完全に寝不足だ。
いろんなことが頭の中をぐるぐると駆け巡って、昨日は全くと言っていいほど寝付けなかった。
仕方がないので、夜の十時を過ぎたころにはすっかり〝おねむ〟モードだったユリと部屋を分けて、姉の部屋で体力の続く限り勉強していた。
心配事はいくらでもある。
うち、ひとつだけでも解決しようと手を伸ばしたことは、悪くない傾向だと思う。
案の定、こういう時の勉強は身が入る。
代わりに、眠りにつくことができたのは、日付をゆうに越してからのこと。
昨晩の集中は、今日という日を犠牲にすることで成り立っている。
「星、今日はお疲れ顔だね」
「そう……? BBくらい塗ってくれば良かったかな」
手鏡を出したかったけど、ちょっぴり湿ったみぞれ雪の中で、歩きながら顔面チェックするような器用さも気力もない。
どうせもうすぐ学校だし、ついてからでいいや。
心なしか足が重い気がするのは、雪のせい、もしくは重くて固い冬用のブーツのせいだろうか。
校門が近づくにつれて、吐き出す白い息の量が増える。
「あれ、心炉ちゃんじゃん。おーい」
隣を歩いていたユリが、前方に向かって傘ごと手を振る。
校門のところに立っていた心炉がそれに気づくと、そっと会釈をしてから小さく手を振り返した。
「心炉ちゃん何してんの? 朝礼?」
「違いますよ。ただ――」
ふと、こちらに視線を向けた心炉と目が合う。
彼女は、私の顔を見るなりぎょっとして、それからかすかに眉をひそめた。
「酷い顔ですね」
「さっきユリにも言われた」
「ずっと勉強してて、あんま寝てないんだって」
「何してるんですか……」
心炉に呆れられるのも、もはやいつものこと。
寒いし、適当に流して校舎に向かおうとする。
しかし、その手をがっちりと掴まれてしまった。
「え、なに」
「ユリさん。先に行っててください。私、星さんを保健室まで連れて行きますので」
戸惑う私を他所に、心炉はそんなことを言いだす。
「良いけど、それならあたしもついてこうか?」
「〝付き添いはひとりまで〟が利用ルールですよ」
「こういう時も、さすが心炉ちゃん」
ユリは、感心したように頷きながら、ちょっとだけ考え込む。
やがて、微笑みと共に頷いた。
「わかった。星のことよろしくね」
「はい」
「ただの寝不足だし、保健室とか行かなくていいんだけど」
先にってしまったユリを追おうにも、腕を掴まれたままでは動けやしない。
それどころか、心炉は校舎のある方向じゃなくて、そのまま目の前の大通りの方へと私を引っ張り始める。
「ちょっと、どこ行くの!?」
「タクシー!」
私の言葉なんて全く聞こえていない様子で、心炉は通りがかったタクシーを止める。
そうして、自動で空いた後部座席の扉に私のことを無理やり押し込めた。
「この子の家までお願いします。道は聞いてください」
「まってよ。勝手なことしないで」
タクシーから飛び出そうとするけれど、ドンと突き飛ばされるようにして、もっかい中に押し込まれる。
「そんな状態で学校に来てどうするんですか」
「どうって……授業も受けなきゃいけないし、演奏会の練習だって」
「今日は木曜日です。休んで家で自習するなり、自主練するなり、好きにすればいいじゃないですか」
「それなら学校に居ても変わらないでしょ」
「ダメです。今日は帰ってください」
「なんで心炉に決められなきゃいけないの?」
「それは……」
流石の心炉も、言葉を返せずに言いよどむ。
そんなこと、心炉に言われる筋合いはない。
自分にも他人にも厳しい彼女だからこそ、〝そういう言い方〟が一番聞くって、分かっているから口にした。
そのまま諦めてくれると思ったのだけど、今日ばかりは私の方が甘かった。
心炉は何を思ったのか、私を奥の座席に押しやるようにして、一緒に後部座席に滑り込む。
そのまま、自動ドアが閉まるのも待たずに、手動で扉を閉めてしまった。
「五千円で行けるとこまでお願いします」
そうして、私たちの口論にすっかり戸惑った様子の運転手さんに、握りしめた樋口一葉を突き付けるのだった。
雪道渋滞に巻き込まれながら、おおよそ三十分後。
私たちは、隣の市の中心街でタクシーから降ろされた。
降りる瞬間、運転手のおじさんが「ほんとにいいのか? 市内に戻るなら、金は要らないぞ」とサービス精神旺盛な心配をしてくれたけど、心炉は「結構です」のひと言でそれを突っぱねた。
「五千円って、思ったより遠くに行けないんですね」
市街地からほとんど離れていないのにみるみる上がって行く料金メーターは、なかなかに心臓に悪かった。
電車なら、半分くらいの値段で隣県の都心部まで行って帰ってこれるのに。
タクシーという乗り物の、便利さと非効率さを、改めて実感する。
「てか、どうしてくれんの。完全に遅刻じゃん」
「ど――」
精一杯、嫌味ったらしい口調で愚痴をこぼす。
心炉は唐突にどもりながら、さっと顔を青ざめさせた。
「――どうしましょう!?」
「どうしましょうじゃなくて」
こういう時、案外、無理矢理巻き込まれた方が気持ち的には楽なものだ。
被害者面を突き通せば何とでもなる。
問題は当事者だ。
おそらく、生まれて初めての非行に身を置いているであろう心炉は、目に見えて狼狽えて、自分を見失っていた。
「受験前の大事な時期に謹慎とかなったら!? 内申に響いたら!? ああ、星さん、もしもの時は生涯かけて償いますので! てか、いっそウチで養いますので!!」
「いや……そんなにビビるなら、なんであんなことしたのさ」
喚き散らしていた心炉は、はっと息を飲んで、それからバツが悪そうに唇を尖らせる。
「あのまま放って置いたら、潰れてしまいそうだったので」
「……そんなヤバかった、私?」
心炉は無言で頷く。
私は寂れたシャッター街を流し見ながら、観念したように息を吐く。
「とりあえず、駅探そっか」
「はい……あっ、でも私、お金が」
「払うよ。五千円も出させたんだし」
「コンビニとかあればおろせるんですけど」
「あ、コンビニは無いけど神社はある」
「ちょっと、駅探すんじゃないんですか?」
「どうせサボるなら、もう何してもいいかなって」
「それじゃあ、ホントに不良みたい……」
「ホントの不良なら、もっとすごいことしてるよ」
もっとすごいことが何なのかは知らないけど。
とりあえずランドマーク的に見つけた神社へと滑り込む。
神社を見つけたらとりあえずお参りをしとこうって思うのは、日本人のDNAに刷り込まれた性のような気がする。
そこに誰が祀られてるとか、ご利益は何かなんてのは、案外二の次だ。
「おみくじも引いてく?」
「他人のお金で引くおみくじは、ご利益無さそうなのでやめときます」
「そう?」
「それより早く駅を……あっ、絵馬」
心炉の視線が、傍らにあった絵馬掛けで止まった。
「絵馬書く?」
「だから、他人のお金で書いても……」
「すみません。絵馬ください」
なんかじれったいので、社務所に行って問答無用で白紙の絵馬を購入する。
「人の話聞いてます?」
「人の話聞かずにタクシーに押し込んだ人が良く言う」
神主さんらしき人が絵馬と一緒にマジックペンを一本貸してくれた。
それを見て、心炉はぱちくりと目を丸くする。
「あ、なんだ。ご自分の分だけですか」
「流石に突然の出費としては、絵馬は地味に高いから、こうしようかなって」
私はその場で、白紙の板の真ん中に、マジックペンで一本の縦線を引く。
ちょうど、願い事を書くスペースが真ん中で区切れるように。
「ご利益半分。これならいいでしょ?」
「何が〝いいでしょ〟なのか分からないんですが」
心炉のお小言は無視して、私はさらさらと自分のスペースにペンを走らせる。
どれだけお小言を言われたって、私の財布が無ければ帰れないんだ。
つまり主導権は私。
この状況、なんだか知らないけどすこぶる気分が良い。
札束で頬を叩くって、こういう気持ちなのかな。
「大学合格……っと。はい、あと好きにしていいよ」
「大雑把すぎませんか」
盛大にため息を吐きながらも、心炉は言われるがまま絵馬を受け取って、ペンを握る。
ただ、なかなか願い事は書かずに、白紙のスペースをじっと見つめたまま動かなくなってしまった。
「思いつかないなら、同じで良いんじゃない?」
「あ……いえ、そう言うわけじゃなくって」
心炉は、構えを解くように一端楽にして、ふと頭上を見上げる。
「七夕、あったじゃないですか」
「この間もそんな話したね」
「実は私、あの時、お願い事書けなかったんです」
「へぇ……そうなんだ?」
「実際には、書くことは書いたんですけど、さげる勇気がなくって」
「恥ずかしい、の間違いじゃなく?」
「う……それもあります」
心炉は口惜しそうに顔をゆがめて、それからもう一度、絵馬に向き直る。
今度はためらうことなく、さらさらとペンを走らせていった。
――右の人と同じ大学に合格します。
「七夕の想い出が非常に悔しかったので、ここでリベンジしました」
彼女に突き付けられた絵馬を、思わずじっと見つめてしまう。
「お願い事じゃなくて、宣言になってるけど」
「絵馬って、お願い事じゃなくて宣誓を書くものなんですよ」
そうなんだ、知らなかった。
まあ〝大学合格〟も宣言みたいな感じだし、間違いではないよね。
「お願い事半分って言ったけど、同じ願いだから合わせて一個にならないかな」
「それ、どっちかしか合格しないことになりません?」
「五千円も払って来たんだし、許してくれるって」
くだらない軽口を叩きながら、絵馬掛けに絵馬をかける。
なんとなく、書いた文字が見えるようにかけてしまうのは、無意識に目に焼き付けようとしていたからなのかもしれない。
大学合格。
そうだ。
その一本道だけは、私の中でずっと変わっていない。
「星さんは、いつも何でもひとりで抱えますよね」
「そうかな? 最近は、割とみんなを頼ってる……っていうか、使ってるって言っていいレベルだけど」
「それでも、本当に大事なところは全部自分の胸の内じゃないですか。須和さんのことだって、宍戸さんのことだって」
「それはごめん」
「謝らないでください。そんなの、生徒会に居た時から分かり切ってたことですから」
そうかな。
これでも、学校史いちやる気のない生徒会長と自負してるんだけどな。
「私、もう頼ってくれとは言いません。言うだけ無駄だと分かったので」
「無駄て」
「だから勝手にアドバイスします」
そう言って、心炉は真っすぐに私の目を見つめる。
「他人の未来まで背負おうとしなくていいんです。その人の未来なんですから、その人の好きなように任せるべきです」
「それは、そうだけど」
でも、気づいてしまったら気にかかるじゃないか。
知ってしまったら、助けたくなるじゃないか。
「ハッキリ言います。星さんにできることなんてありません。権力があるわけでも、お金があるわけでもない。誰かの未来を背負う力なんて、あなたにはない。だって、ただの高校生なんですから」
ずん、とみぞおちの辺りを力強く殴られたような気分だった。
「女子高生に何を期待してるんですか。周りだってみんなそう。できないこと、うまくいかないことばかりです。今、完璧である必要はないんです。まだ、成長途中なんです」
心炉の言葉が、するすると自分の中に入って来る。
ただの女子高生。
それ以上でも、それ以下でもない、成長途中のガキんちょ。
「それでも、後悔したくない」
「そんなの、自己満足の範疇でしょう。後悔の軸は他人じゃない。自分です。生徒会長になれなかった。七夕に勇気を出せなかった。それは私の、自己満足に至らなかっただけの悔しさです」
「それでも――」
「それでも後悔したくないというなら、できることを精一杯やってください。あなたにしかできないことで、状況をひっくり返してみせてください」
自分にしかできないことで、ひっくり返す……ものすごくアバウトな助言のはずなのに、なんだか妙に腑に落ちた。
というより、しっくりくる。
何か、できることがある。
そんな気がする。
いや、心炉が言うから、納得しかけている自分がいる。
でも、私にできることって……そもそも私は、この三年間で何を培うことができたんだろう?
勉強――は、まあそこそこ。
部活――は、幽霊部員。
あれ……私の青春、浅すぎ?
あとはせいぜい、生徒会であくせく働いたくらいしか――
「……生徒会か」
ふと思い至って、トークアプリを開く。
そのまま気持ちが急いて通話ボタンを押そうとしたのを、ギリギリのところで踏みとどまった。
いけない。
私たちは今、学校をサボっていて、あっちは授業中なんだ。
代わりに、チャット画面に指を走らせた。
――明日の年忘れ会。私たちに五分くれる?
送り先は銀条さんだ。
「できること、見つかりました?」
心炉が穏やかに笑う。
私は精一杯のしたり顔を浮かべて、ふんと鼻を鳴らしてやった。
「たぶん。ただ、働いてもらうよ副会長」
そう言って、指先が真っ赤になった拳を突き出すと、彼女も同じように拳を合わせてくれる。
「元、ですけどね」
ひやりと触れた彼女の拳、指の一本一本の中に、ほんのわずかだけれど熱を感じたような気がした。
「てか、寒すぎ……この辺も確か温泉街だよね。お風呂入ってく?」
「それ、本気で言ってます?」
「どうせサボりなんだし。今、風邪ひく方がよっぽど迷惑だし」
「それは何も言い返せない……」
心炉はまた悔しそうにしながらも、でもどこかワクワクした様子で息を弾ませていた。
こんな大っぴらにサボるのは私も初めてだけど、ふたりっていうのが、持ったよりも心強かった。
願い――もとい宣言が叶って、同じ大学に通う。
そうなったら頼もしいなと思う一方で、単純に近い未来の姿を楽しみにする自分がいた。