ため息とともに幸せが逃げて行くなら、何をすればもう一度飲み込むことができるんだろうか。
朝のホームルームをぼんやりと聞き流しながら、私は心の成すがまま、小さなため息を繰り返していた。
昨日、穂波ちゃんに聞かされた件については、須和さんと、それから銀条さんに伝えた。
もっとも、銀条さんに対してはほとんど何も教えてないのに等しいけれど、もう一度だけ東海林さんに繋いでもらえないかを頼むつもりだった。
結果は玉砕。
東海林さんに話は振って貰えたのだけど、帰って来た返事は「話すことは何もない」の一点張りだったそうだ。
一方で、須和さんに送ったメッセージはすぐに既読がついて、返事もすぐに帰って来る。
ただし「わかった」のたった一言だけだった。
なにも、トークアプリ上でまで口下手じゃなくたっていいのに。
イライラしている自分の姿を鑑みるに、何かしらの解決策を示してくれるのではないかと、勝手に期待してしまっていたらしい。
不用意な期待は、裏切られた時の落差に繋がる。
裏切られた――というのは、少し強い言葉だけれど。
「星さん、一限目は移動教室ですよ」
いつの間にか、心炉が席の傍に立っていた。
生物の教科書とノートが抱えられているのを目にして、私も慌てて鞄からそれらを引っ張り出す。
「今日は、いつにも増してお疲れですね?」
「昨日はユリが寝かせてくれなくってさ」
「そういういかがわしい冗談、私、嫌いなんですけど」
「え……ああ、違う違う。最近ユリのやつ、変に勉強スイッチが入っちゃったみたいで」
言われるまで全く気付かなかったけど、確かに何言ってるんだろ。
一緒に暮らしていることを知っている心炉なら、勘違いしたって仕方がない。
「てか、そう言う勘違いするんだ」
何ともなしに言葉を添えると、彼女はみるみる顔を赤くした。
「さ、先に行きますよ!」
「もう準備できたんだけど」
道具を抱えて席を立つ。
すると、教卓で出席記録をつけていた担任が私の方を向いた。
「狩谷さん、授業の前にちょっと」
「はい」
突然の呼び出しだったけど、全くの心当たりがないわけではなかった。
一抹の覚悟を決めつつ、私は彼女に連れられて職員室へと向かった。
「期末テスト、順位を落としましたね」
職員室隅の応接スペースのようなところに座らされた私の前には、期末テストの成績表が置かれていた。
学年五位。
決して悪い数値じゃない。
しかし、直前の校内模試まで二位か三位をキープしていられたのを鑑みると、僅かな後退は大きな問題だった。
「点数自体が落ちたわけではありません。追い上げて来た後続の生徒に抜かれてしまった、と見るのが正しいでしょう」
「はい」
「どれだけ優秀な生徒であっても、テスト事の順位の差は出るものです。調子のいい回も、悪い回も、あって当たり前のこと。しかし、本校で順位を落としたのであれば、全国単位で見たら、どれだけ甘く見積もっても数十位は落ちたと捉えるべきです」
「はい」
分かっている。
だから、ただ従順に頷くほかない。
担任もその事は察しているのか、それいじょうくどくど説明を重ねることはしなかった。
「後輩たちと、コンサートに出場するために練習しているそうですね?」
「それは――」
「担任ですから耳に入ってきます。あまりひいき目は使いたくありませんが、狩谷さんは校内で有名人であることを自覚するべきです」
それは、仮にも生徒会長だったのだからある程度は――いや、その「仮にも」とか「ある程度は」とか、そういう程度の話をしているんだろう。
時間と場所が無いとは言え、あれだけ校舎内で練習しているし、吹奏楽部の件もある。
それを言ったら機材の貸し出しは音楽教師にお願いしているわけだし、担任の耳に入るルートは、いくらでもあるということだ。
「息抜きは必要なことですから、通常であれば、そのことについて指導することもしません。ですが、あえて言っておきます。それは今、必要なことですか?」
返事をする代わりに、私は息を飲んだ。
何も口にできないということが、半ば返事代わりでもあった。
「あなたが後悔しない結果へ進んでください。狩谷さんは、そういうレベルの戦いに挑戦しようとしているのです」
「……はい」
絞り出すように、そのひと言だけ口にする。
肯定でも否定でもない、その場しのぎのひと言を。
担任から開放されて、一路、生物室へと向かう。
たった数分間のことなのに、その日の授業をまるっと終えたような疲労感だった。
そもそも、全国模試の結果からしてそうだった。
私が見るべきは合否判定よりも、具体的な得点のほう。
〝現状維持〟は、この受験の最終局面において、どちらかと言えばマイナスの言葉だ。
勉強自体に集中はできている。生活にメリハリがついた分、意識して取り組めている。
ダラダラと時間だけをかけていただけの夏前までに比べて、時間単位の質は上がっているはずだ。
だとすれば単純に量。
今の時間じゃ、私には足りないということ。
たったそれだけの至極単純な話だ。
そもそも、部活に行かずに勉強に時間を割くことで、どうにか高水準を保ってきた成績なんだ。
そこに、まるで部活をやってるようなメリハリを導入したところで、改善されるわけがない。
考えれば分かること。
だけど、考えてもどうしようもなかったこと。
「あ、やっときましたね」
生物室に向かう廊下の途中に心炉が立っていた。
彼女は廊下の窓から、ぼんやりと雪の積もる中庭を見つめているところだった。
「寒くないの?」
「寒いですよ。早く行きましょう」
こんな中途半端なところで待っているなら、生物室まで行っちゃえば良かったのに。
わざわざ待っていてくれた人にそんな事言えるはずもなく、並んで自然と歩調を合わせた。
「さっき、何見てたの?」
「あの辺に、笹の葉吊るしたなと思いまして」
「七夕のこと?」
そんなこともあったっけ。
つられたように中庭に視線を移すと、笹を吊るしたピロティーは、足が埋もれるほどの積雪ですっかり見る影もなくなっていた。
「あの時――」
心炉が何か言いかけたところで、ちょうどチャイムが重なった。
半ば反射的に、互いに天井を見上げて、それから顔を見合わせる。
「行きましょうか」
「ああ、うん」
なんだか小骨が喉に引っかかったような状態のまま、ふたりで生物室の扉をくぐる。
雪も、これだけ降っているんだから、嫌なことも全部覆い隠してくれたらいいのに――都合のいい考えだけど、今ばかりは本気でそうあって欲しいと願うものだった。