少し時間を遡った頃、猫田は……
「うおおおおおっっ!!!!」
狛以上に吹き飛ばされ、中津洲市の端にある小さな地区にまで移動していた。
「にゃろっ…!この……な、めんなぁっ!!」
身体に纏わりつく風を、空中だが猫特有の柔軟さで身体を捻じって外そうとする。そして何度目かのもがきが成功すると、猫田の身体から邪魔な風の勢いが抜けた。よく目を凝らしてみると、その風の中心には神気で作られた核があり、それが猫田と狛を引き離そうとしていたようだった。
「野郎…!消えろっ!」
猫田は魂炎玉の炎でその神気の核を焼き、消滅させた。これで妙な妨害はなくなるはずである。それにしても、いつの間に猫田や狛を狙っていたのだろうか。神というものは、力に制約がかかる分、戦闘能力では妖怪に一歩劣る者も多いが、逆に常識外な手段を豊富に持っている。未来予知や予測だけでなく、千里眼のような力や、同時に複数の事を行うマルチタスク能力などは、基本的に神の得意分野だ。
志多羅という神の力はまだ未知数だが、どこか別の場所で何かを画策しつつ、こうした妨害を行う事は容易いだろう。こういった部分が、神の恐ろしさだと言える。
「クソ、ここはどこだ?……ずいぶん遠くまで飛ばされちまったな」
そうは言っても、まだ中津洲市内である。猫田が本気を出せば、数分とかからず狛の元に戻れるだろう。しかし、それを見越していたかのように助けを求める声が、猫田の耳に届いた。
「キャーーーッ!?だ、誰かっ、誰か助けてっ!」
「なんだ?子ども……と、猫だと?ん、アイツは…」
視界に入ったのは、小学校高学年ほどの子どもと、その腕に抱えられた猫である。子どもの方には見覚えがないが、抱えられた猫には覚えがあった。猫田はこの中津洲市内の猫達のボスとして、街の猫達を統率することもしているのだが、そんな彼らをまとめて行う集会がある。目に入った猫は、その集会に頻繁に参加しては、隅の方で黙って聞いている大人しい猫であった。
(確か、飼い主が病気で臥せってばかリだとか言ってたが、あの子どもがそうか?よく見りゃあんまり色艶のよくねぇ顔色してやがるが……)
上空から見下ろす猫田の目には、猫を抱いて必死に助けを求める少女の姿と、その少女に近づく奇妙な怪物の姿があった。狛やメイリー達を始めとして、人々を襲う怪物はこの辺りにもいたのだ。よくよく周囲を見てみれば、既に襲われて犠牲となった人が数人倒れているのも目に留まった。
「ちぃっ!狛を助けに行かなきゃなんねーってのに……仕方ねぇ、猫抱いた子どもを見殺しになんか出来ねーよな!」
猫田は一気に急降下して、少女を狙う怪物達の真上から飛び掛かった。と言っても、途中で人型に変化し、少女に見られてもいいように気を遣っているのだが。
ドゴン!という轟音と共に怪物の頭を踏み潰した猫田は、他にも迫っていた二体の怪物に向かって炎を放った。少女の手前、尾を伸ばして魂炎玉を使う訳にはいかないのでこっそり手から炎を出して燃やしている。後はライターでもなんでも、適当に嘘をつけば誤魔化せるだろう。
あっという間に怪物三体を仕留めた猫田は、ふうと息を吐いて振り返る。少女は突然現れた猫田に警戒しているのか、猫を抱く腕にぎゅっと力が入っているようだった。
「……無事か?安心しろ、俺は敵じゃねぇ。そいつ…ネネの友達みてーなもんだ」
「え…な、何言ってるの?ネネって、猫が友達……?」
流石に小学校高学年ともなると、猫田の無茶な説明を鵜呑みにはしてくれない。しかし、現実に猫のネネとは仲間なので、猫田はそれ以上説明のしようがなかった。せめて狛がいてくれればと思いながらネネに視線を向けると、ネネはその人間がボスである猫田だと気付いたようで、にゃあんと少し甘えたような声で感謝を伝えてくれた。
「ネネ…?ホントにこのお兄さんのこと知ってるの?ゴホッゴホッ…う、胸が……」
「おい、大丈夫か?なんでとこをうろうろしてたんだ。早く家に帰った方がいいんじゃねーか?」
猫田が少女の背中をさすりながらそう言うと、少女は咽た呼吸を整えてから、ゆっくりと答える。
「わ、私…が、病院から帰ってきたら、ネネが、家にいなくて……探してたら、さっきのキモチ悪いのに追いかけられて…」
「ネネ、お前……」
猫田の視線の先で、ネネが悲しそうな表情を浮かべている。実を言うと、ネネが出かけていた先の事を、猫田は知っている。ネネは猫でありながら、飼い主である少女の病気治療を願って、こっそり近くの神社を廻っていたのだ。以前の集会で、一人ポツンとしていたネネに、猫田が話を聞いてそれを知ったのである。
今回はたまたま、それと騒動が重なってしまったということだろう。誰も悪くはないことだが、巡り合わせの悪さというものは往々にしてあることだ。
「しかし、アイツら一体何者なんだったんだ……?見た事もねぇ連中だが」
猫田は先程倒した怪物達の死体に目をやってボソリと呟いた。明らかに異質な妖気を放っていたが、こんな妖怪は見た事がない。まるで、人間を限界まで歪めて作り替えたような、歪な怪物だった。そこで、猫田は驚くべき事に気付く、燃え尽きて灰になった怪物達はともかく頭を踏み潰してやったはずの怪物の身体が、微かに活動を再開し始めていることに。
「……よし、しょうがねぇ。家まで送って行ってやるよ。どっちだ?」
猫田は少女に気付かれないよう、自然に視界を隠して片手でヒョイと抱き上げた。少女の身体が弱いのは確かだろうから、倒したと思っている怪物がまだ生きていることを知れば、余計なショックを与えることになる。それを避ける為だ。
一方、少女は突然抱き上げられた事に驚き、もがいて抵抗しようとしている。それはそうだろう、訳も分からず出会ったばかりの大人の男性に抱き抱えられたら、恐怖でしかない。
「ちょ、止めて!離してっ……ゴホッ、うう…」
「落ち着け、暴れんなって!体に障るだろうが。安心しろ、家まで送ってやるだけだ。このままどっかで野垂れ死にでもされたら寝覚めが悪いからな。で、家はどっちだ?」
猫田はさり気なく体の向きを変え、移動を始める。これで怪物がまだ生きていて動き始めていることには気付かれないはずだ。少女はそんな猫田の思惑通りに、怪物には注意を払わず自宅の方向を指差していた。
「あ、あ…っち、うぅ、ケホッ……」
「あっちだな?よし、少し走るぞ。しっかり掴まってろ」
猫田はちらりと怪物の方を横目で見て、まだ本格的に動き出していないことを確認してから走り出す。そう素早い怪物ではなさそうだが、いつまでもついてこられるのも面倒だ。少女達を送り届けたら、トドメを刺しに来よう。そう決めて、その場を後にする。
少女を抱えながらも軽快に走る猫田の様子に、少女は徐々に警戒を解き始めていた。今は頼れる相手が猫田だけだと、本能的に察しているのかもしれない。
「そういや、ネネが一匹で出かけるのはいつものことだろ?何で今日に限って探し回ってたんだ?」
「……今日だけは、家に一人でいるの嫌だったから。お母さんは仕事でいないし…」
「おっかさんは働いてんのか。お前は身体が弱いんだろ?大変だなぁ。親父はどうした?仕事か?」
何の気なしに呟いた猫田の言葉で、少女は涙ぐみポロポロと涙をこぼし始めてしまった。猫田は慌てて立ち止まり、少女の顔を覗き込む。
「お、おいどうした!?どっか痛ぇのか?苦しいのか?」
「ち、ちが……ぐす、お父さん…は、去年の、ちょうど、今日……ぐすっ、し、死んじゃ…って…うう、ああああ…!」
「そうだったのか……すまねぇ。そりゃ、そんな日に一人にゃなりたくねぇよな」
猫田は少女を優しく両手で抱え直し、背中を撫でてやった。少女の涙を、ネネが懸命に舐めとっている。こういう時、妖怪である自分は無力で、何もしてやれないことが悔しいと猫田は常々考えるのだ。自分が人間だったなら、もっと気休めの言葉をかけてやれるだろうし、気持ちの上でも寄り添ってやれるはずだと、そう感じている。実際は、猫田は十分、人に寄り添える存在なのだが、本人は気付いていないようだ。
しばらくそうしていると、徐々に遠くから人の悲鳴や騒音が大きく聞こえてくるのが解った。さっきと同じ怪物が市内のあちこちで暴れているのだ。
「ちっ、マズいな。この感じは……」
「お母、さん……」
少女の耳にも、騒動が聞こえたのだろう。市内で働く母親の身を案じたその手が、きゅっと猫田に捕まる力を強めていた。猫田は少女の様子に胸の中で狛に詫びた。
「お前、名前はなんてんだ?」
「え?こ、
「葵か、気が変わったぜ。お前のおっかさんを探しに行くぞ、その方がお前も安心だろ?」
「い、いいの……?」
「俺は猫好きを放っとけねーんだよ。…なぁ?ネネ」
猫田に返事をするように、にゃんと小さくネネが泣いた。それがおかしかったのか、涙を流していた葵にほんの少しだけ笑顔が戻る。そして、猫田は胸の内で狛へ謝罪の言葉を投げ掛けた。
(狛、すまねぇ。俺が行くまで無事でいろよ…!)
変色しきった太陽は既に沈み、辺りは闇に包まれようとしている。日本全体を暗黒へ飲み込もうという志多羅の目論見は、刻一刻とその成就の時が迫りつつあるのだった。