濁流の音が、少しずつ遠のいていく。
視界は揺れ、耳の奥でノイズが混ざるような感覚が続いていた。
体が、動かない。 でも、生きていた。
どれくらい時間が経ったのかもわからなかった。 ただ、ぼんやりと空を見上げていた。
「……いたぞ! 灰島!」
誰かの声が聞こえた。
「っ……無事か!?」
その声に、肩に手が置かれる。
「バカ野郎……! 一人で全部抱え込みやがって」
秋月一馬だった。額に泥と血をつけながらも、どこか安堵した顔だった。
「……秋月……」
「お前が動いてくれたおかげで、誰も倒れずに済んだ。……だから、ありがとう」
その言葉に、胸が熱くなった。
「状況は……?」
「黒磯は離脱済み。ゲートは安定範囲内にある。離脱フェイズに移行可能」
静かな声でそう告げたのは、三輪蓮だった。 彼は周囲の地形とデータをすでに把握していたようだった。
「脈は安定してる。意識もある。歩行補助は必要だが、転送には支障なし」
冷静に分析する声が頭上から聞こえる。 フレイヤ・リンドストロムが、俺の状態を確認していた。
「フレイヤ……」
「無茶をして、倒れるのは計算外よ」
その言葉は厳しかったが、内に優しさを秘めていた。
「よく戻ったな」
重いハンマーを担いだまま、サーラ・ヴァンハラが歩み寄る。 唇の端に笑みを浮かべながらも、その目は鋭く周囲を見渡していた。
「お前の背中、ヒリついてたぜ。今度は前に出すなよ?」
冗談交じりだが、それは彼女なりの労いだった。
「灰島……もう戦わなくていい」
イーダ・ニールセンが、黙って隣にしゃがみこむ。 一言だけ。だが、その言葉の芯に迷いはなかった。
「……みんな、来てくれたんだな」
震える声でようやくそう言うと、誰もが黙って頷いた。
「ゲート、安定。転送可能範囲へ到達」
イーダが端末を操作しながら告げる。
「任務は……失敗か」
呟くように言うと、三輪が口を開いた。
「だが、お前が“あそこで踏みとどまった”ことは、次に繋がる」
静かに、確信のある声だった。
「……次、か」
誰ともなく歩き出す。
崩れかけた岩場の向こう、薄い光の帯が揺れていた。 それは、帰還の道標だった。
「行こう」
最後に、もう一度だけ川辺を振り返る。 黒磯の姿はなかった。 ただ、かすかに残る足跡だけが、彼が確かにそこにいた証だった。
「――次は、絶対に」
そう心の中で呟いた。「次こそ、必ず……連れ戻す」
そして、ゲートをくぐった。
* * *
視界が真っ白になる。
一瞬の浮遊感。
そして――現実。
「っ……!」
体が、跳ねるように起き上がった。
白い天井。 見慣れた天蓋の下。
ここは――クレイドル。
「戻った……んだ」
喉の奥が焼けるように痛い。 呼吸が浅く、胸が痛む。 だが、全身が確かに“現実”を感じていた。
ガラス越しに、複数のスタッフが慌ただしく動いている。
その中で、誰よりも早くこちらに向かってきたのは――
「灰島くん……」
早乙女美月だった。
「……無事で……よかった」
「黒磯には……逃げられました……」
「ええ。あと一歩だった」
彼女は唇を噛みながらも、言葉を選んでいた。
そのときだった。
「灰島賢」
重たい声が、部屋を満たした。
龍崎指令。 モニター越しでも、部屋の空気が張り詰めた。
「命令違反だが……なにがあったかは、聞こう」
俺は一瞬だけ躊躇し、それからすべてを話した。 黒磯の変化、水上凪の裏切り、そして……自分がどう動いたかを。
話し終えると、龍崎は長く黙し、やがて顔を伏せた。
「……そうか」
その目はわずかに伏せられたままだった。
「審議する」
「龍崎指令」
俺は、言葉を切らずに続けた。
「……あなたは、何かを知っていたんじゃないですか」
部屋の空気が、一瞬凍りついた。
龍崎は目を細めた。
「不確定要素は、知識としてはカウントしていないだけだ」
「……!」
その言葉に、早乙女美月も明らかに目を伏せた。
(……美月さんも知っていたのか)
俺は、息を吸い込んで拳を握る。
「……でも、俺は後悔してません」
「それでも、罰は罰だ」
龍崎が、モニターの操作を一つ打つ。 新たなファイルが転送されてきた。
「ある任務を受けてもらう――これは、SENETの“拡張戦域”に備えるための強化訓練だ」
「……訓練?」
「君は、SENETの構造の一端に気づいた。ならば、次に進むには……“それを理解できる力”が必要だ」
俺は、言葉を失った。
「……理解、できる力って、なんですか」
「世界は、すでに境界を越えつつある。矢神臣永を封印した神逐の光も、黒磯風磨の新たな力も、すべては“SENETという構造が拡張を始めた兆し”だ。つまり、このゲームは、ひとつの節目を迎えている」
重々しい沈黙のあと、龍崎は静かに続けた。
「君を、南アフリカサーバーへ派遣する。ガドラ・ホリシャシャ・エンコシ。彼が君の指導官だ」
その名を聞いた瞬間、早乙女美月が小さく息を呑んだ。
「……ッ!」
龍崎は一度目を閉じた。
「彼は矢神のかつての戦友であり、“最強”に最も近く、このゲームを理解している人間だ。今の君に必要なのは、力だ。そして、世界の成り立ちを理解し、その上で戦えるプレイヤーになることだ」
俺は、息を吸い込んだ。
「……わかりました。行きます。必ず、強くなって帰ってきます」
龍崎は、頷いた。
「そうしてくれ。矢神が戻る前に、君たちが“矢神の役割を超えていく”ことが、今は必要なんだ」
その言葉は、命令ではなかった。
――願いのようにも聞こえた。