視界が暗転し、次の瞬間、灼熱の風が頬を打った。
南アフリカ訓練サーバー──ドラケンスバーグ山脈を模した高精度シミュレーション空間。 ログインと同時に、空気の密度や温度、匂いまでもが現実そのものの感覚で迫ってくる。 仮想とは思えないリアリティ。これが、世界最強のプレイヤーが選び抜いた「戦場」だった。
「――来たか」
背後から聞こえた声に振り向くと、筋骨隆々の大男が立っていた。
黒い肌に鋭い眼光、肩には古びたクロス。
その拳からは、武器を超えた“圧”が滲み出ていた。仮想空間とは思えないほどの存在感。
「ようこそ、ジャパンのルーキー。我が故郷へ」
「……あなたが、ガドラ・ホリシャシャ・エンコシ」
「イエス。だけど、長ったらしい名前はナシだ。ガドちゃんでいい。臣永もそう呼んでた」
「……うそでしょ」
「ああ! 嘘だ!ついぞ一回も呼んでくれなかった!」
爆笑とともに拳を振るうガドラ。「だが、まだあきらめてないさ」 その豪快さに、思わず気圧される。
「本題に入るぜ。俺は、矢神臣永からお前を託されていた」
「え?」
「君がこのゲームに参加してすぐの話だ。“あいつは俺より強くなる”ってな。あの臣永がそう言ったのは、たった一度きりだった」
心が波打った。 あの矢神臣永が、俺を──?
「だから、俺が見極める。お前がその言葉にふさわしいかどうかをな」
「……お願いします」
「よし。あとは拳で語るとしよう。理屈はいらない」
* * *
訓練は、想像を遥かに超えていた。
標高三千メートルの稜線を延々と駆け登り、稀薄な酸素に肺が焼け、関節の一つひとつが軋んで軋んで限界を訴える。 体重の五倍にまで設定された重力制御エリアで、岩盤に拳を叩き込み、骨の軋む音に耐えながらひたすらに打ち続ける。
時間圧縮モードによる訓練効率化を行っているため、時間の進みも極端に早い。
「遅い! そんな動きで臣永の背中が見えるか!」
ガドラの怒声が、嵐のように響く。 回避訓練では、彼の拳が仮想空間の空気ごと歪ませてくる。 一撃もらえば即リセット。膝が砕け、腕が折れ、再構築されるたびに痛覚が累積する。
「どうした!何も聞こえんぞ!ずいぶんと無口な拳だな!」
「そんなこといっても……」
「回避訓練だからと逃げてばかりじゃだめだ!一発でも撃ち返してこい!」
「……くそっ!」
脚は重く、息は切れ、意識は何度も遠のいた。 それでも、倒れるたびに立ち上がった。
「よし。体力が尽きたようだな。では、今から“連撃五百”だ」
「……は?」
「この壁に、連続で五百発の拳を打ち込む。失敗したら最初からだ」
ガドラの指示で、厚さ一メートルはあろうかという岩盤が現れる。
「灰島賢、君はたしかに技術もセンスある。だが、基礎ステータスが低い。それでは宝の持ち腐れだ」
「そりゃ……あなたや矢神さんと比べたら」
「比べたら? 君は俺や矢神に並びたいんじゃなかったのか?」
「……ッ!」
「パワー、アジリティ。君がいくらセンスがあろうが、俺や矢神ならその二点だけで君を倒し得る。だからいいか、鍛えるんだ。己の基礎ステータスを、地道に、徹底的に」
ガドラの言葉に、俺は無言で拳を握った。
五十発を超えたあたりで、拳が裂けた。 百発で肩が外れ、二百で吐血。三百を過ぎた頃には、視界が滲んで何も見えなかった。
それでも、殴った。 「……まだ……俺は……」
(矢神さん……黒磯……この先に行くためには、ここで折れたら意味がない)
最後の一発を打ち込んだとき、岩が砕けて崩れた。 そして同時に、俺の意識も途切れた。
* * *
意識が戻ったとき、訓練空間は深夜モードに移行していた。
時間圧縮モードを使っているためか、何日経ったかわからない。
冷たい風が吹き抜ける中、俺は立ち上がり、ひとりで訓練を再開していた。
「……やるじゃねえか。黙って自習する奴は嫌いじゃないぞ」
ふいに現れたガドラの口元には笑みが浮かんでいた。
「でも……まだ、届かないです」
「いずれ届くさ。お前の拳からは、“覚悟”の匂いがしている」
「匂い……?」
「拳は形じゃない。生き様だ。 誰を信じ、何を守り、どこまで立ち向かうか──その全部が拳に染み込む」
そう言って彼は背を向けた。
「そろそろ次の段階だ。明日からは、SENET内の秘匿サーバーに入る。 “現実より過酷な現実”──極限戦闘環境だ」
「秘匿サーバー……」
「そこでは、一瞬の判断ミスでリスポーンどころか“人格の再構築”に関わる。 覚悟がないのなら、今すぐログアウトをしろ」
「……やります。俺は矢神さんの代わりじゃない。俺自身の戦いのために、やるんです」
「その目だよ。そういう目をしてる奴が、最後には勝つ」
ガドラは拳をゆっくりと掲げた。
「さあ、地獄のリングに入ってこい、灰島賢。 最強ってのは、戦場でこそ証明されるものだ!!」
拳がぶつかる音が、虚空に鳴り響いた。