『私の一番大切なもの。それは、あなたよ……紘』
閑の素直な気持ち。
彼女にとっての一番大切なもの。それは俺だった。
俺が閑を大切に思うように、彼女もまた、俺のことを大切に思ってくれていた。
きっと、少し考えれば分かったことだったのに、俺はそうであってほしいと思う気持ちのあまり、そうでないという事実を突きつけられることを恐れた。だから、無意識にその選択肢を頭の中から除外していたのだ。
「俺も……」
ごくり、と生唾を飲み込む。
一度言葉を切って閑の顔を見ると、俺の言葉を待つようにじいっと俺を見ていた。次はあなたの番よとでも言いたげに、見つめてきている。
勝手な奴だ。
言いたいことを言って、あれだけ止めてきたのに今度はこちらの言葉を待っているのだから。
ふう、と息を吐く。
そして、不安と期待に満ちた揺れる閑の瞳を見た。
「俺も、お前のことが大切だ。閑のいない未来なんて、考えたくない」
「……」
「だから、これまでもずっと、何とかしようって頑張った。何とかしようと、みんなが幸せになる道を探し続けたんだ……」
気づけば声が詰まる。俺はそれに負けないように喉に力を入れて絞り出した。
そうだよ。
自分の気持ちに気づいたあの日から、いいや、助けようという気持ちはもっと前からあった。ずっと、ずっと何とかしようと足掻いてきたんだ。それなのに……。
「……うん」
「なのに、こんな結末ってないだろ」
悔しさのあまり、いつの間にかギリッと歯を食いしばっていた。
軽く握っていたはずの手に力が入っていて、その手に閑の手が触れることでようやく力が抜けた。
「ありがとう。私の為に、それだけ頑張ってくれて。その気持ちだけでも、本当に嬉しいわ」
せっかく思いが通じ合ったのに。
俺達の先に待つのは幸せな未来ではなくて。
それをいやというほど実感したからこそ、俺達の瞳はどうしようもなく濡れてしまい。
「涙、出てるわよ」
「お前もだろ」
指摘し合って、同時に笑い。
どうしようもなくこぼれる涙が止まらなかった。
どうにかしたい。
けれど、どうしようもない。
俺には彼女を助ける力がないのだ。
「ねえ」
眉をひそめ、必死に涙を止めようとする堪えるような顔をして閑が口を開く。
さっきと同じように彼女は俺の頬に手を添える。
「一つだけ、わがまま言っていい?」
まるで全てを諦めたように、あるいは、全てを受け入れたような、覚悟のこもった表情だった。これまでに見たことのない強さを帯びたその顔に、俺はこくりと頷く。
「一つと言わず、いくらでも聞いてやるぞ」
閑は俯き、小さく「ありがとう」と漏らし、再び顔を上げる。
「私に、あとどれだけ時間が残されているか分からないけれど、それまでの間……私のことを彼女にしてくれませんか?」
頬を赤く染め、瞳を濡らし、自然とこぼれたような笑みを浮かべ。
閑がそんな言葉を口にした。それに対する俺の答えなんて決まっている。
「もちろん。喜んで」
交差する視線。
呼吸の音が聞こえるほどに静まり返った部屋の中。
自然と高まる心臓の音。
届かない星に手を差し伸べるような、縋る表情の彼女。
気づけば、彼女の顔が少しずつ近づいていて。
二人の唇が重なっていた。
「ふうん。わたしがここで一人でいる間に、することしちゃったんだ」
想いが通じ合った安心からか、閑はあのあとすぐに眠ってしまって、俺は彼女に布団をかけてから、一階で待つ玲奈のところへと戻ってきた。彼女は食堂でお茶を飲みながら、ぼうっとしているところだった。
もちろん、キスをしましたなんて自白はしていない。ただ、閑の一番大切なものが何なのかを聞いて、俺の気持ちも伝えたと言っただけ。なので、ここはしっかりと否定しておこうと思う。
「していない。不埒なことは、断じてしていない」
キスは不埒じゃないからね。嘘はついてないね。
俺の言葉を聞いて、玲奈はつまらなさそうに頬杖をついた。
まあ、気を遣って二人にしてくれて、且つ家事というか後片付け的なものまで任せてしまっただけに何も言えない。
それに、もう随分前のことのように思えるけど、玲奈は俺に告白をしてきてくれている。
時期だけで考えるとまだ数週間の出来事だ。そんな相手に好きな人と想いが通じ合ったと報告するのは、中々どうしてサイコな行動ではないだろうか。
けど、言うしかなかったというか、そういう流れだったのだから仕方ないだろう。
玲奈が『どうだった?』と訊いてきて。
俺が『閑の一番大切なものをちゃんと聞けた』と答えた。
そうすると彼女が『なんだった?』と、まるで自分の考えの答え合わせをするように尋ねてきたものだから、『俺だった』と躊躇いながらも答えた。その流れで玲奈が『そうだよね』と悲しそうに笑いながら口にし、『それで、紘くんはなんて言ったの?』と訊いてきたので『俺もお前が一番大切だ』って答えたと言ったらこれである。
俺、悪くないよな?
自然すぎる会話の流れだったよな?
「それで、紘くんはどうするの?」
気づけば頬杖をやめて、真面目モードの顔を作った玲奈が訊いてくる。
「どうするって?」
「双葉さんと想いが通じ合った。けど、双葉さんにはどれだけ時間が残されてるか分からないんでしょ? もう、諦めるの?」
彼女の言わんとしていることを理解して、俺は視線を逸らし、俯く。
分かっている。
閑の言っていた言葉の意味は、言ってしまえば諦めのものなのだ。
自分の死を受け入れ、だからこそ残された時間を大切にしたいという。
けど。
「……でも、彼女を助けるには俺が命を捧げるしかないだろ。それであいつが助かるなら俺は躊躇わないけど、それだと閑が喜ばない」
恨まれる覚悟で命を捧げる、なんていうのはただの自己満足に違いない。
もしも立場が逆だったら。俺の命を助けるために彼女が勝手に犠牲になりでもしたら、俺はのうのうと生きていく自分が許せないだろうし、最悪の場合……。
閑がそんな自責の念を抱き続ける未来は、とてもじゃないけど幸せとは到底思えない。
だから、そうするわけにもいかないのだ。
「そっか。でも、うん……そうだよね。どうしようもないんだもんね」
納得できない感情を無理やりに飲み込むように言った玲奈は立ち上がる。
「わたし、もう行くよ。二人の時間を邪魔しちゃ悪いしね」
「玲奈……」
にしし、とからかうような笑みを浮かべて言うが、その顔が無理に作られたものなのは一目瞭然だった。どれだけ玲奈の笑顔を見てきたか。誰が見ても明らかだ。
「紘くんは双葉さんの気持ちを汲んであげるべきだよ。それはきっと、間違ってない」
歩き出した玲奈のあとを追う。
玄関で靴を履いた彼女は最後にこちらを振り返る。
「なにか、困ったことがあったらいつでも頼ってね。言ってくれたら、わたしいつでも力になるから」
「ありがとう。本当に助かったよ」
玲奈と会ったのは偶然だったけれど、あのとき、彼女に会っていなかったら俺は今ここにたどりつけていなかったと思う。玲奈が支えてくれたから、俺はここまで来ることができたのだ。
「だから、これからはできるだけ来ないようにするね。ラブラブしてる瞬間に遭遇するのも気まずいし」
「あ、はは……」
そして、玲奈は帰っていった。
一人になった俺は彼女がいなくなったあともしばらくその道を眺めていた。
玲奈は最後まで俺の背中を押してくれた。
『紘くんは双葉さんの気持ちを汲んであげるべきだよ。それはきっと、間違ってない』
脳裏に蘇った彼女の言葉。
それはきっと本心で。
彼女の伝えたかったことの全てで。
けど。
――間違っていない。
けど、それは正解でもないような気がして。
気にしていないかもしれないその言葉選びが、どうしても喉の奥で引っかかっていた。