「こ、狛……」
怪物の血に塗れ肩で息をする狛のその姿に、一同は息を飲んだ。しかも、その頭には人の物ではない狼の耳と、二つの大きな尻尾が生えている。狛が退魔士であり、人狼化する術を持っていることを知らぬクラスメイト達には、非常に衝撃的な姿であるようだった。
「あ……神奈ちゃん、メイリーちゃん。それに、皆も」
立ち昇る蒼白い霊力は、先程よりも弱まっている。怒りに任せて志多羅を倒した事で、大量の霊力を消耗してしまったからだ。それもまた、志多羅の策略の一つである。狛が力無く笑みを浮かべたまま全員の方へ向き直り、一歩近づこうと踏み出した時、誰ともなく小さな悲鳴を上げた者がいた。
それを皮切りにして、恐怖と動揺の波はその場にいた全員を飲み込むように一気に広がっていく。そして、この異常な状況によって追い詰められていた誰かが声を上げた。
「く、来るなっ!化け物!」
「え……?」
それが自分に投げ掛けられた言葉だと、狛は予想もしていなかった。しかし、考えてみれば仕方のないことだろう。誰がどう見ても、動物の耳と尾をもって怪物を一撃で葬る存在が人間だとは思えないはずだ。ましてや、彼らの大半は未成年の高校生であり、大人のように理性的な反応など出来るとは限らない。加えて、怪物によって追い立てられてきた恐怖と怒り、憎しみが彼らの感情を煽ってしまったのだ。
「そ、そうだ!寄るな、化け物!」
「前からおかしいと思ってたんだ!あの食事の量といい、元から人間じゃなかったんだろ!」
「なっ!?お、お前達!?」
「ち、ちょっとミンナ!?何言ってるの?!ヤメテよ!」
神奈とメイリーが慌てて火消しをしようとするが、十数人以上に火が着いた以上、騒動はそう簡単には治まりそうにない。むしろ、二人の介入は余計に火に油を注ぐ結果にしかなっていないようだった。
「うるさい!
「そうだそうだ!きっと、俺達を騙して食っちまうつもりだったに違いない!」
「テメェら……!黙って聞いてりゃ…っ!」
「猫田さん、ダメ!止めてっ!」
猫田が怒りを見せようとした時、狛が制止するように声を上げた。我も我もと叫ぶ彼らに、二人の声は届いていない。喧騒は大きくなる一方で、小鮎親子の娘、葵は飼い猫のネネを抱いたまま、涙を溢れさせている。それを見てしまった猫田には、怒りを抑えるしかなかった。
「ククク…そうだ。そいつがお前達を巻き込んだのだ、なぁ、犬神の娘よ」
「!?」
その声は、再び空からやってきた。先程狛が倒したはずの芋虫状の怪物が、今度は二匹、T字路の二方向を塞ぐように落ちてくる。それによって、クラスメイト達は完全にパニックを引き起こし、身動きが封じられてしまった。
「あ、あなた…っ!」
「クハハハッ!これは分け身だと言っただろう?一体や二体倒した所で、意味など無いわ!人間共よ、よく聞け!この犬神の祖先が我らが母を封じたのだ!我らはそれを解き放とうとしているだけ!恨むならば、この女を恨むのだな!ハハハハハッ!」
「テメェっ!!」
その挑発に耐えきれず、猫田が本来の姿に立ち戻り、志多羅へ食らいついた。それまでホスト風の男性だった猫田が巨大な猫の姿に変わったことで、クラスメイト達は更に恐れをなし、より混乱の度合いを深めていく。そして狛も、その胸の澱みを断ち切るかのようにもう一匹の志多羅へと立ち向かう。
「どうした?戦う姿を見せていいのか?貴様が化け物だと、わざわざ証明するつもりか」
「うるさい、黙ってっ!あなたなんかに…あなたなんかの手には乗らないっ!」
「フハハ!所詮、貴様ら犬神一族は古来からの嫌われ者よ!忌むべき血と
霊力を込めた狛の爪が、挑発する志多羅の身体を再び切り裂く。猫田の方もよほど怒りが溜まっていたのか、芋虫状の志多羅に噛みつき、獰猛に食い千切ってそれを仕留めていた。そんな二人の姿は、まさに羅刹のようである。
結局、志多羅は狛達を殺すのが目的ではなく、こうして狛達の絆にひびを入れるのが最大の目的だったのだろう。その証拠に、一方的な戦いは、まさに惨殺とも言える結果だった。
「はぁっ、はぁっ…!」
「ひぃっ!や、やっぱり化け物だ、アイツも、あのデカイ虎みたいなヤツも……こ、殺されるぞ!」
「おい!誰だ!?いい加減に…っ!」
「神奈ちゃん、いいの、もう。皆、…みんな、ごめん……っ」
狛は神奈を止めると、自分を見るクラスメイト達からの非難の視線に耐えかね、彼らの前から走り去った。ここで神奈とクラスメイト達が仲違いをしたら、取り返しのつかないことになる。それに犬神家と常世神の間に、深い因縁があった事も事実だ。狛本人に関わりはなくとも、その諍いの歴史が彼らを巻き込んだと言うのは、あながち間違いではない。
「ちっ!神奈、そいつらを桔梗の所へ連れてけ!俺が狛を追う!」
「ね、猫田さん。…すみません、お願い、します……!」
神奈の返事を待たず、疾風の如き速さで猫田は飛ぶように狛を追っていった。残された神奈やメイリー達は、沈痛な面持ちでその後ろ姿を見つめていた。
その頃、再び防衛省の敷地内にある
志多羅はこれまでにいくつもの分け身…即ち分身を日本中に配置して人々の不和を煽っていた。彼の狙いは何も狛達だけではない、最初に打った怪物達の解放はその為の布石だ。人は極限状態ともなればその精神は非常に脆くなる。狛のクラスメイト達がいい例だろう、彼らは決して仲が悪かったわけではなく、むしろ普段から友人として良好な関係を築いていたはずだ。しかし、突然怪物に襲われ生死の境を彷徨い追い詰められたことで、不信と諍いの種を自分達の中に呼び込んでしまった。これと同じような事が、日本中で起きているのである。
そうして、人が信じあう心を潰していくことで、人間が常世神にすがる思いの隙間を作る事が出来る。人間達の悲壮な死を積み重ねて、国の礎足る太陽と太陽の神を穢し、人と人の間に不和を生み出す事で、救いを求める心を沸かせることが出来るだろう。それこそが、人間が常世神を受け入れる下地となる。
何故なら常世神は単なる怪物ではなく、神だからだ。常世神が邪神であっても、人に求められ、望まれなければその力を発揮することは難しい。人の願いと、それを叶えようという心こそが常世神の本質である。そうして願いを叶えた相手の命と魂を取り込む、その最終的な目的の為に、常世神は人を求めるのだ。
「愚かな人間共だ。貴様らの求める永遠など本来あり得ないものだというのに、少し脅してやるだけで
志多羅は両手を広げ、その両手から大量の神気が流れ出す。それは八幡の神に加えられてから、今日までの約千年の間に集めた神の力そのものである。大口真神の施した封印を破り、常世神が存在する狭間の世界への扉を開く、その為に集めた力だ。そしてその手の中には煌めく小さな玉がある…それは大口真神が閉じ込められた宝玉だった。
「大口真神よ!貴様の命は我が母への大切な供物だ、今はまだ殺さぬ!我が手の中で指を咥えて見ているがいい。貴様が護ろうとした子孫の最期と、人類の終焉をな!」
志多羅の叫びに呼応するかの如く、漆黒の空に一筋の亀裂が生じた。稲妻のようにジグザグに走ったその亀裂は、やがて巨大な風のうねりを呼び込んで次第に大きく、円を描いていく。
その内にいくつもの雷鳴が鳴り響き、次元の狭間が巨大な口を開けると、その向こうから途轍もなく巨大な何かがゆっくりと這い出してくる。
――この時、遂に常世神が現世に舞い戻ったのだ。それは人類の滅亡を予感させる、恐ろしい負の想念を纏った神の降臨であった。