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第92話 異界

 そこが【異界】だと身体で把握したとき。美歌は耳を塞がずにはいられなかった。


 冷たく感じるほどの静けさのその奥から、ノイズが、ありえないほどの音が入り混じったノイズが発せられたからだ。


 もっとも耳を塞いだところでノイズは消えることなく全身を貫き、美歌の肌は総毛だった。


 見渡す限り真っ暗闇に包まれていた。真夜中に突き落とされたような空間は、思ったよりも随分と小さい。


 暗いせいでいまいちはっきりとつかめないが、おそらくは6畳ほどの小さな一室。タイヤから伝わる弾力のある床の材質は木か、あるいは畳。


 その小さな部屋の主は、一本の糸のように背筋をすっと伸ばして、部屋の中央に直立していた。全身を紅色が瞬く細い糸が覆い尽くし、手足のように蠢いている。


 不思議なことにノイズが発せられているのは、糸の集合体からだった。一本一本の糸が、命を持っているかのように音を出している。


 その代わりと言っていいのか美歌にはわからなかったが、糸に包まれた主人のはずのプレイヤーからは空っぽの音しか聞こえてこなかった。静謐、平坦。そんな言葉が浮かんでくる。


(だけど、あのとき聴いた音は──)


「渚、なの?」


 急に声が現れてハッと振り返ると、暗がりの中に赤いピアスが煌めいた。すずだ、とくぐもった声が記憶の中の声と照合されたことで、幾分か落ち着きが戻ってくる。


「渚、なんだよね?」


 返事はなかった。聞こえなかったのかと蝶の仮面を見るが、まるで反応がない。というよりもおよそ反応というものを感じられなかった。


 本当にそこにいるのかと思ってしまうほどに無機質な相手に向かって、すずは胸を押さえながら語り掛ける。


「ずっと探していたんだよ、渚が急にいなくなったあのときから。知ってるよね。私、浦高に、渚と同じ浦高に入れた。アイドルやれてるんだよ、私が、こんな私が!」


 掠れ声が暗闇に拡散していく。すずの声を聞いているだけで、美歌の心臓は押し潰されそうなくらいにきゅっと縮んだ。


「渚……話してよ。なにがなんだかわからないよ。どうしてここにいるの? どうしてこんなことになったの? どうして、私の前からいなくなったの?」


 頭を振ると、すずは俯いた。呼吸が急に荒くなり、心音が聞こえてきそうだった。


「……じゃあ、これは覚えてる?」


 すずは耳に付けたピアスを取ると、掌の上に乗せて糸の主に見せた。ノイズがより煩くなったような気がした。


「初めてもらったプレゼント。渚はいなくなったけど、これだけは私の手元に残った。だからね、毎日──」


 仮面の体を覆う紅糸が急速に伸びて、すずの掌をはたき落とした。落ちたピアスが光の当たらない暗闇に呑み込まれていく。


 糸から発せられるノイズがはっきりとわかるくらいに大きくなった。激しく蠕動する様は蟲のそれのようで、触手が部屋全体を覆い尽くそうとするかのように展開する。


 静寂が一転し、ザワザワとした喧騒が押し寄せる。


「美歌ちゃん! すずちゃん! 後ろへ下がって!!」


 声を上げながらも瑠那が2人の前に躍り出たのは、すずの反応の鈍さからだった。


 フリーズしたように動かないすずの前に立ち、ピンクの杖を突き出す。


『詠唱省略スキルを発動します』


 瑠那は迷うことなくその・・魔法を選択した。熱き炎が杖の先端へと集束され、放たれる。


 ナビが、その名を告げた。


『精霊魔法火属性スキル・サラマンダー、発動します』


 轟音とともに異界の黒い床を突き破って出てきたのは、焔の毛で全身が覆われた四足の獣、サラマンダー。舐めるように口から火を噴き出すと、容赦なく迫り来る紅糸を焼き切る。何も見えなかった暗闇が赤く照らされた。


「待って、サラマンダー!」


 そのまま第2射を発射しようとした口が閉ざされ、口の周りを黒煙がくすぶる。主人の言いつけに従順なのは、きちんと躾けられた犬のようだった。


 瑠那は杖を降ろすと、今一度蝶の仮面へと視線を移した。すずが動けないでいるために、後ろへ下がることもできない美歌は、固唾をのんで瑠那の言葉を待つことしかできない。


「渚──穂坂渚。もう、やめよう? なんでこんなことをするのかはわからないけど、ここで戦う理由は、私達が戦う理由はもう何もない。そうでしょ?」


 静かな時間が戻ってきた。燃やされた糸が緩やかに再生されていく。ただ、その奥にある妙な音が、おそらくは美歌だけに微かに伝わってくる。


「浦高がスタートしてすぐに退学したこと、何かあったんだとはずっと思ってたよ。何もできなかったけど……でもあのとき、一番輝いていたのはあなただった。後ろから見ることしかできなかったけど、あのときもあなたはそうやってしっかりと自分の足で立っていた」


 鼓動が早くなる。ざわめきが再び大きくなる。


 違う、きっと違う。そんな思いが美歌の頭に浮かんだ。どうしてそんな思いが浮かぶのか、理由を言葉で導き出すことはできない。


 根拠として持ち出せるものがあるとすれば、ざわめきの先から聴こえてくる音が大きくなっていること。


 糸が脈打つように動き出す。決して答えることのない主人の言葉を雄弁に語るように。


「どうしても戦うしかないってこと? それなら、仕方ない」


 杖が回る。サラマンダーの口から煙が消えて、チロチロと炎が灯っていく。ナイフのように飛び出した糸に向けて、火焔が渦を描いて吐き出された。


「……なんで……」


 巨大な音に挟まれた小さな声を、美歌の耳は聞き漏らさなかった。


 自分の中の違和感が、不協和音が大きくなり、美歌の限界点を超える。


「違う!」


 美歌の呼び声に共鳴するように、閉ざされた部屋に亀裂が入った。


 ナビが呼び出したピアノが暗闇の中に浮かんでいた。

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