グリンサの一日は、朝6時に始まる。いつもの眠たい顔で下着を変え、トレーニングウェアの上にジャンパーを着る。24時間のジムで1時間ほど体を動かしてから帰宅し、食パン3枚とウィンナー6本を平らげる。食事の後に伸びをして、歯を磨く。顔を洗う。軽く化粧をして、外に出た。特に目的はない。ただの散歩だ。
彼女はあるマンションに住んでいる。5階からエレベーターで降りて、エントランスの自動ドアを通る。快晴だった。ダッフルコートで包まれた体は寒気には晒されない。それでも頬は冷たかった。
「お、ジャグくん」
少し歩いたところで、ばったり出会った。赤いダウンコートを着ていた。
「グリンサさん、おはようございます」
彼は丁寧に一礼した。
「今日は非番でしたか」
「そ。自由っていいねえ」
待機ではないにしても、腰の太刀とウェストポーチはそのままだった。ないと落ち着かない、というのが正直なところだった。
「今晩、食事でもどうです?」
少し震える声でジャグは誘った。
「いいよ。どこ行く?」
「知り合いのやってるステーキハウスがあります」
「へえ。ドレスコードあったりする?」
「いえ、カジュアルな店ですから」
彼女の気の抜けた声も、ジャグにはあまり頭に入っていなかった。憧れのヒトを射止めるチャンスというところで、まだ何もしていないのに一人舞い上がっていた。
「──くん、ジャグくん!」
何度も声を掛けられてハッとした。
「す、すいません」
「時間はどうするの?」
「18時半に迎えに上がります」
「オッケー。任せたぞ、ジャグくん」
コツン、と彼女は胸を小突いた。どろんとした瞳は、真っ直ぐにジャグを射貫く。彼は自然と体が強張った。
「グリンサさん、これは何でもない世間話なんですけど」
そんな前置きをする世間話だとないだろう、とグリンサは変な笑いを浮かべて続きを待った。
「その……今お付き合いしている方、いらっしゃいませんか」
「いないけど?」
「よっしゃ!」
それを聞いたグリンサは吹き出してしまった。
「わかりやすいねえ。いいよ、君の作戦に乗ってあげる」
「……お恥ずかしい限りです」
頭を掻くジャグに笑いかけて、グリンサは歩き出す。
「それじゃ。待ってるよ」
手を振りながら離れていく彼女の姿を、彼は高揚と緊張の中で見送った。
「やった……」
言葉が零れてくる。
「やったんだ……」
スキニージーンズのポケットから携帯を取り出し、友人にメッセージを送る。
『グリンサさん誘えたぞ!』
『やるじゃん がんばれよ』
叫びたい気持ちを必死に抑えて拳を握りしめた。
話をグリンサに戻そう。彼女は宛もなくふらふらとしていた。カフェの食品サンプルを見て味を想像したり、荷物が重くて困っている老人を助けたり。そういう些事を積み重ねながら、2時間ほど歩いていた。
バスターミナルに着く。ここからショッピングモールへのシャトルバスが出ているのだ。都合よく空いていた椅子に座り、景色を眺める。見慣れた街だ。守らなければならない場所。
弟が死んだ時、何のために生きているのか考えたことがある。そして仇敵が死した時も。その度に同じ結論に至った。ユーグラスに身を置いたからには、平穏を維持するために命を賭さねばならないと。それが踏み躙られた命へのせめてもの弔いであると。それはニーサオビンカが崩壊した今でも変わらない。
復讐に焼き尽くされた心を抱えて、それでも誰かのためになるならと戦い続けてきた。ヨウマという弟子もいる。戦い一筋だった人生を改める時が来たのかもしれない、と思ってみる。ジャグからの好意を受け取るのは、そのいい機会になるだろう。
(ま、イルケが育てたんだし悪いヒトじゃないか)
窓に頭を当てる。冷たい。
「お隣、よろしいですか?」
老婆に問われて、彼女は意識を引き戻された。
「ええ、お構いなく」
杖を突いたその老婆は、ゆっくりと座った。
「七幹部のグリンサさん?」
「そうですよ」
「覚えておいでですか。10年前、バスジャックから救って頂いたのです」
「そんな事件もありましたね。お変わりないですか?」
「お蔭様で。体は思うように動かなくなりましたが」
ハハ、と年寄ジョークに乾いた笑いを返したグリンサ。自分もいつかはこうなる──そんな思考が脳裏を駆け抜けていった。自分の死に寄り添ってくれる者はいるだろうか、と考えてしまう。ヨウマは先に死ぬ。やはり、伴侶が必要だ。それがジャグになるかは置いておいて。
「ユミタウン前、ユミタウン前~」
ICカードで支払って、降りた。特に買うものはない。なんとなく、本当になんとなくであった。服屋に入り、買うわけでもない服を見ていく。
(これ、いいかも)
(Sだったら買いだったのに……)
少し落胆して棚に戻した。
手ぶらで店を出て、ブランドものの鞄や時計を眺めながら歩く。刀は注目を集める。しかし彼女はそれに慣れた様子でウィンドウショッピングを楽しんでいた。
「あれ、グリンサじゃん」
そう声を掛けてきたのは、ベージュのトレンチコートを着た快活そうな女性ニェーズだった。赤い髪を一つにまとめて肩に垂らしていた。
「カジャちゃん?」
「5年ぶりくらいかな。元気してた?」
「元気元気……眼、どうしたの?」
「これ? なくなっちゃった」
カジャは気圧されたような、怯えた表情を見せた。
「お茶する?」
グリンサが柔らかい表情で尋ねた。彼女は相手を見上げる格好になるが、二人ともそれを気にしている様子はなかった。
「いいよ。色々話したいこともあるし」
1階のカフェへ。グリンサはチョコケーキにチーズケーキとブラックコーヒーを、カジャはカフェオレを注文した。
「七幹部になったって聞いたときはびっくりしちゃったよ」
「よく言われる。でも何も変わらないよ。私は私」
「……おせっかいかもしれないんだけど、そんな怪我する仕事、続けなくていいんじゃない?」
黒い眼帯への視線を感じて、グリンサは自嘲気味な微笑みを浮かべた。
「多分、一度こっちの世界に入ったら二度と他の世界で生きていけなくなると思うんだ。それに、誰かを助けるためになるなら……戦う意味はあると思う」
「怖くないの?」
「私強いから」
「……そっか。なら、アタシから言うことはないよ」
不安の浮かんだ顔で俯くカジャの額を、グリンサは突いた。
「大丈夫だって。仲間もいるし、私は死なないよ」
自信に満ちた表情──ではなかった。腕と眼を失ったことは彼女の心に影を落としていた。それでも、と信じ続けることはできたが、一人で全てが上手くいくとは思っていなかった。
「ケーキ食べる?」
「ううん。今ダイエット中だから」
「太ってるようには見えないけどなあ」
「仕事のストレスでちょっと体重増えちゃったからさ」
グリンサはチーズケーキを一口食べる。
「仕事、って何してるの?」
「総督府で事務してる。残業多くて」
「事務仕事かあ。報告書書くくらいしかやってないなあ」
「そこは羨ましいかな。戦いたくはないけど」
二人はほぼ同時に窓の外を見た。天気はガラッと変わり、雪が降り始めていた。
「彼氏できた?」
カジャが問う。
「できるかも」
「と言いますと?」
にやついた顔で問いを重ねるカジャ。
「後輩にご飯に誘われてさ、彼氏いないって言ったら『よっしゃ!』だって。笑っちゃうよね。カジャちゃんは?」
「職場の先輩と付き合ってる。今度結婚するんだ」
「式呼んでよ」
「うん、いいよ。住所変わってない?」
「変わってないよ」
熱いコーヒーを飲むグリンサは、少し自分の幸せについて考えた。
「弟子くんはどう?」
「よくやってると思う。ちょっと前に戦ってみたら負けちゃったよ」
「そんなに強いの?」
「ちょっと特殊でね。なんていうか、火事場の馬鹿力を好きな時に出せるっていうか」
「ふーん。よくわかんないけど」
ズズッ、と啜る音がした。
「その弟子くんと付き合ったりはしなかったの?」
「そういう目で見てない。弟だよ、かわいいとは思ってるけどさ」
弟という言葉を使う度、彼女は死んだ実弟の代わりをさせようとしているのではないかと己を訝る。
「弟欲しかったなあ」
「一人っ子だもんね」
「今度弟子くんに会わせてよ。顔見てみたい」
「中々忙しいから難しいかも。休日はお嬢様に振り回されてるみたいだし」
「お嬢様?」
「出渕優香。前の総督の娘ちゃん」
「すごいじゃん。エリート?」
「七幹部総出で育てたからね。剣の腕は影術師団にも負けないよ」
「そう、それ」
カジャは友人を指差す。
「影術師団って本気でニェーズ皆殺しにするつもりなの?」
「やる気だよ。こないだは結界に入り込んできたし。居住区も安全じゃない……気を付けてね」
「なんかいい感じの護身術とかないの?」
「とにかく逃げて。生兵法で立ち向かって生き残れる相手じゃない」
唾を呑んだカジャを、グリンサはいつになく真剣な目で見ていた。
「無事でいてね」
カジャはぽつりと言った。
「気を付けるよ。これ以上怪我したくないしね」
グリンサなりのジョークのつもりだった。だが相手の震える瞳を見て顔を引き締めた。
「ま、元気でよかったよ」
カジャは立つ。
「行くの?」
「今日デートだから。じゃあね」
一人になって、少し寂しくなった。チーズケーキを平らげ、チョコケーキに手を付ける。甘い。後悔するほどに。
(戦う以外の生き方もあったのかなあ)
今更遅いとわかっていても、考えてしまう。誰かを救うこの仕事が嫌なわけではない。だが人並みの幸せを得ている友人を見て、それを遠ざけるような選択をしたのではないかと思うのだ。
(ヨウマの行く末は見守らなきゃなあ)
師として、そして姉として。先に逝くのがヨウマであることは重々承知していた。健康でいれば、グリンサは後100年は生きる。送り出す側の気持ちはもう知っている。何度も味わいたいものではないが、受け入れなければならない。
「嫌な想像」
知らず知らずに口に出していた。
「雪、積もらなきゃいいけど」
天はそんな言葉に従う理由を持たない。ただ沈黙の中で、行き交う人々に雪を浴びせかけるだけだ。時刻は、11時を回った──。