分家の神社に戻ったのは、日付が変わった頃だ。
風呂に入って、用意してもらっていた布団に寝転がると、自然にため息が出た。
「あぁ、疲れたぁ……。御澄宮司の仕事に付き合うといつも、異常に疲れるんだよな」
非日常的な出来事が起こるせいなのか。
それとも、霊力を多少なりとも使うせいなのだろうか。
「もう眠い。動きたくない……」
重力が何倍にもなったように感じる。布団を身体にかけるのも億劫だ。
——あ。目覚ましのアラームをかけておかないと……。
携帯電話を手に取りたいのに、思うように身体が動かない。
とても暗い場所にいる——。
前の方に、微かな光が見えた。
照らし出されているのは、土の壁だろう。
ぴちゃん ぴちゃっ ぴちゃん
水滴が落ちるような音も聞こえる。
——ここは、どこだ?
視線を横へ向けた時、何かが頬に触れた。
優しく頬を拭かれているような気がする。
他にも誰かがいるのだろう。
『私が……いるから……』
弱々しい女性の声だ。
目の前で動く影だけは見える。
——誰だろう。
目を凝らすと、ぼんやりと顔が見えた。
どこかで見たことがある人だ。
頬はこけて、虚ろな目をしている。
『大丈夫……』
女性はゆっくりと瞬きをした。
——あっ。この人って、美奈さん?
美奈らしき女性が、僕の顔を拭いている。
『いつも……ありがとう』
今度は男性の声が聞こえた。
すごく優しげな声だ。
『いいの、ヒデアキ……さん』
男性の名前だろうか。
——ヒデアキさん?
「えっ。誰——」自分の声で目が覚めた。
部屋の中も外も明るくなっている。夜が明けているのだろう。
「誰だよ、ヒデアキさんって……」
ぼぅっとした頭で、天井を眺めながら呟くと、襖が開いた。
「何か言いましたか? 一ノ瀬さんの声が、聞こえたような気がしたのですが」
御澄宮司が怪訝そうな表情で、僕を見おろしている。
「……おはようございます、御澄宮司」
「はい、おはようございます。さっきのは、寝言ですか?」
「いや、えーと……」
重い身体をゆっくりと起こし、なんとか布団の上に座った。
「たぶん、美奈さんに憑いている男性の記憶だと思います。暗い場所で、洞窟の中? みたいな感じだったんですけど、僕がその男性で、美奈さんがタオルか何かで顔を拭いてくれていて……。美奈さんが、ヒデアキさんって言ったんですよね」
「ヒデアキ? 誰でしょうね」
「そうなんです。僕もそう思ったのが、声に出ちゃって」
「なるほど」
「あ。美奈さん、そのヒデアキって人と、会話をしていましたよ。よく分からないですけど、操られているのとは、少し違うのかも知れません」
「会話、ですか……。ちなみに、どんな会話だったか覚えてます?」
「すごく短い夢だったんですけど、そのヒデアキって人が美奈さんに『いつもありがとう』とお礼を言って、美奈さんが『いいの』って返していましたね」
「なんだか親しい人物と、話しているような感じですね」
「そんな感じでしたよ。美奈さんは、あの男性のことを心配していたと思います」
御澄宮司は腕組みをして、視線を斜め下に落とす。考え事をしているようだ。
——暗くて、よく視えなかったけど、美奈さんはあの男性を介抱しているような感じだったな、顔を拭いていたし。本当に、何者なんだろう。
二人の様子を思い出していると、御澄宮司が、ふぅっと息を吐いた。
「考えても分からないので、ヒデアキという人に関しては、後で山里さんに聞いてみましょう」
「はい」
離れた場所から、バタバタと廊下を走る音が近付いて来た。
「おはよう、蒼汰くんっ!」
勢いよく障子戸を開けた紅凛が、にっこりと微笑む。
「おはよう、紅凛ちゃん」
「もうおやつの時間だよ。いつまで寝てるの?」
そう言いながら紅凛は、布団の上に座っている僕の、目の前に来た。
「おやつの時間?」
「もう十時だもん。昨日は、帰ってくるのが遅かったの?」
「そうなんだよ。寝るのも遅くなったし、普段は霊力を使わないから、御澄宮司の仕事を手伝うとすごい疲れて、起きられなくなるんだよね」
「そうなんだぁ。蒼汰くんも私と一緒に、霊力を使う練習をしたらいいのに」
「い、いやぁ……。僕はいいよ。霊媒師になるつもりはないし」
「ふうん。蒼汰くんも一緒だったら、楽しいのにな」
「はは……。ごめんね」
「そうだ! 私ね、魔除けの札も使えるようになったんだよ」
紅凛は巫女装束の袖から、白い札を取り出した。札には、漢字にも絵にも見えるような、読めない文字が書いてある。御澄宮司の魔除けの札と似ているが、随分と歪な文字だ。
「すごいね。もしかしてその札、紅凛ちゃんが作ったの?」
「うん、そうだよ! 蒼汰くんに残ってる霊気、私が祓ってあげるね」
紅凛は片方の手を腰に当てて、得意げに言う。
すると、御澄宮司が近くへ来て、紅凛が作った札を覗き込んだ。
「ちゃんと祓えるんですか? その札……」
御澄宮司の眉間には、深い皺が寄っている。
「祓えるよ! もう何度も成功してるんだから!」
「怪しいですね……。まぁいいでしょう。やってみなさい」
「ふんっ! 邪魔しないでよね!」
喧嘩腰にそう言い放った紅凛が、札を持っている手を前に伸ばし、ぐっと力を入れたように見えた。すると。
パリパリッ、と音を立てながら、札は波打つように動いた。微かに光を放っているようにも視える。
「消えてっ!」
紅凛は僕の胸に、札を勢いよく叩きつけた。
「ぐっ、ゲホッ」
思ったよりも紅凛の力が強くて、咳き込んだが——。
「あ。なんか、身体が軽くなった気がする……」
「ほらっ! 効いたでしょう? 蒼汰くんの中にあった霊気は、ちゃんと消えてるもん」
意地悪そうな笑みを浮かべた紅凛は、御澄宮司を見る。
「札の効力というか、思い切り霊力をぶつけただけのような気もしますけど」
「そんなことないもん! ちゃんと札を使ったもん!」
「はぁ、そうですか。すごいですね、そんな落書きみたいな札で祓えるなんて」
「落書きじゃないよ! 相楽さんも、上手に書けてるって言ったもん!」
「それは相楽に、甘やかすなと言っておかないといけませんね」
紅凛と御澄宮司は睨み合っている。
——今日も相変わらず、仲が悪いな……。
巻き込まれたくないので、二人から目を逸らすと、畳の上に落ちている札が目に入った。札は、朱色の文字が書いてある部分の、下の方が破れている。
——これって、札が完全じゃないから破れたのかな。それとも、霊気が強かったから、破れたのかな。
気になったので二人を見たが、まだ言い合っている。残念ながら、札のことを訊けるような雰囲気ではなかった——。