りにだ。
秀吉はその話を聞くなりだ、激怒して言った。
「その様なことがあるか!」
「巷の噂は、ですな」
「刑部殿が辻斬りをされているなぞ」
「業病を治す為にと」
「ご自身の」
「あ奴は辻斬りなぞせぬ」
絶対にとだ、秀吉は言い切った。
「ましてや己の為に人を殺めるなぞじゃ」
「決してですな」
「あの方はされませぬな」
「絶対に」
「そうした方ですな」
「そうじゃ、わしもあ奴の病は治ってもらいたい」
秀吉も願っていることだ、このことは。
「しかしじゃ」
「それを人を殺めてまでとは」
「何があろうとも」
「せぬわ」
大谷、彼はというのだ。
「この様な性質の悪い噂を広めるなぞ」
「一体誰でしょうか」
「誰が広めたのか」
「そんなことはどうでもよい」
噂を広めた者についてはだ、秀吉はいいとした。
「問題はこうした噂が出ていることじゃ」
「では噂を消しますか」
「そうされますか」
「噂を話しているものを見つけよ」
こう言うのだった。
「広めた者を探すよりもな」
「言っている者をですか」
「その者を見つけて」
「そして捕らえてじゃ」
そうしてというのだ。
「首を刎ねよ、わかったな」
「広めた者より言っている者ですか」
「その者を捕らえてですか」
「そして首を刎ねる」
「そうしますか」
「うむ、どうせ噂を言った者は小者じゃ」
秀吉の見立てではそうだった、何でもない者が思いつきで言ったのだ。
「現に大坂で実際に辻斬りの話はあるか」
「いえ、実は」
「そうした話はありませぬ」
「この大坂も悪人には容赦しませぬ故」
「泰平であります」
秀吉は治安も徹底させているのだ、悪者は何処までも追い捕らえて処罰する信長のやり方を踏襲しているのだ。
「ですから辻斬りなぞ」
「それは厳しく禁じていますし」
「今もやっておる者はです」
「調べましたがおりませぬ」
「実際にそうした話もありませぬ」
「たまたま下らぬ者がそうした話をしてな」
そしてというのだ。
「尾ひれなりがついて広まったのであろう」
「刑部殿のことと合わさり」
「そのうえで」
「そうじゃ、では噂の元を調べるよりじゃ」
それよりもというのだ。
「言っておる者をじゃ」
「見付けそのうえで」
「その首を刎ねる」
「そうしますか」
「そうせよ、よいな」
秀吉自らこう命じてだった、実際にだ。
この噂話をしていた町の浪人が二人捕まってだ、即座に首を刎ねられた。このことが他に噂を話していた者達を恐れさせてだった。
この噂話は消えた、大谷このことを聞いて急いで秀吉に拝謁して礼を述べた。
だが秀吉はその大谷にだ、笑ってこう言った。
「こんなものは何でもない」
「そう言って頂けますか」
「御主をやっかみ中傷するにしてもじゃ」
こうした噂を言い回ることはというのだ。
「許せぬ、そうした不埒者を成敗しただけじゃ」
「左様ですか」
「だからじゃ」
それ故にというのだ。
「このことはな」
「礼はですか」
「よい、気にするな」
笑ってこう言うのだった。
「わかったな」
「さすれば」
大谷は秀吉の言葉を受けて下がった、だが石田のところに行くとその場で感涙の涙を流しつつ彼に言った。
「このご恩、決して忘れぬ」
「刑部、それはわかったが」
その大谷にだ、石田は気遣う声で告げた。
「泣くな、目にもよくない」
「この業病にもか
「御主の身体のことを考えるとな」
「泣くこともか」
「よくはない、だからな」
「そうか、ではな」
大谷も頷いてだった、そしてだった。
涙を拭いてだ、あらためて言った。
「とにかくじゃ」
「この度のことはじゃな」
「わしは絶対に忘れぬ」
「そうか、ではな」
「これからもか」
「忠義を頼む、わしはあくまでじゃ」
「豊臣家にじゃな」
石田は大谷に問うた。
「死ぬまで」
「お仕えしたい」
「例え何があろうともか」
「そうか、御主は」
「そう考えておる」
「そうか、ではな」
大谷は石田に言った、その彼に。
「御主はそうせよ、わしはな」
「どうするつもりじゃ」
「いや、わしは天下泰平の為にな」
「働きたいか」
「そう考えておる」
まさにというのだ。
「そしてそのうえでな」
「お拾様をか」
「うむ、わしはお護りしてな」
そのうえでというのだ。
「天下の泰平を考えたい」
「そうか」
「しかし御主はか」
「あくまでじゃ」
石田の言葉は変わらなかった。
「天下はじゃ」
「豊臣家のものでありか」
「お拾様こそがじゃ」
まさにというのだ。
「天下人であられてこそじゃ」
「やはりそうか」
「うむ、御主もであろう」
「いや」
ここでこう言った大谷だった。
「わしは天下を考えたい」
「天下を、どういうことじゃ」
「天下の泰平をじゃ」
それをというのだ。
「第一に考えたい」
「それは豊臣家あってであろう」
「そう思うか」
「そうじゃ、我等は何じゃ」
石田は大谷の目を見て彼に問うた。
「一体」
「決まっておる、豊臣家の家臣じゃ」
「ならばじゃ」
「あくまでじゃな」
「豊臣家に仕えるべきだろう」
「その通り、わしも豊臣家の安泰はな」
このこと自体はというのだ。
「何があっても守る」
「そうじゃな」
「それはな、しかし」
「それでもか」
「第一に天下の泰平を考えたい」
まさにというのだ。
「民達の為にな」
「そのことは当然じゃ」
石田も民は大事にしている、佐和山においては彼は何よりも民を大事にしたこれ以上はないまでの善政を敷いているのだ。
それだけにだ、石田はこのことにも大谷に即答したのだ。
「民を大事にせぬ政はない」
「その通りじゃな」
「そして共に豊臣家を大事にすべきじゃが」
「天下の為にな」
「しかしな」
ここでだ、石田は大谷をいぶかしむ目で見て言うのだった。
「わしと御主では考えているものが違うか」
「そう思うか」
「違うか」
大谷の目を見たまま彼に問うた。
「そこは」
「ふむ、そうであろうな」
「何が違うのかまだわからぬが」
「さっきも言ったがわしは泰平と民が第一じゃ」
「それは同じでもな」
「何かが違う」
「そうじゃな」
こう二人で話すのだった、こうしたことも話してだった。
今は別れた、だがこの違いが後にどうなるかは二人はまだ知らなかった。しかしそれ以上にだった。大谷は彼の屋敷に戻って石田から貰った茶器で茶を飲んでから一人呟いた。
「御主とのことも忘れぬ」
こう呟いたのだった、一人になった時には。
巻ノ七十三 完
2016・9・14