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12月21日 じたばたしても仕方ない

 何もしなくても時間は淡々と過ぎて行く。


 六十秒を数えたら一分。

 六十分を数えたら一時間。

 二十四時間を数えたら一日。


 小学校の低学年の頃に、算数ではじめて時間という概念と単位を習った。

 同時に、なんで六十時間で一日じゃないんだろうと素朴な疑問を持った。

 全部〝六十〟で揃っていたら覚えやすいのに。

 だけどそこには「昔の人がそう決めたから」という以上の理由はなかった。

 突き詰めればもっと学術的な理由はあるかもしれないけど、その術を持たない小学生にとって、授業で習ったことが世界の真理だった。

 それをきっかけに――ってわけではないにしても、学年を重ねるにつれて、教科書に書いてあることに疑問を持つことはしなくなった。

 少なくとも、自分は学者や研究者には向かないタイプなんだろうなと思った。


 一方で、クリエイティビティに関しても秀でたところはない。

 絵や工作は、人並みにはできたけど、人並み以上の評価はなかった。

 単純に努力をしていなかっただけとも言えるけど、努力のモチベーションが靡かないのであれば、やっぱり向いていないってことなんだと思った。


 スポーツは……まあ、それなりに。

 これも抜きんでて秀でていたわけではないけれど、姉に連れられていくつか習い事をしていたので、何もしてない人に比べればそれなりに動けた。

 だけど、やっぱり頭打ちのラインはある。

 小学校の頃にやっていた水泳クラブは、最後の認定バッジを取るためのタイムが突破できずに、中学入学と同時に辞めた。

 同じころから通っていた剣道は、同門の同世代のメンバーの中では、一位二位を争うくらいに才能があった。

 だから中学校でも剣道部を選んだのだけれど、その三年間、私は全く実力が伸びなかった。

 姉との関係がこじれて来たのもこの辺りからだ。

 練習しても練習しても上手くならない。

 それどころか、同じ道場で私よりも実力が低かった子が、どんどん才能を伸ばして追い抜いて行ったりした。

 そして姉も、頭打ちという言葉をまるで知らないかのように、努力したらしただけ実力を伸ばしていった。

 剣道でも、勉強でも、それ以外のすべてで。

 才能と言う言葉を初めて意識したのも、きっとこの時だ。


 本当は、そんな漢字二文字なんかで済ませたくない。

 才能のない自分は、何の成果も出せないように思えてしまうから。

 だから私は、彼女たちのことを〝強い人〟と呼ぶ。

 努力を躊躇しない、限界というものを自分から破壊してしまうような、強い人。


 そうやって、強い人達に道を明け渡して行って、最後の最後に残ったのが勉強だった。

 このころとっくに教科書に疑問を持つことをしなくなっていた私は、思いのほかこの道が向いていた。

 受験勉強が得意なのは、言われた通りのことを、言われた通りにできるタイプの人間だ。

 ずっと昔に〝指示待ち人間〟なんて言葉が流行った時があったようだけど、学歴だけを見て社員を取っていたら当たり前のことだと思う。

 勉強ができるのは、「教科書に指示されたことを、何の疑問も捻りもなく、大昔に誰かが決めてくれた答え通りに、実行できる人間」なのだから。


 これなら、ひとかどの人間になれると思った。

 胸を張れる結果を残せると思った。姉の強さに迫れると思った。


 じたばたしたって仕方ない。

 人には向き不向きがあるのだから、やれることを精一杯やるしかない


「今ここで……ですか?」


 酷くおびえたような声が響いて、ぼーっとしていた意識が引き戻された。

 水曜日。

 全員が参加できる放課後練習の日。

 いつもの教室で練習に臨もうと準備をしていた中で、須和さんと宍戸さんが真正面から対峙していた。


「今日、ここでサックスを吹いて」


 すっかり挙動不審な宍戸さんに対して、須和さんは一歩も譲らずにそう告げる。

 流石に見かねて、アヤセが間に割って入る。


「いやいやスワンちゃんよ。ついこの間、ダメならダメ、イケるなら当日からでも――みたいな話をしたばっかじゃんよ」

「そ、そうです。歌尾さんだって、克服しようと頑張っていて」


 穂波ちゃんも加勢して、ふたがかりで宍戸さんのことを守る。

 だけど、この音楽という道のうえでは、この場にいる誰よりも〝強い人〟であろう須和さんにとって、彼女たちなど物の数ではなかった。


「今日、克服して」

「んな無茶な……いや、歌尾がイケるってんなら、無茶ではないのかもしれんが」


 微妙にどっちつかずなことを言いながら、アヤセはちらりと宍戸さんのことを見る。

 宍戸さんは、額にじっとりと冷や汗をうかべながら、視線を手元に泳がせていた。


「どうしうていきなり、今日なんですか?」


 日和ったアヤセと違い、穂波ちゃんはあくまで徹底抗戦の姿勢で須和さんに食って掛かる。

 彼女はここに居る誰よりも宍戸さんに寄りそって、宍戸さんのことを考えている。

 だけど、そのために須和さんに食って掛かるのに躊躇がないのは、彼女もまた〝強い人〟のひとりであるからに他ならない。


 対する須和さんも、穂波ちゃんの反抗なんて意にも介さず、淡々と口を開いた。


「外野を黙らせるだけの結果が欲しい」


 須和さんの言葉に、穂波ちゃんは虚を突かれたように目を丸くする。


「それって……」

「良い音さえ作ることができたら誰も何も言わない。そのためには、あなたがサックスを吹く必要がある」


 須和さんはあくまで宍戸さんに向けて語り掛ける。

 宍戸さんは、動悸を抑えるように何度か粗い呼吸をして、音が鳴るくらい奥歯をきつく噛みしめて、同じくらいぎゅっと目を閉じた。


「ごめん……なさい……」


 絞り出すような声だった。

 だけどはっきりと、無理だと言った。

 反論を恐れたのだろう、宍戸さんは身構えるように肩を抱いて縮こまる。

 しかし須和さんは、ただひとつ、小さなため息を吐いただけだった。


「わかった」


 彼女は踵を返して、教室を出て行こうとする。

 私も流石に慌てて、反射的に彼女の手を掴んだ。


「どこ行くの?」

「音楽室」

「それで解決するの……?」

「わからない」


 そう言う割に、彼女の表情も、声色も、一切の迷いが無かった。

 それは、覚悟を決めたということだと私は理解した。


「スワンちゃんがいなくなったら、それこそチームは終わりだよ」


 自分の口から出たのは、半ば脅しのような言葉だった。

 だけど彼女の覚悟は、そんな脅しに屈するようなものではなかった。


「私にできたのは、曲の完成度を高めることだけ。その意味では、私の役目はもう終わった。このチームの核は、本来はあなた」


 見放されたとういうよりは、扉を一枚閉められたような感覚だった。

 冷たく重い、防音室のような扉。

 これ以上の問答は意味のないものに感じられて、私は掴んでいた手を放す。

 須和さんも、私の未練がましい手を優しく振りほどいて、そのまま部屋を出て行った。


「あいつ、マジで終わりにする気なのか?」


 じっと廊下を見つめるアヤセの代わりに、私は宍戸さんの方を振り向く。

 穂波ちゃんが寄りそった彼女は、今日は、涙を流してはいなかった。

 代わりに今にも死にそうな顔をして俯くばかりだった。


「……とにかく、練習を始めましょう。本番に須和さんが演奏しないことは変わらないわけですし。それとも、今から出場辞退しますか?」

「それは……ない、かな」


 本来であれば、出場すること自体で、ある程度の目的は達成される。

 私も須和さんも、その一歩上の成果を求めてしまっただけ。

 練習はしよう。

 あと三日しかないんだ。須和さんのいない編成での完成度を、少しでも高めよう。


 でも、案の定その日の練習はグダグダだった。

 楽譜通りに演奏できてはいるけど、いまいちしっくりこない。

 音よりも、心が型にはまっていなかった。


「先輩、わたし……」


 練習の後、宍戸さんが声をかけてくれた。

 縋りたいのだと思った。

 縋ってくれて良いと思った。


「本番……いけそう?」


 宍戸さんは、少しだけ迷ってから、かすかに頷く。


「……やります。ちゃんとやって、それで、トランペットを返さないと」


 抱えたトランペットのケースをぎゅっと抱きしめる。

 それが、宍戸さんにとって最後の、須和さんとの繋がりのようだった。

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