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第370話 猫の導き

「はぁっ…!はぁっ…!」


 時折振り返りながら、まだ三十代初めと思しき女性が息を切らせて必死に走っている。 一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう?


 その女性、小鮎真波こあゆまなみは、いつも通りに仕事を終えて職場から帰宅する所だった。身体の弱い一人娘の為に、急いで帰って食事の支度をしなければならない。頼りになるはずの夫は、昨年、交通事故によって帰らぬ人となってしまった。それがちょうど、今日と同じ日付である。


 父親を失って泣く娘を宥めながらこの一年を過ごしてきたが、泣きたいのは自分も同じだった。何せ、人生で最も愛した男性を失ったのだ、その喪失感は凄まじかった。そんな自分と娘を慰めてくれたのは、愛猫であるネネの存在だ。飼い主バカと言われるかもしれないが、ネネは普通の猫とは思えないほど賢く、娘や自分のことを大事にしてくれたと思う。子猫の時に拾ってからまだ半年余りで、まだ自分も思いきり遊んでいたい年頃だろうに、悪戯らしい悪戯もしない。そして、娘と自分のどちらかが泣いていると、必ず傍に寄ってきて身体を擦り付けてくるのだ。その時は決まって、犬のように涙をペロペロと舐めて落ち着くまで一緒にいてくれる。その間は、何があっても決して離れようとしなかった。


(あの子達が居てくれるから、私は頑張れる……こんな所で、訳も分からず死ぬなんて、絶対にダメ!)




 数十分前、真波が勤めている会社を出てすぐに、その異変に気付いた。家路を急ぐ人達でごった返すオフィス街の大通りで、誰かが大声で叫んでいる。それは悲鳴だ、絹を裂くような女性の悲鳴と、事態をどうにかしようと向かって行く男性達の声がその場にいる人々全ての耳に届いていた。


 見た事もない姿をした、奇怪な生き物が人を襲っている。漏れ伝えて来る情報を聞いた時、真波はそれを一笑に付した。まだ暑いこの時期だ、もしかすると暑さで幻覚を見た人でもいたのかもしれない…その程度の認識しか、真波の頭にはなかったようだ。しかし、そこで状況は一変する。

 まず、どんよりとした雲が瞬く間に空を覆った。続けて、異常の元へ向かって行ったと思しき男性達が、次々に悲鳴を上げていく。多くの人達が騒ぎを聞きつけて足を止め、騒動の中心を囲んでいるので、身動きが取れない。やがて、誰かが空の異常を見つけて叫んだ。


「おい、見ろ!太陽が……!?」


(え…?)


 空を見上げれば、そこにあったのはとても夕焼けとは言えない奇妙な色合いをした太陽であった。それを見た時、胸の奥が捻じれて潰されてしまうような強い不安と圧迫感に襲われ、次第に周囲もその色合いに染まっていく……そして、怪物はいつの間にか数を増やし、とても素早く、そして獰猛に人々を襲い始めたのだ。


 そこから先は、まさに阿鼻叫喚の様相であった。いくら心霊現象が頻発し、人々の意識が変わりつつあると言っても、目の前に人を襲う怪物が現れれば人はパニックになるものだ。ましてや、怪物は不死身である。途中で数名の警察官が現場に訪れ、怪物を鎮圧しようと銃を撃っても怪物達は怯まず、また死ぬこともない。

 恐怖と混乱が更にパニックを呼び、いつしかオフィス街は、死体とそこから逃げようとする人々の坩堝と化していったのだった。




「はぁっ、早く、逃げなきゃ…!はぁはぁ」


 そして現在、真波は怪物達の一匹から必死に逃走を続けていた。何の因果か彼女は大勢の人々の波にのまれ、僅かに逃げ遅れてしまったのだが、そんな彼女を怪物の内の一匹が狙いを定めて執拗に追いかけてきているのである。社会人特有の運動不足が祟って、足は棒のように硬くなり、息も上がり切っている。それでも足を止めないのは、一度止まってしまったら、もうしばらくは動けなくなるだろうと、本能的に察しているからに他ならない。だが、人には限界がある。例え精神が肉体の限界を上回っても、その力が尽きる時は必ず訪れるのだ。


「ああっ!?」


 もつれた足に引っ掛かり、真波はその場に転び、倒れてしまった。追いかけて来ていた怪物は息を切らす事もなく、悠々と彼女に近づいている。恐らく弄んでいるのだ、自分の獲物と定めた真波が、懸命に逃げようとする姿を楽しんでいる…そんな雰囲気だった。


「ふぅっふぅっ…!はっ、も、もうダメ……!」


 ここまで十数分以上、全力で走ってきた彼女には、もはや立ち上がって逃げる力は残されていなかった。迫る怪物へのせめてもの抵抗に、倒れた状態から身体を丸め、防御の姿勢を取る。そうして怪物が間近に立ったその時、彼女の耳元でその名を呼ぶ声が聞こえた。


『真波っ!』


(え?…この声……あなた?)


「させるかよっ!!」


 その声に反応して顔を上げたのと、誰かが突風のように飛び込んできて怪物を蹴り飛ばしたのは全くの同時だった。怪物はあっという間に数十メートル軽く吹き飛び、建物の壁に激突して潰れている。何が起きたのか解らないまま、呆然とする彼女に向けて、愛する娘の声が降り注いだ。


「ママ!」


「あ、葵!?どうしてここに……それに、あなたは一体…」


「おう、おっかさん間一髪だったな。呼ばれて来てみりゃ、ドンピシャだったぜ。……そうか、アンタ命日だったな。大したもんだよ、ネネもアンタも」


「め、命日って、私じゃ……え?」


 娘である葵を抱えた若い男……猫田は、真波ではなく別の何かに視線を向けて話しかけているようだった。そのまま真波が視線を横に滑らせると、懐かしい姿の男性が、猫田に深く頭を下げてお辞儀をしている。


「あ、あなたっ!?」


 真波がそう叫ぶと、男はうっすらと透き通った顔をこちらに向けてニッコリと笑い、そして消えた。夢にまで見た愛する夫の笑顔が心に焼き付いて、真波はいつの間にか、大粒の涙を流している。猫田は葵を腕から降ろし、二人に優しく声をかけた。


「アンタの旦那は、あの世からわざわざ戻ってきたらしい。じゃねーのにあっちから魂が現世に戻るってのは、相当な苦痛を伴うもんなんだが……よっぽどアンタと葵が大事だったんだろうな。それと、呼んだのはこのネネさ。コイツ、市内の神社に参っちゃあアンタと葵のことを助けてくれって祈願してたんだぜ。まぁ、教えたのは俺だけどよ」


「そ…そんな…ありがとう、ネネ、葵…それに、あなた……!」


「…にゃあ」


 ネネはむず痒そうに葵と真波の腕の中で一鳴きしてみせた。これまで、ネネは病気の葵を治すにはどうしたらいいのかと猫田に何度か相談していたのだが、流石に病気の治し方など猫田には解らないので、神頼みするしかないとアドバイスをしていた。その願いが届いたようだった。


(ネネの奴、たぶん、素質があるんだよな。コイツなら、その内猫又に成れるかもしれねぇな)


 猫田は胸の中でそう呟いていた。昔から猫が十年生きれば猫又になると言われているが、厳密に言えば、ただ猫が長生きをすれば変化するというものではない。魂そのものに妖の素養…素質が無ければ、簡単に変化することはないのだ。猫田の場合も同じで、元々霊的な素質を持っていたからこそ、強い怨みを持って化け猫へと変わったのである。

 だからと言って、ネネが恨みから化け猫に転ずることなど、猫田は望んでいない。自分がそうだった化け猫そのものを否定はしないが、やはりそうなるだけの強い悲しみと憎しみは出来れば味わって欲しくないのだ。きちんと猫としての生を全うし、その中で妖として目覚めたなら、そうなるのが一番いいと猫田はそう考えている。


 しばらくして、気分が落ち着いた真波と葵は改めて猫田に頭を下げて礼を伝えた。正直に言って、事態に感情や思考が追い付いていない所だが、現実に猫田が危機から救ってくれたのは明らかなのだ。


「本当に、危ない所をありがとうございました。ほら、葵もお礼をいいなさい」


「お兄さん、ありがとう」


「お、おう。別に大したことじゃねーよ、そういうのはネネに言ってやってくれ。そいつがいなきゃ、助けてたか解らねぇし」


 そう言ってそっぽを向いて頭を搔く猫田だが、きっとネネが居なくても葵を見捨てられはしなかっただろう。それが猫田という猫又の性質である。


(しかし、コイツらをどうするかだな。ここで放っぽりだすのはまずいだろうし…かといって、安全な場所ってのもな)


 くりぃちゃぁが無事であれば、二人と一匹を連れて行く所だが、今のくりぃちゃぁは弱った妖怪達が身を潜めているだけで、とても安全とは言えない場所である。ただの人間を連れて行けばどういう事になるかも解らない。となれば、猫田に思い当たる場所は一つしかない。


(やっぱ桔梗のとこしかねーよな。もしかしたら、狛の奴も戻ってるかもしれねぇし……よし、そうするか)


 黙ってしまった猫田の様子に、二人は緊張しながら立ち尽くしている。ただ一匹、ネネだけは猫田に懐いているように前足を伸ばしたり鳴いて呼びかけたりしているようだった。


「解ってるよ、ネネ。このまま放りだしたりしねぇさ。…完璧に安全とは言えねぇが、ひとまず身を隠せそうな所に心当たりがある。アンタらをそこまでは連れてってやれるが、それでいいか?」


「え?あ、はい。助けて頂いただけでもありがたいですし、安全そうな場所なら、尚更…」


(この人、ネネと会話をしてるみたい……そんなこと、あるわけないのに)


 真波はまだ少しだけ、猫田の事が信用出来ていないようだ。それはそうだろう、いくら助けてくれたとはいえ、猫と喋る男は不気味が過ぎるというものだ。とはいえ、他に頼れる相手はいないので、信じるしかないのだが。

 こうして、猫田は二人と一匹を連れて、神子神社へ向かう事になった。だがそこに、狛はいない……

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