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12.身体の中で鳴り響く「音」

「じゃ、明日M線が動いたら帰る」


 そう言って朱夏は電話を切った。

 安岐の部屋に入った瞬間、朱夏は何も無い部屋だな、とまず感想を述べた。


「必要最小限のものがあればいーの」

「そういうものか?」

「そういうものだよ。ところで電話使わないの?」

「使う」


 ―――そんな訳で、最後は先の台詞となった訳ではあるが。


「いいって?」

「ああ。知り合いの所に泊まると言ったらそうか、と」

「ずいぶん寛大な親だねえ」

「親? 私に親などいないが」

「ああ、じゃ、きょうだい?」

「みたいなものだが…… 別に血がつながっている訳ではないし」

「じゃあ友達」

「とも言いがたい。ともかく私の保護者だ」

「……ああ」


 つまりは、自分と壱岐みたいなものか、と彼は思う。


「それにしても、突然停電事故っていうのは珍しいなあ」

「そうなのか?」

「うん。そりゃ昔は結構あったらしいけど、最近はさすがに『黄色の公安』もがんばっているし、対策がきちんと取られるようになったからって……」

「へえ」

「朱夏は結構知らないことが多いんだな」

「忘れていることが多いんだ」


 安岐は何か呑む? と訊ねる。何がある? と彼女は問い返す。


「別に大したものはないけど。お茶かコーヒーか」

「お茶がいいな」


 やがて茶の香りがぱっと広がった。


「緑茶か」

「嫌い?」

「嫌いも何も、あまり呑んだことがないからな」

「へえ。珍しい。紅茶党なんだ」

「私は別に好みはない。東風トンプゥはそれが好きだから」

「東風?」

「私の保護者だ」


 その名前には彼は聞き覚えがあった。


「本名はタカトウトウジとか言うらしいが、彼の周りは彼をそう呼んでいる。確かにタカトウ云々よりその方が発音しやすい」

「そういう問題ではないとは思うけど」


 そう言いかけてから安岐は口の中でその東風の本名を転がしてみる。なるほど、T音がむやみに多いその名前は確かに発音しにくい。


「それにしても、年頃の女の子を電話一本でそうほいほい外泊させる保護者ってのは珍しいよ」

「そうなのか?」

「そうだと思うけど。特に男のところへ泊まった云々」

「別にお前が男だの女だの言ってはいないが。男だと何かまずいのか?」

「普通はまずいんじゃないの?」

「だってお前は私のこと好きじゃないか。だったら危害加えるはずはないし、それに聞きたいこともあったし」

「俺、言ったっけ」

「言った。お前は綺麗なものが好きで、ステージの上の私は綺麗だ、と。とすれば私のことも好きということではないか」


 こんなところで三段論法が使われるとは思わなかった。だが間違ってはいないので否定もしない。


「好きなものには危害を加えないだろう? まあそれは判る。ただ理解しにくいことがあったからお前に聞きたくはあったんだが」

「何?」

「どうして好きなのか、そのあたりがどうしても理解できない」

「はあ」

「としたら、お前に聞くしかないじゃないか」

「そりゃあそうだけど」


 わざわざ問いただす類のことか? と彼は反論したくなる。


「東風も夏南子もこういうことには答えをくれない」

「そりゃあそうだろうな…… かなこ?」

「東風のいちばん仲のいい人だ。そりゃあそうって、そう言うってことはお前は答えを知ってるってことか?」

「何の?」

「あの二人がくれない答え」

「あのね、朱夏」


 ふ、と視界が暗くなる。何だ、と安岐はすぐには利かない目をいったん閉じる。


「停電だ」

「ああ、そうすると結局このあたり全部がおかしくなってるってことかな」

「だろうな」


 安岐は窓の方へ目を移す。

 確かにこのあたり一帯がやられているのだろう。カーテンを引いていても夜の室内を照らし出してしまう青白い街灯も、やや遠くの黄色味がかった店の明かりも、にじむような光の信号機すら消えている。


 夜ってこんなに暗かったんだな。


 彼は手探りで茶の入ったコップを捜す。と、その手が掴まれる。


「何?」

「暗いのは、好きじゃない」

「朱夏?」


 強い力だった。そのまま手の形がシャツの袖に残ってしまいそうな程に。


「お前そこにいるんだよな?」

「居るけど?」

「居るよな?」


 朱夏は片方の手で、安岐の腕を掴んだまま、もう一方の手をその上から伸ばす。

 彼は掴まれてない方の手でその手を取った。取られた手は、しばらく確かめるかのように彼の手の曲線をたどっていたが、やがてまた、それをぎゅっと握りしめた。


「どうしたの朱夏? 一体」

「ああ、少しは良くなった」

「何処か、苦しいの?」

「苦しくはない。ただ、うるさい」

「うるさい?」

「こんなふうに、暗くなって、自分の在処すら判らなくなると、妙に、ヴォリュームが上がるんだ」

「ヴォリューム…… 音?」


 うなづく気配がする。


「お前さっき、地下鉄の中で、残っている音のことを言ったろ?」

「ああ言った。耳がわんわんしているって」

「それと同じなのか判らないが、私の中にある『音』があるんだ」


「君の中に、音?」


「普段はいいんだ。昼間はいいんだ。いろんな音やいろんなものの色や形や、そういったことを認識するのに私は精いっぱいで、その音を頭が思い出す暇もない。だけど夜は困る。すごく困る。それでもいつもはいいんだ。東風は夜遅くまで仕事してる。だから灯は私が眠るまでずっとついてるからいいんだ。だけど」

「闇は嫌い?」

「何も見えないと、あの音がひどくうるさい」


 そして彼女は掴んだ手に力を込める。


「もちろんそれがどうしてかなんて判ってるんだ。それは聞いたし理解できる。外部からの情報の一時的な切断による内部情報の一時的な拡大。視覚が受け取る情報は多いから。そんなことは判ってる。判ってるんだ。だけど判っているからってそれが」

「どうしたの?」


 ふと止まった朱夏の勢いに、安岐は問いかける。


「お前…… 何をした?」

「何?」

「音が、弱まってる」

「俺は別に何もしてないよ」

「嘘だ」

「嘘をついてどうするの」

「だって!」


 がたん。バランスを崩して、二人が座っていた別々の椅子が倒れる。板張りの床が震える程の勢いで、二人はその場に転がり落ちた。


「痛え」

「安岐」

「ケガしたらどうすんだよ!」

「そうか」


 全然人の話など聞いていないな、と彼はややふてくされた表情でつぶやく。


「聞いてんの!」

「聞いてる」


 その声とともに彼は自分が引っ張られるのを感じた。再びバランスを崩して彼は床に倒れ込んだ――― はずだった。

 何かに全身がぶつかる。

 床だったら痛いはず。だけどそれはふわりと柔らかだった。


「やっぱりそうだ」

「朱夏?」


 それがどういう状態か、気付くのには時間はかからなかった。

 自分は朱夏の上に居て、その手に抱きしめられている。強い力で。


「手を貸してくれ」


 言われるままに彼は手を出す。その手に、すべすべした丸いものが触れる。

 彼女の頬だ。


「やっぱりそうだ。お前が触れていると、音が」

「音が?」

「ヴォリュームを落として…… クリアになる……」

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