巻ノ百三十三 堀埋め
幕府と豊臣家は講和することになった、すぐに常高院から茶々にそのことが伝えられた、常高院は姉に話した。
「姉上、幕府も講和をです」
「よしとじゃな」
「しました」
「そうか、それは何よりじゃ」
茶々は上の妹の話を聞いてまずは笑った。
「わらわにとってもな」
「それでその条件ですが」
「何とある」
「姉上が大坂にいてもよいとこのことです」
「そのことは絶対じゃ」
茶々は砲撃の時の気弱も何処へやら常高院に強い声で応えた。
「わらわは天下人の母、ここは天下の城じゃからな」
「この大坂城からはですね」
「出る筈がない」
このことは絶対だというのだ。
「何があろうともな」
「はい、それで城におられるならです」
それならとだ、常高院は茶々にさらに話した。
「一つ条件があるとのことです」
「条件とな」
「はい、惣構えの堀を埋めて頂きたいとです」
「長者殿は言っておられるのじゃな」
家康を今の立場で呼んだ茶々だった。
「その様にじゃな」
「はい、長者様は言っておられます」
「左様か、堀位よい」
茶々は妹に笑みを浮かべて答えた。
「別にな」
「外堀ならですか」
「それ位何でもないわ」
笑ったままで言う茶々だった。
「だからじゃ」
「それでよいと」
「うむ、全くな」
「あの、後で講和の約束ごとを書いた文をお渡ししますので」
「そうしてか」
「よく読まれてです」
そのうえでとだ、常高院は姉を心配している顔で見つつ述べた。
「お決め下さい、そしてなのですが」
「またその話か」
「はい、私と一緒に住みませんか」
またこの申し出をするのだった。
「大坂を出て」
「そう言うか、そなたは」
「そうされませんか」
「馬鹿を申せ、今言った通りじゃ」
「姉上は天下人のお母上だからですね」
「大坂を出ることはない」
この大坂城をというのだ。
「決してな」
「そうですか」
「うむ、それはない」
「ここにおられるなら堀を埋めることもですか」
「何でもない、外堀位埋めてもじゃ」
例えそうしてもというのだ。
「何でもないわ、だからじゃ」
「この話はですか」
「結ぶ、喜んでな」
「文をお渡ししますので」
忠告だった、明らかに。常高院は上機嫌のまま言う姉にさらに言った。
「よく読まれてです」
「決めよというのか」
「はい、姉上が大坂から出られるならです」
このことも話す常高院だった。
「長者様は堀を埋めずともよいとです」
「言われておるのじゃな」
「はい、このこともお忘れなき様」
「全く、長者殿はそこまでしてわらわをこの城から出したいのか」
茶々は家康が常に言っていることなのでこのことはわかっていた、流石にこれは彼女でもわかることだった。
「やれやれじゃな」
「そのお考えは確かにあります」
「そうじゃな、長者殿には」
「しかしですね」
「わらわは出ぬ」
きっぱりと強い声で言い切った。
「このことは何があっても変わらぬからな」
「堀位は」
「別によいわ」
こう常高院に言った、常高院はその姉に文を渡した。だが茶々はそれを碌に読まずに大野を読んで言った。
「修理、これでよい」
「講和の条件はですか」
「うむ、わらわに異存はない」
大野にも笑って話した。
「だからじゃ、後はじゃ」
「常高院様にお願いしてですか」
「講和のこと承ったとな」
こう言えと言うのだった、大野に文を渡して。
だが大野はその文を受け取るとすぐに諸将を集めその文を共に読んだ、するとどの者も怪しいと思って言った。
「惣構えの埋め立てですか」
「普通ならばこの城なら三の丸の堀となりますが」
「外堀ですな」
「それ位ですが」
「しかし文字通りに読めば」
その惣構えをというのだ。
「堀全てでは」
「そして堀を埋めると壁も石垣も櫓もです」
「無論門も」
「全部壊すことになりますが」
「そうなりますが」
「そうなっては」
それこそというのだ。
「何にもなりませんぞ」
「如何に大坂城といえど裸になれば」
「堀も壁も石垣も何もないと」
「お話になりませぬぞ」
「これはです」
幸村は大野に言った。
「おそらくですが」
「仕掛けているか」
「はい、惣構えとありますが」
「三の丸の堀だけでなく」
「まさに全ての堀、そして」
「壁も石垣も門も櫓もか」
「無論真田丸もです」
今幸村が篭っているそこもというのだ。
「まさに城の何もかもをです」
「壊してか」
「城を完全に裸にし」
「我等が何も出来ない様にする為か」
「その為の仕掛けですぞ」
「そもそも講和もなりませぬぞ」
後藤も大野に言って来た。
「今の状況での講和はまさに幕府の思う壺で」
「そしてこの文のことも」
「このまま受けてしまえば」
「まさに幕府の思う壺と」
「そうとしか思えませぬ」
「後藤殿の言われる通りです」
譜代衆の中から木村が言ってきた。
「修理殿、この文はそれがしから見ましても」
「仕掛けであってか」
「はい、今迂闊に受ければ」
「城の何もかもがか」
「なくなりまさに大坂の城はです」
この天下の名城がというのだ。
「見る影もない無様な裸城となりますぞ」
「講和なぞひっくり返しましょうぞ」
毛利は諸将が思っていることをそのまま言った。
「戦自体を続けるべきです」
「兄上、何故講和ですか」
治房は他の者達より強く言った。
「そもそも、ましてやこの文を受ければ」
「天下の笑い物ですぞ」
兄に続いてだ、治胤も言ってきた。
「それ位なら派手に戦ってやりましょうぞ」
「その分が遙かにいいですぞ」
長曾我部も大野に強く言う。
「こんなもの飲んではなりませぬ」
「これを飲めば負けるか大坂から出るか」
その二つだとだ、塙が言った。
「そうするしかなくなりますぞ」
「受ければその時点で豊臣の負け」
「それでどうして受けるのか」
「この様なもの受けては」
「もうどうにもなりませぬ」
「そう言われるがな」
大野は講和自体にまだ反対する諸将を宥める様にして返した、その顔には誰よりも深い苦悩があった。
「もう茶々様が決められたこと」
「だからですか」
「もう変えられぬ」
「講和のこともこの文を受けることも」
「全てですか」
「そうなのですか」
「左様、右大臣様も言われておるが」
大野にこの文を見せられてというのだ。
「この文はよく読んでな」
「そうしてですな」
「細かいところまで吟味して」
「そのうえで」
「そして一つ一つ幕府と話をしてじゃ」
そのうえでというのだ。
「決めるべきだとな」
「その様にですな」
「右大臣様も言われていますな」
「その様に」
「そうなのですな」
「そう言われておる」
「ならそうされるべきです」
幸村はまた大野に言った。
「ここは」
「では」
「はい、大坂城の主は誰か」
秀頼であることは言うまでもない、幸村が言うことは正論であった。
「そう考えますと」
「それはそうじゃが」
「茶々様のお言葉だからですか」
「あの方がもう決められた」
それ故にというのだ。
「もうな」
「この文のまま、ですか」
「受けるしかない」
「馬鹿な、これではですぞ!」
治房は遂に激昂して言った。
「滅びる様なもの!自ら!」
「いや、それは」
「いや、とは」
「違う、それはじゃ」
「どう違うのでござるか」
兄にくってかかって問うた。
「それは」
「講和じゃ」
「だからその講和がですぞ」
「滅びの講和か」
「左様、その為ではありませぬか」
まさにというのだ。
「それで結ぶなぞ」
「ならぬか」
「断じて」
「しかし決まった」
まだこう言う大野だった。
「だからな」
「では」
「うむ、幕府には返事をする」
「この文のままでよいと」
「その様にな」
「ですか」
「これでよい」
苦い顔だがこう言った大野だった。
「もうな」
「ですか、では」
「もうこれで」
「講和ですか」
「茶々様のお考えは変わらぬ」
それ故にというのだ。
「だからだ」
「ここはですか」
「講和をされ」
「そしてですね」
「茶々様はですか」
「大坂に留まられる」
それが茶々の考えであることもだ、大野は諸将に伝えた。
「そしてそのうえで」
「惣構えの堀をですな」
「それを埋める」
「そうして大坂におられるのですか」
「それが茶々様のお考えなのじゃ」
「交渉されるべきでは」
まだ言う後藤だった。
「茶々様にもう一度文を読んで頂き」
「そしてか」
「惣構えといいましても」
「三の丸の堀だけを埋める」
「そのこと確かにしましょうぞ」
「そもそも堀を埋めさせるなぞですぞ」
長曾我部はこのことを強く言った。
「それだけで最早」
「武士としてはか」
「左様、あってはならぬこと」
「自ら守りを捨てること故」
「それだけで愚かなこと、ですからどうしても講和されるなら」
それならばというのだ。
「茶々様が大坂を出られ」
「江戸にと言われるか」
「そうされるべきでは」
「それは絶対に無理でのう」
大野はその彫の深い秀抜な顔を曇らせて長曾我部に答えた。
「あの方はどうしてもな」
「大坂を出られぬのですな」
「それは何よりも絶対と言われていてな」
「お考えが変わらず」
「堀をと言われる、そして講和もな」
「もうですか」
「早くにという感じでじゃ」
これは砲の音、特に自身がいる奥御殿に弾が落ちたことからだ。茶々は講和を一刻も早くと言っているのだ。
「だからな」
「では」
「すぐに講和じゃ、諸将もそれでお願い申す」
納得していなくても納得してくれ、大野はあえて無理を言っていた。それがわかっていながらそうしたのだ。
しかしだ、その話を聞いてもだった。
諸将は納得しなかった、それで幸村も真田丸に戻って大助にも家臣達にも話した。
「講和が決まったが」
「今ですか!?」
「今講和なぞしては幕府の思う壺ですぞ」
「何をされるかわかりませぬ」
「大御所殿も既にお考えでしょうし」
「講和はなりませぬが」
「拙者もそう修理殿に申し上げたがな」
しかしとだ、幸村は我が子と十勇士達に述べた。
「しかしじゃ」
「どうにもなりませぬか」
「茶々様が決められたので」
「だからですか」
「最早」
「どうにもならぬ、修理殿は立派な方であるが」
それは幸村から見てもだ、まさに豊臣家の復権に相応しい。
だがそれでもとだ、幸村は大野についてさらに話した。
「しかしな」
「あの方はですな」
「茶々様には逆らえぬ」
「どうしても」
「それが出来ぬ方ですな」
「だからじゃ、茶々様が講和と言われるとじゃ」
篭城等これまでと同じくというのだ。
「それに従ってしまうのじゃ」
「だからですか」
「執権であられる修理殿もそう言われ」
「そして、ですか」
「そのうえで」
「そうじゃ、もう使者が行っておるじゃろう」
講和のそれがというのだ。
「大御所様のところにな」
「ではですな」
「もうどうにもなりませぬか」
「講和の賽は投げられましたか」
「既に」
「そしてこの真田丸もじゃ」
大坂城を守っているこの出城もというのだ。
「堀を埋めるとなるとな」
「当然の様にですな」
「取り潰される」
「そうなりますか」
「三の丸の堀だけで済む筈がない」
もう幸村にはわかっていた、それは確信であった。
「さらにじゃ」
「他の堀も埋め」
「そして壁も石垣もですな」
「門も櫓も壊し」
「この真田丸も」
「全てじゃ」
城のそれをというのだ。
「壊してじゃ」
「何も守りもなくす」
「そうしてきますか」
「そうなってしまえば」
「最早」
「天下の名城も何でもなくなるわ」
その守りが完全になくなるというのだ。
「そしてその様な城にいてもな」
「どうしてもですな」
「最早ですな」
「出るしかない」
「そうなりますな」
「そうじゃ、だからじゃ」
今の状況はというのだ。
「非常にまずい」
「大坂にとって」
「非常にですな」
「そうした状況ですな」
「すぐにそれがわかる」
こう言ったのだった。
「戦が決まる時がな」
「その講和によりですな」
「講和は戦の終わりではない」
幸村は大助に述べた。
「それはわかるな」
「はい、講和は時としてです」
「そうじゃ、戦の息抜きであったりな」
「次の戦への仕込みですな」
「若しくは戦をせずに勝つ為の仕込みじゃ」
「そういった場合もありますな」
「この場合は二つじゃ」
今の講和はというのだ。
「戦をせずに勝つかな」
「次の戦への仕込みですな」
「戦わずして勝つならよくてじゃ」
「兵法の最善ですな」
「そうじゃ、それかじゃ」
「次は確実に勝てる為の仕込みですな」
「その場合もある、その二つじゃ」
またこう言った幸村だった。
「茶々様はそうしたことが一切おわかりになられずじゃ」
「砲の音と弾に怯えられて」
「講和となった」
「何とも情ない話ですな」
「誰も茶々様を止められぬのではな」
ここで俯いた幸村だった、自身も茶々を止められないのでそれで己の至らなさに歯噛みしているのだ。
「どうしようもないわ」
「そうなのですか」
「とかく大坂の誰も茶々様を止められぬ」
「常高院様もですな」
「あの方もやんわりと言われておる」
大坂から出ること、そのことをだ。
「その様にな、しかしな」
「常高院様のお言葉も」
「聞かれぬ、あの方は何も聞こえず何も見えず言葉だけを出されておる」
「そうした方ですか」
「そして何もわかっておられぬ」
聞こえず見えずに加えてというのだ。
「そうした方だからな」
「ああされてですな」
「そして今もじゃ」
「無闇な講和をされて」
「ご自身が望まれぬことを招くのじゃ」
「他ならぬご自身で」
「そうなることが実に無念じゃ」
また言った幸村だった。
「まことにな」
「そう言われますと」
「お主にもわかろう」
「はい、茶々様は総大将になられるべきではなく」
「大坂にもな」
「おられるべきではありませんでしたな」
また言った大助だった。
「何があろうとも」
「豊臣家、ひいてはご自身の為にな」
「左様ですな」
「そのこともわかっておられぬしな」
「では父上」
「いや、拙者は果たすべきことは果たす」
大助の怪訝な言葉に毅然として答えた幸村だった。
「例え何があろうともな」
「敗れようとも」
「戦にな、それでもじゃ」
「果たすことは果たされますか」
「敗れて滅ぶか」
幸村は大助に問うた。
「お主ならわかろう」
「はい、国破れて山河在りです」
大助は父に杜甫、異朝の唐代の詩人の詩で応えた。
「それで何もかもが終わりではありませぬ」
「そうじゃ、我等が生きておるならな」
「果たせますな」
「拙者はあの方との約を一日たりとも忘れたことはない」
その者の顔を思い出しつつの言葉だった。
「だからじゃ」
「何としてもですか」
「敗れようともな」
「必ずですな」
「それは果たす、その仕込みはしておいた」
「ご自身が西国に赴かれ」
「それで約をした」
その彼等と、というのだ。
「そうした」
「それは聞いておりますが」
「その相手を信じられるか、か」
「はい、そのことは」
「安心せよ、お二方共じゃ」
その彼等のことも答えた幸村だった。
「幕府については思うところがある、代替わりされた方もおられるが」
「あの方もですか」
「そうじゃ、だからな」
「いざという時はですか」
「果たせる、何なら本朝から出て琉球に逃れる」
こうすることもだ、幸村は既に考えていた。
「我等と十勇士がおればあの方をお護り出来る」
「琉球には幕府の目も届きませぬからな」
これは本朝ではないからだ、幕府はあくまで本朝のものでありそこから外に出ることは一切ないのだ。
だからだ、幸村もこう言うのだ。
「だからじゃ」
「いざとなればですか」
「琉球に逃れるぞ、しかしそれは最後の最後でじゃ」
「いざとなればですか」
「そちらに去る、その時は船も用意してもらってな」
「ここからですな」
「我等がお護りして逃れるぞ」
そうするというのだ。
「お主も生きよ、よいな」
「はい、真田の武士道は生きるものですな」
大助は幸村に確かな声で応えた。
「例えどうなろうとも」
「そうじゃ、しぶとく生きてじゃ」
「そしてそのうえで果たすべきことを果たす」
「それが真田の武士道じゃ」
「忍の様に」
「真田は元々山の民という」
ここで真田家の出自自体もだ、幸村は大助に話した。
「拙者も詳しいことは知らぬが」
「そうだったのですか」
「そうも言われておる、そして武士道と共にじゃ」
「忍の道もですな」
「学んでおるな」
「共に」
「そこも違う」
普通の武士道とはというのだ。
「真田には真田の武士道がある」
「何があっても生きて」
「そしてやるべきことを果たす」
「それで、ですな」
「お主も然りじゃ」
真田の家の者だからというのだ。
「決してな」
「軽挙妄動なぞせず」
「生きることじゃ」
無闇に腹なぞ切らずにというのだ。
「よいな」
「わかり申した、では」
「これから大坂はとんでもないことになるが」
「この城に留まり」
「そしてじゃ」
「最後の最後にはですか」
「果たす、必ずな」
幸村はもう講和の後、最後のことを考えだしていた。そのうえで講和が果たされるのを見届けた。するとすぐにだった。
幕府は三の丸の堀を埋めはじめた、大野はその状況を見守っていた。堀は昼も夜も埋められてすぐに完全に平となった。大野はそれを見て眉を顰めさせて言った。
「これで守りはな」
「はい、かなりですぞ」
治房は兄を咎める目で見つつ言ってきた。
「弱まりましたぞ」
「そうでるな」
「外堀も大阪の確かな護りであったというのに」
「わかっておる、しかしな」
「これで、ですな」
「講和じゃ」
それが成ったというのだ。
「戦も終わると茶々様が言われておる」
「そうであればよいですが」
治胤も大野を咎める目で見ている、このことは次弟も同じだ。
「果たして」
「何はともあれ三の丸の堀は埋められたからな」
「あくまでそれで、ですか」
「よしとしよう」
こう言うしかなかった、今の大野は。だが事態はここでこの大野三兄弟を含めた諸将が危惧した通りになった。
幕府は他の堀まで埋めはじめた、しかも城の壁や石垣、櫓や門といった秀吉が城の護りを考え抜いて築いたあらゆるものをだった。
取り壊しはじめた、これを聞いた茶々は仰天して叫んだ。
「何と、他の堀を埋めるだけでなくか」
「はい、櫓も何もかもをです」
「壊しておるのか」
「それは瞬く間に進み」
ここでも大野が茶々に話す。
「このままでは本丸の堀までもがです」
「馬鹿な、それでは護りなぞなくなるぞ」
このことは茶々もわかることだった、本丸の堀まで埋められればだ。
「完全な裸城じゃ」
「そうなるのも時間の問題です」
「すぐに幕府の奉行に聞くのじゃ」
堀の埋め立て等にあたっている彼にというのだ。
「よいな、それでは」
「わかり申した」
大野はこうなるとわかっていた、だが茶々にそれは言わず幕府の方に違約だと言った。しかし幕府の方は言われていると答えるだけでだ。
埋め立ても打ち壊しも止めない、大坂方はそれを歯噛みしつつ見ているだけだった。だがその彼等を見てだった。
兼続は自分もその作業を受け持っている、それで本丸の方を見てこう言った。
「そもそも堀を埋めることに頷くなぞじゃ」
「その時点で、ですな」
「あってはならぬことですな」
「愚かなことですな」
「これ以上はないまでにな」
まさにとだ、兼続は上杉家の者達に答えた。
「愚かなことじゃ」
「堀を埋めては護りなし」
「例えそれが外堀でも」
「それがわからず埋め立てに頷くとは」
「茶々殿はまことにですな」
「何もわかっておられぬ方じゃ」
兼続は厳しい声で言った。
「まことにな」
「左様ですな」
「よくもまあ頷いたものです」
「そしてその結果です」
「こうなっています」
「愚の骨頂、これでじゃ」
もう本丸の堀まで埋められだしていてそこの櫓等も壊されている、裸城になるのも時間の問題だった。
「豊臣家は大坂から出ざるを得なくなる」
「裸城では護れませぬからな」
「どうしようもありませぬな」
「それではですな」
「出るしかありませぬな」
「元々幕府は大坂に大きな城を置くつもりはない」
大坂は欲しいがというのだ。
「それよりも町を広く大きくしてじゃ」
「そうしてですか」
「栄えさせたい」
「それが幕府の考えですか」
「だからああして一度堀も何もかもをなくしてじゃ」
そうしてというのだ。
「後で適度な大きさの城にしてな」
「そこを西国の政の要とし」
「大坂の町を栄えさせる」
「それが幕府の考えだからですか」
「こうしておるのじゃ」
城を完全に裸城にしているというのだ。
「豊臣家を出さずを得なくさせてな」
「そうしてですか」
「そのうえで、ですか」
「代わりに大坂に入り」
「そこから西国をも万全に治めるつもりですか」
「そうした考えじゃ、もうこれで普通に考えればじゃ」
ここでこう前置きした兼続だった。
「豊臣家は大坂を出るが」
「それでもですか」
「若し大坂に残ろうとすれば」
「その時はですか」
「浪人衆をどうするかもあるしな」
抱え込んだ十万にも及ぶ彼等がというのだ。
「それをどうするか、そしてまた茶々殿が意地を張れば」
「そうなってしまえば」
「その時はですか」
「戦ですか」
「そうなりますか」
「そしてあの方はな」
茶々、彼女はというと。
「おそらくな」
「意地を張られますか」
「大坂から出られぬ」
「裸城になろうとも」
「それでもですか」
「あの方の意地は天下一品じゃ」
そこまで意地が強いというのだ、茶々は。
「だからな」
「それで、ですか」
「大坂から出られず」
「そしてですか」
「そのうえで」
「また戦じゃ、そして裸城で戦えば」
そうすればというと。
「言うまでもなかろう」
「はい、最早です」
「勝てるものではありませぬ」
「到底」
「大坂は大坂城の護りが強かったですが」
「その護りがなくなれば」
「もうお話にもなりませぬ」
上杉家の者達も兼続に言う。
「その時は」
「どうしようもありませぬな」
「裸城で戦えば」
「その時は」
「負けるしかないわ、そして負ければじゃ」
そうなればというと、豊臣家が。
「降るしかない、そうなればな」
「大御所様はそれでも情をかけられますが」
「右大臣様のお命は助けようとされますが」
「そこでも何かあれば」
「そうなってしまえば」
「豊臣家は滅ぶ」
そうなってしまうというのだ。
「そしてそうした流れにしておるのがな」
「茶々様ですな」
「他ならぬあの方ですな」
「豊臣家を続けさせるおつもりが」
「滅ぼそうとしておるのですな」
「あの方こそが豊臣家を滅ぼしておる」
そうした状況だというのだ。
「この度のこともな」
「堀のこともですな」
「まんまと引っ掛かり」
「折角の大坂城も裸城にしてしまい」
「無残なものにしていますな」
「そうじゃ、そしてそれがわかっておられぬ」
茶々自身はそうだというのだ。
「何もわかっておられぬからな」
「どうして豊臣家が滅ぶのかも」
「ご自身のせいでもですな」
「それもわかっておられず」
「これからもですか」
「豊臣家を追い詰めていかれますか」
「そうじゃ、大納言様がおられれば」
秀長、彼がだ。
「茶々様も止められて右大臣様の後見をされてな」
「今の豊臣家はなかったですか」
「大坂の城もですな」
「この様にはなっていませんでしたな」
「あと少しで完全な裸城になりますが」
「そうなることもですな」
「なかったわ、とてもな」
残念そうに言う兼続だった、そしてだった。
兼続もまた大坂城の堀を埋め壁も石垣も櫓も壊していった、当然真田丸はとうの昔にそうなってしまっていて。
城は天守閣とその周りの建物、秀頼の御所やそういったものばかりとなっていて護りなぞなくなっていた。その有様を見てだった。
豊臣方で戦っていた浪人達は呆れ果てて忌々し気に話をした。
「この様な城になってどうせよというのじゃ」
「護りも何もないぞ」
「あの護りがなくなったわ」
「奇麗さっぱりとな」
「これで勝てるか」
「次戦になれば終わりじゃ」
「我等は敗れるわ」
そうなってしまうというのだ。
「そうなってしまうわ」
「それでは何の意味もないわ」
「負け戦なぞやってられるか」
「何たる馬鹿な話じゃ」
「おめおめと敵に彫を埋めさせるとは」
「この様な馬鹿な話聞いたこともないわ」
「その様な愚かなことをさせる総大将の下で戦っていられるか」
到底と話すのだった。
「また負けてしまうわ」
「もう既に負けておるわ」
「これ以上はな」
「冗談ではないわ」
「さっさと去った方が身の為じゃ」
「全くじゃ」
こう話して次々にだった。
浪人達は逃げていった、それを見て後藤は幸村に言った。
「これではな」
「はい、もうですな」
「浪人の数が減ってな」
「どれだけ減るかですな」
「六万を切るであろうな」
十万いた彼等がというのだ。
「そうなるであろうな」
「そうでしょうな」
「そして」
そのうえでというのだ。
「後はな」
「はい、裸の城で」
「その残った兵達で戦うしかない」
「そうなりますな」
「講和をしたが」
それでもというのだ。
「茶々様はな」
「大坂を出られぬ」
「出られる筈がない」
茶々の考えはもうわかっていた。
「だからな」
「また戦になり」
「今度こそな」
後藤はあえて言った。
「大坂は滅びるであろうな」
「左様ですか」
「わしはもう未練はない」
この世にというのだ。
「最早な」
「お母上もですな」
「浄土に行かれた、家族も預けた」
確かな者達にだ。
「だからな」
「思い残すところはなく」
「思う存分戦いそのうえでじゃ」
「死ぬこともですか」
「出来る、しかし貴殿は違うな」
「はい」
幸村は後藤に確かな声で答えた。
「それがしはです」
「あくまで生きてじゃな」
「果たすべきことを果たす所存です」
後藤にもこう言った。
「何があろうとも」
「そうであるな、貴殿らしい」
後藤は幸村のその生き方を否定しなかった、むしろ肯定してそのうえで彼に対してさらに言うのだった。
「それでわしも今思い残すことはないと言ったが」
「それでもですか」
「今は右大臣様が主じゃ」
秀頼、彼がというのだ。
「だから右大臣様の為に戦い最後までな」
「右大臣様をお護りすますか」
「そうも考えておる」
「そうですか」
「どちらにしても無駄死にするつもりはない」
こう幸村に述べた。
「何があろうともな」
「そうですか、ではそれがしと共にですか」
「最後まで戦いそしてな」
「右大臣様を最後までおお護りする」
「そうしようか、茶々様もそれは絶対じゃ」
強情でしかも何もわかっておらず今の有様を招いた茶々にしてもというのだ。
「右大臣様はな」
「何としてもお護りする」
「その一念だけは絶対じゃ」
「母君であるからですな」
「そうじゃ、それはわしにもわかる」
「それがしもです、やはり母というものはです」
幸村は後藤に確かな声で述べた。
「何があろうとも子を護るもの」
「だからあの方もな」
「右大臣様をですな」
「お護りすることに異論はない」
「だからですな」
「このことは必ず認められる」
母としてというのだ。
「むしろあの情念が強過ぎる、それ故に今を豆いてもおるしな」
「その強さが裏目に出て」
「そうしたこともあるが」
後藤は政には疎いとされる武辺者とされている、その為何かと細かいところはわからぬと言われている。だが実は人の心のことにも通じている繊細な一面も持っている男である。それで今も言えるのである。
「しかし右大臣様を護るお気持ちは本物じゃ」
「だからですな」
「このことは必ず認めて頂ける」
「では後藤殿もですか」
「その為に戦い生きるか」
「武士としてそうされるのですか」
「そうじゃ、そうしようか」
こう幸村に言うのだった。
「わしも。貴殿と共に」
「そうして頂けますか」
「何があっても生きてな」
そうしてというのだ。
「そうしようか」
「後藤殿が共に戦い右大臣様をお護りして頂けるなら」
幸村は後藤の言葉、心のそれを聞いて切実な声で応えた。
「それがしも有り難い、千人力です」
「そう言って頂けますか」
「後藤殿は天下の豪傑、一騎当千の方なので」
だからこそというのだ。
「それがしとしてもです」
「有り難いと言って頂けるか」
「はい、とても」
後藤に微笑んで応えた幸村だった。
「有り難いです、確かに大坂城は完全な裸城になりましたが」
「それでもじゃな」
「負けは確実とそれがしも思いますが」
戦になればだ、もう幸村もそう見ていた。むしろ知恵者である彼にはよくわかることであった。
「まだ何とかしてみます」
「戦になれば」
「右大臣様をお護りしましょうぞ」
「我等の力でじゃな」
「人は城、人は堀、人は石垣ともいいます」
信玄の言葉も出した幸村だった。
「負けることは避けられずとも」
「右大臣様だけはか」
「何とかなるやも知れませぬ」
「それではな」
「力を合わせそのうえで」
「右大臣様をお護りするか」
「そうしましょうぞ」
「こうなってしまって逃げる者がどんどん出て来た」
大坂城が完全に裸城になりもう戦っても負けると見てだ、大坂方にいた浪人達も豊臣家を見捨てたというか茶々をあまりにも愚かだ、この様な大将の下で戦っても死ぬだけだと思い去っていっているのである。
「それも当然じゃしな」
「裸城を見れば」
「それも仕方ない、しかしな」
「それでもですな」
「わしは最後まで大坂で戦うと決めたしな」
「今の主である右大臣様をですな」
「お護りすることも決めた」
今の幸村との話でだ。
「ならばな」
「去らずにですな」
「戦う、最後までな」
「そうしてですな」
「生きることも考えだした」
幸村との今の話でそうなってきたというのだ。
「真田殿と共にとな」
「では」
「うむ、わしも真田殿と志を同じにするか」
「そうして頂けますか」
「これまで死に場所を求めておった」
「戦の場で、ですな」
「見事散ろうとな、武士らしく」
武士は戦場で生き戦場で死ぬもの、この考えからだったのだ。
「そう考えておった、しかしな」
「そのお考えが変わり」
「貴殿と共に戦い」
「最後の最後まで、ですか」
「生きてみるか、武士として」
「それでは」
「次戦になればその時はな」
大坂は間違いなく敗れる、しかしというのだ。
「果敢に戦いそしてじゃ」
「果敢に生きられますか」
「そうしてみようか、では今はな」
「はい、講和となりましたし」
次の戦があることは充分考えているが確かに講和はなった、とりあえずは政の話となるというのである。
「今は休みましょうぞ」
「そうじゃな、そして残った兵達をな」
「まとめそうして」
「次の戦のことを考えようぞ」
こう話してだ、幸村達はとりあえずは講和がなったことを見届けた。すると家康は大坂城が完全に裸城となったことを駿府で聞いてこう言った。
「さて、後はじゃ」
「はい、大坂の浪人衆ですな」
「これでかなり出るな」
「もう大坂城はあてになりませんからな」
崇伝が言ってきた、戦には出ていないが話を聞いてもう知っているのだ。
「それでは豊臣方で戦おうとも」
「うって出るしかない」
「そうなれば数がある幕府が有利」
「わしは野戦こそ得意じゃしな」
家康は笑って言った、彼の外での戦上手は信長の盟友だった頃から有名でありそれが目立ってかえって城攻めが不得手とさえ言われていたのだ。
「だからな」
「ここはですな」
「浪人達もそれを知っておってな」
「今やです」
服部が家康に言ってきた。
「大坂からは浪人達が日に日にです」
「逃げ出しておるな」
「おそらく最後は六万を切るかと」
「十万から相当に減るのう」
「そこまで減るかと」
「ならばじゃ、残り五万程もじゃ」
それだけの浪人衆をというのだ。
「幕府も何とか出るのを助けるとな」
「そう伝えてですな」
「出させるのじゃ、これで兵はなくなりじゃ」
「豊臣家はですな」
「大坂城も裸城となった、だからな」
「出るしかなくなりますな」
「城も人もなくてはじゃ」
それこそというのだ。
「どうしようもなかろう」
「はい、確かに」
「そうさせてな」
残るであろう五万程の浪人衆も出せさてというのだ。
「大坂から出てもらう」
「そうしてもらいますか」
「右大臣殿は暫し蟄居してもらい」
「そうしてですか」
「後に許してな」
そのうえでというのだ。
「上総か下総、若しくはこの二国でじゃ」
「国持大名として」
「よしとするか、大和一国も考えておるが」
「大和は百万石ですぞ」
柳生が言ってきた。
「六十万石から四十万石もの加増となり」
「戦を起こした家にそれはな」
「よくありませぬ、ですから」
「精々か」
「上総か下総の二国かと」
「その国持大名でじゃな」
「よいかと」
大坂を出た秀頼の立場はというのだ。
「官位はそのまま、やがて上がるでしょうが」
「まあそれはおいおいじゃな」
「後は千様との間にお子が産まれれば」
「わしの曾孫となる」
家康は笑って言った。
「ならばな」
「ご一門としてですな」
「松平姓を与えてな」
「完全に取り込みますか」
「もう既に子息がおるが」
秀頼の子国松のことである。
「まあ適度にな」
「お子が生まれぬ場合はですな」
「跡を継がせるが」
「千様との間にお子が生まれれば」
「それに継がせてな」
「松平にですな」
「してよしとする、さて浪人衆を出せばよいが」
豊臣方が残った彼等をというのだ。
「そうでなければな」
「戦ですな」
今度言ってきたのは板倉だった、彼は今は都から駿府に来ていてそれで家康に応えたのである。
「それしかないですな」
「そうじゃ、まあおそらくこれで出ると思うが」
「さしもの茶々殿も」
「茶々殿の強情さはかなりじゃ」
「その強情さで、ですな」
「戦を選ぶことも充分考えられる、いや」
「茶々殿ならば」
板倉はあえて言った。
「それもですな」
「有り得るからのう」
「戦も考えておきますか」
「そうしておく、こちらも不本意じゃがな」
「それでなのですが」
今度は正純が言ってきた。
「実は上様がです」
「千のことでじゃな」
「戦になれば夫と共に死ぬべきと言われておるとか」
「やれやれ、あ奴はまことに生真面目じゃ」
家康は秀忠のその話を聞いて苦笑いになって言った。
「夫に何かあればじゃな」
「はい、奥方様であられる千様もとです」
「言っておるか」
「その様に」
「それで自分の細君は違うからのう」
お江についてはというのだ。
「必ず逃げよと言うわ」
「そうした方ですな」
「死ぬのは己だけでよいとな」
「それが上様ですな」
「あれだけ生真面目な奴もおらん」
父の家康が見てもだった。
「あれはな、まさにな」
「先のですか」
「あの竹千代に似ておるわ」
長男であり嫡男であった信康を思い出し言う家康だった、その時の顔は遠くを見る目であり悲しいものもあった。
「武の方は全くないがな」
「そこはですな」
「あの竹千代とは違うがな」
「それでもですな」
「よく似ておるわ、兄弟でのう」
「その上様だからですな」
「わしの後もじゃ」
自身がいなくなろうともというのだ。
「天下をよく治めてくれるわ」
「ですな、必ず」
「これからは武でも策でもない」
そうしたものは泰平になればいらない、家康はそこまでわかっていた。
「真面目なこと、そしてな」
「律儀ですな」
「それじゃ、幕府は律儀にじゃ」
「約を守っていくべきですな」
「それが大名であろうとも民であろうともな」
自身が治め下に置くべきどの様な者達でもというのだ。
「約を守りそうしてじゃ」
「治めていくべきですな」
「それが大事じゃ、そして血もな」
「それもですか」
「流してはならぬわ、鎌倉幕府や室町幕府はあったが」
鎌倉幕府は源氏の身内同士の殺し合いに北条家の自分達にとって邪魔になる御家人達を殺したことであり室町幕府は足利尊氏や義持の弟達との確執そして力のある守護大名達を戦で弱めたことである。
「我等は出来るだけな」
「そうしたこともですな」
「豊臣家のこともな」
「血は流さぬことじゃ」
「それも大事ですな」
「血生臭い政なぞ泰平の政ではない」
家康はこのことは強い声で言い切った。
「だからじゃ」
「はい、血なぞです」
ここで言ったのは天海だった。
「幕府には不要です」
「流れる血はな」
「伝わる血は別ですが」
血筋、それはと言う天海だった。
「流れる血はです」
「ない様にせねばな」
「くれぐれも」
「そのこともしておくか、しかしな」
「しかしとは」
「いや、今の竹千代と国松のことじゃが」
秀忠の二人の子のことを言う家康だった。
「あの者達はな」
「これからですか」
「竹千代が将軍になるが」
秀忠の後にである。
「問題はその後じゃな」
「国松様は」
「何か心配じゃ、あ奴はわしが江戸に行ってわざわざ竹千代の臣下になることを言っておいたがのう」
これは二人の親である秀忠そしてお江の前でした、菓子を出して竹千代は自ら親しく手渡して国松はあえて退かせこのことを言って聞かせてからそのうえで渡したのである。
「それでもな」
「先はですか」
「こればかりはわからぬ」
「鎌倉、室町の様に」
「あの様に血が流れることもな」
「有り得まするか」
「お主達が生きておればじゃ」
家康は心配になった顔で己の前にいる者達全員に話した。
「そうしたことはなき様にせよ」
「竹千代様が将軍になられ様とも」
「それでもですな」
「国松様に災いが及ばない様にする」
「そうすべきですな」
「わしはもう歳じゃ、もう二年か三年でじゃ」
まさにそれだけでというのだ。
「世を去る、だからな」
「その後はですか」
「幕府を支え」
「そうしてですな」
「竹千代様と国松様のことも」
「何とかですな」
「無事にある様に頼むぞ、しかしのう」
ここで天海を見てだ、家康はあえて彼に問うた。
「お主は星も見られたな」
「はい」
「では国松の星もじゃな」
「暗いものが宿っていました、あの暗さは」
「やがてか」
「国松様ご自身を」
「そうか、しかしな」
あらためて言う家康だった。
「あ奴についても」
「出来る限りですな」
「国松に災いがない様にな、そして以後もな」
「幕府にですな」
「他の家もじゃ、出来る限りじゃ」
「身内同士で血が流れる」
「その様な忌まわしいことはなき様にせよ」
こう言うのだった。
「わしもあの竹千代を死なせた、そして吉法師殿もな」
「あの方もでしたな」
「勘十郎殿を殺されてじゃ」
信長の話もするのだった、幼い頃からの友であった彼のことも。
「そのことを終生悔やんでおられた」
「そうでしたな」
「その様なことはないに限る」
強い言葉だった、実に。
「身内同士で争うなぞな」
「ないに限りますな」
「特に兄弟同士ではな」
「だから国松様も」
「仲は悪くないという」
竹千代と国松のそれはというのだ。
「ならな」
「このままですな」
「仲睦まじい兄弟のままであり」
「そうしてですな」
「将来は」
「国松は竹千代の臣として仕え盛り立てる」
家康は己の望みを語った。
「そうしてもらいたい」
「では上様にも申し上げます」
すぐにだ、柳生が応えた。
「大御所様のそのお言葉を」
「頼むぞ、では皆の者下がれ」
家康は笑って幕臣達に言った。
「そしてよく休む様に」
「それでは」
幕臣達は家康の言葉に従い彼の前から姿を消した、そうして家康も今は休み英気を養うのだった。次に動くべき時に備えて。
巻ノ百三十三 完
2017・12・1