「はぁっ!はぁっ!今度こそ…や、やった…よね?」
人狼化が解け、息を切らせた狛がその場にへたり込むと、泣いていた子どもが後ろから抱き着いた。よほど怖かったのか、耳元で再び泣いている。狛は力が入らずに震える手で抱き締め返し、ゆっくりとその頭を撫でてやった。
その様子を、黒い狼がお座りをしてじっと見つめている。大きさからして普通の狼とは思えないが、一体何者なのか、狛には気にしている余裕など無いようだ。
そんな中、大勢の鴉天狗が倒れた白眉の元へ一斉に集まりだした。猫田はすぐにそれを追って狛の元へ駆け付け、天狗達に睨みを利かせている。
「狛っ!無事か?!」
「あ、猫田さん、うん。あの
「解ってる、後は任せろ。全員叩きのめしてやるぜ!」
猫田が飛び掛かろうとしたその時、突如空に黒雲が立ち込めて、落雷が鴉天狗達を撃った。そうして、天狗達の身体から大量の黒い靄が一気に抜けていく。次々と起こる不可思議な出来事に、狛達は呆気に取られるばかりだ。しかし、その後に続いて聞こえた声に、猫田だけは反応していた。
「双方、そこまで。後は儂が預かろう」
「この、声は…!」
黒雲は一塊になって、やがて一人の男性の姿に変わっていった。やがて現れたその姿は、恰幅のいい侍のような出で立ちをした、年配の男となった。それが只者でない事は、狛にも、その傍にいる子どもでさえも理解できているようだ。言葉を失い、震える身体を狛はぎゅっと抱き締めている。
「……久し振りだな、猫又よ。かような場所で会おうとは思わなんだぞ。お前の事は相変わらず、神野の奴めが気に入っておるようだが」
不敵な笑みを浮かべて現れた男が声をかけると、いつの間にか猫田の隣に、狛の知らない別の男が立っていた。黒地に金の意匠を施した着物を着流し、髪型はオールバックという若い男…そう、神野悪五郎である。
「よう、猫助……邪魔するぜ。おい、
神野が
思えばこの二人、猫田が初めて会った時もそうだった。
当時、猫田は
元々、
多くの人員を失ったとはいえ、あの大蛇を撃退した彼らの力は凄まじい。新時代を迎え、大蛇がいなくなったとしても、妖怪そのものがいなくなったわけではない。世に不可思議の種が尽きたわけではないのだから当然だ、故に彼らの力は治安維持の為に喉から手が出るほど欲しかったのだろう。そこで、政府は生き残った隊員達に対して、非情な提案を持ち掛けた。八岐大蛇討伐という世間を騒がした大騒動の始末という名目で、新たな治安維持部隊への参加を強要したのである。しかも、それに伴って最初に命じられたのが、猫田吉光の抹殺であった。
妖怪という存在を公式には認めていない政府ではあったが、実際に力を持つ生物がいる事は認識していた。その上、猫田は大蛇戦でも活躍をみせたほどの力を持っているのだ。つまり、猫田は危険極まりない猛獣のようなものと認識されたらしい。当然、この命令には猫田を除く全員が猛反発をした。当の猫田本人にしてみれば、人間が自分という存在を警戒する理由も理解できたし、なにより大蛇と戦いおおっぴらに人間の側へと着いた彼に、もはや妖怪の世界で生きる場所はなくなったも同然だ。そんな自分の命で皆の命や生活が保障されるなら、それでもいいと本気でそう思っていたのである。
しかし、この提案に大反対したのは、他ならぬ明治天皇その人であった。
代々、宮家に伝わる秘史として残されてきた八岐大蛇復活の伝承…それを回避する為に、
その内の一つは、希望する者に今後再編の予定がある宮内省への編入を認める案だ。明治2年に創られた宮内省は、古代日本に於いて宮廷の庶務を引き受ける役所であったのだが、その分、宮家の意向が通りやすい部署でもある。これを受ければ政府の要望通り、立場としては政府職員となるものの、新設の治安維持部隊などよりは遥かに自由である。だが、その待遇についても難色を示す者達がいた。
そこで提示されたもう一つは、
余談だがこの案には、壬申戸籍制度に伴う新しい身分と共に、永続的な生活支援が確約されていたのだが、それが通った背景には忍びである景蔵の政府に対する暗躍があったとも言われている。
ちなみに、前者を選んだのは
後者を選んだ6人の内、宗吾は実家である犬神家を継ぐ必要があった為に早々と帰郷し、
そうして、行き場の無い猫田と京介はバラバラに去って行くことになるのだが、この時最後に残った京介に対し、政府から猫田暗殺の密命が下されていた。ただし、京介は適当に暴れていた妖怪を退治すると、それを猫田と偽って政府に報告していた。というのも、政府が猫田暗殺を諦めていない事は明白で、猫田と同じ班員だった宗吾や
そういった経緯があって、猫田は今も仲間達に命を救われたと恩義を感じているのである。一歩間違えば、政府を敵に回すこととなり、この国で生きていく道を失ってしまうだろう、そんな危険を省みずに皆が行動してくれた…猫にはそれが何よりも嬉しかった。
とはいえ、腐る気持ちが全く無かったわけでもない。特に力や名の有る妖怪達に対しては、怒りも大きかったのだ。そこへ現れたのが、
あの時は猫田も今より若かったので、突然現れて魔王を名乗る二人に対し、ずいぶんと喧嘩腰であった。その結果、神野と大立ち回りをすることになったのだが……今の猫田はその時の後悔を忘れていない。出来るだけ感情を抑えて、睨み合う二人に声をかけた。
「……おい、あんたらの喧嘩は余所でやってくれ。今はそれどころじゃねーんだ」
「ちっ…!だとよ、ジジイ。この場は大人しく引いてくれや」
「そうはいかぬ、これでも天狗共は儂の眷属なのでな。こやつらのしでかしたことは、儂が尻を拭う必要があるだろう。お前の方こそ関係ないのだ、すっこんでおれ、神野」
「…んだと!?このジジイ!」
「止めろっつってんだろーが!!」
いつもの調子で喧嘩が始まりそうになり、思わず猫田も声を荒げていた。実際は猫田も二人に負けず劣らずそこそこ短気な所がある。疲れ切っていた狛は、もう3人で勝手に話を着けて来てくれないかなぁと内心で溜息を吐くのであった。