朝の天気予報で、予想最高気温がマイナスだった。
この世の終わりだと思った。
世の中には冬季鬱というものがあるらしい。
これは決して、雪を見てテンションが下がる北国の人間を指すわけではない。
気温が下がることで体温も下がって、血流が変化したりして、結果的に自律神経が乱れる。
自律神経の乱れが引き起こす症状と、鬱の症状は似ているから、冬季鬱と呼ばれるものになったらしい。
ネットニュースで聞きかじった、退屈しのぎの胡散臭い情報だ。
何が言いたいかと言うと、冬に気分が沈むのは仕方ないってことだ。
抗えるものでなければ、そもそも抵抗する意味もない。
「どうしてですか……!?」
憂鬱な気分で学校に着くと、校門の前で何やら生徒同士がもめているのを見かけた。
こんな寒い中で元気だな……と思って通り過ぎようと思ったけれど、当事者のふたりとも見知った顔だったので、思わず足を止めてしまった。
「学校の前で騒ぎは良くないよ」
少しだけ迷ってから、意を決して声をかける。
釣られて振り返った女生徒――東海林さんは、鬼のような剣幕で私のことを睨みつけた。
「絶対に許さない」
およそ漫画やドラマでしか聞いたことのないようなセリフを吐いて、彼女は舌打ち交じりに校舎の中へ消えて行く。
校門に残された私とユリ、そしてもうひとりの当事者である須和さんは、冷え切った表情で顔を突き合わせた。
「星、今の子知り合い?」
「名前を知る仲ではあるかな」
全く状況を飲み込めてないユリは置いておいて、気がかりなのは須和さんの方だ。
状況的に、何かしら詰め寄られていたのだろう彼女は、全く動じた様子もなく長いまつ毛の瞳で瞬きをした。
「おはよう」
「おはようじゃなくて、今のなに?」
「なにも――」
「ないと言わせる気はないけど」
不躾な捨て台詞を吐かれて「何もない」で済ませるほど、私もできた人間じゃない。
須和さんは観念したのか、校舎へ歩みを進めながら言った。
「コンサートのこと」
「だろうなとは思う」
「顎を痛めてまでやることなのかって」
まあ、他にないよね。
だから、譲らなかった私のことは「許さない」か。
すっかり悪役になったような気分だった。
「狩谷さん、彼女と話した?」
須和さんの双眸が、真っすぐに私を射貫く。
その眼に見つめられると、心炉に見つめられた時みたいに、自分が悪いことをしているような気分にさせられる。
嘘は付けないんだろうなと思った私は、正直に話すことにした。
「スワンちゃんのこと、吹奏楽部に返してって」
「関係ない」
須和さんは即答する。
「私は、私がやりたいことをやっているだけ」
「そう伝えて、彼女も引き下がったんだけど。でも、納得しきれない気持ちは、あるんだと思うよ」
それが何の気休めになるのかは分からないけど。
そう思って前に進まなきゃ、これまでのすべてが無駄になってしまうような気がした。
お昼休みに入るころ、穂波ちゃんから連絡があって剣道場に顔を出していた。
扉をくぐると、待っていたのは彼女ひとり。
宍戸さんもいるものだと勝手に思い込んでいた私は、肩透かしを食らいつつ、同時に違和感も覚えた。
「ひとり? 珍しいね。宍戸さんは?」
「歌尾さんは、金曜日の準備で生徒会室です」
金曜日と言えば、クリスマス会もとい、年忘れ会の当日だ。
新歓のような前生徒参加型のイベントにするそうなので、企画立案者である生徒会は今ごろ大忙しだろう。
「穂波ちゃんは、手伝わなくていいの?」
「どうしても外せない部の集まりがあるって言って抜けてきました」
それはまた、私に会うためだけに大事な。
いいや、私に会うことが大事なのではなく、私を呼ばなきゃいけない大事が起こったって見る方が正しいような気がした。
「なんて言ったら良いか分からなくて……大事にもしたくないんですけど」
「何の話?」
「歌尾さん……その、ちょっと最近、クラスの居心地が悪そうで」
「……理由は分かるの?」
「ウチのクラス、吹部の子たちが結構固まってるんです。その子たちからの風当たりが強いというか」
ああ、そう言う形になり始めたか。
恐れていたというより、考えたくなかった事態に、胸の奥がざわつく。
「別に、いじめられてるとか、無視されてるとかじゃないんです。なんとなく空気が、針のむしろみたいというか」
現部長があれだけ動いているんだ。
須和さんの今の事情は、きっと吹奏楽部の部員の多くが知っていることだろう。
そんな中で、須和さんに目をかけられている部外の人間がいるという事実。
当事者たちにとっては、面白くない存在だと思う。
穂波ちゃんの言葉を信じるなら、直接的な被害があるわけではない。
でも、気に入らないことを態度に出さないなんて、十五、十六の女子高生にできるわけもなく。
そうしてにじみ出た空気が、目に見えない針のむしろを生み出す。
「穂波ちゃんの目から見て、彼女はどんな感じ?」
「いつも通りに見えます。だから怖いです」
半ば相反する言葉は、穂波ちゃん自身の戸惑いの表れだった。
土曜日のことがあって、宍戸さんもいくらか前向きに音楽と向き合う気持ちになってくれたような気がした。
気丈なのがそのおかげならいいのだけれど、今の私に判断する術はない。
「わかった。伝えてくれてありがとう。穂波ちゃんは、変わらず宍戸さんの傍にいてあげて」
「それはもちろんです」
「私は――」
言いかけて、言葉が詰まる。私に何かできることがあるのだろうか。
彼女たちのクラスの吹部の子たちと話をする?
いや、それが何の解決になる?
もしくはもう一度、東海林さんと話をして……彼女の口から部員たちを納得させるよう、説得できるのだろうか。
――絶対に許さない。
今朝の剣幕が記憶の片隅に蘇る。果たして、そもそも話す機会を持ってくれるんだろうか。
須和さんを連れて行けば……?
それこそ、何の解決にもならない。
人間、どうあがいても身体はひとつしかないのだから、この話に妥協点なんて存在しない。
わからない。
私は、何をどうすればいい?