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第80話

「ううぅうう!」


 ベッドはガタガタと音を立て、吊り下げ式の照明器具も揺れている。


 発作でも起こしたかのように、叫びながら暴れる美奈は、なんだか恐ろしい。


 あまりのことに僕は動けずにいたが、紅凛は全く怯む様子はなく、ずっと何かを呟きながら、淡々と玉串を左右に振り続けている。


 金色の小さな光の粒は、先ほどよりも随分と増えた。紅凛の力は美奈にしっかりと届いているはずだ。それなのに、美奈はまだ暴れている。


「あっ、消えた!」


 突然、後ろにいる神社の人が叫ぶ。その声で、黒い靄に視線を向けると、黒い靄は消えていた。


 ——美奈さんに気を取られていたから、気付かなかった……!


「一ノ瀬さん。身体の中に残っていた霊気は、そのままになっていますよね? 消えた霊気の塊がどこに行ったか、分かりますか? 家から出られないように結界は張ってありますが、 早く美奈さんの部屋に戻さないと」


「あ……やってみます」


 目を閉じて、意識を集中させる。すると、身体が下へ引っ張られるような感じがした。


「たぶん、下です」


「行ってみましょう。でも、充分注意してくださいね」


「はいっ」


 二人で一階へ向かう。玄関の近くに神職の装束を着た人が二人。美奈の両親はダイニングにいると聞いている。


「ん?」


 階段を下り切ったところで、身体が勝手に家の奥に進もうとしていることに気がついた。


「御澄宮司。家の奥の方にいるようなんですけど、もしかしたら、風呂場かなって……」


「そういえば前回来た時も、風呂場で靄を視ましたね。やはり湿気が多く、狭い場所を好むんでしょうか」


 普通の死霊は、暗く湿った場所を好むと聞くけれど、あの男は違う理由で、そうしているのではないだろうか。


「死ぬ前に、ずっと喉が渇いていたからかな。と僕は思ったんですけど……。あの、僕にだけ聞こえた水の音が、記憶を視た時に洞窟の中に響いていた音と、そっくりだったんですよね……」


 広く深い水溜りの中に、高い位置から水滴が落ちた音は、洞窟の中にやけに大きな音で響いていた。


「一ノ瀬さん。また『可哀想』とか思っていそうな気がしますけど、今は周りに意識を集中させておいてくださいね。どこから出て来るか、分からないんですから」


「……はい、大丈夫です」


 話している間に、脱衣場についた。奥にある風呂場の中から、はっきりと霊気を感じるので、間違いなくいるだろう。


 バンッ!


 御澄宮司は、風呂場の扉を勢いよく開けた。


 しかし、黒い靄は視えない。

 気配も一瞬で消えてしまった。


「逃げたか……。でも、何から逃げているんだ?」


 そう呟きながら、御澄宮司は風呂場の中を見まわしている。


 たしかに、紅凛ちゃんの力から逃れて来ただけだと思っていたが、僕たちが来ても逃げたのだ。その理由が、よく分からない。


 その時——。身体の右半分に、無数の小さな針を突き刺されるような痛みを感じた。まるでナイフを喉元に突きつけられているかのような、恐ろしい気配。


 勢いよく廊下へ顔を向ける。


「ひっ……」


 思わず言葉にならない声が漏れた。




 若い男が、僕を睨み付けている——。




 藍色の着物を着て、長い髪を一つにまとめた男だ。周囲には、黒い靄を纏っている。


『ゔうぅゔ!』


 唸り声と共に、男の手がこちらに迫って来た。


「うわあっ!」


 反射的に両腕でガードする。しかし、男の手が僕に当たることはなかった。なぜか男が急に、後ろに飛び退いたのだ。


「えっ……?」


 男はそのまま壁の中に吸い込まれるように、姿を消してしまった。


「なんで……」


 困惑していると、御澄宮司が僕の左手首についている数珠に、つん、と指先を当てた。


「今のは良かったですね。呪具が反応するまでが、早かったです」


「あ……。数珠が光ってる……?」


 完全に無意識だったが、呪具の数珠に力を送っていたようだ。それで霊体の男は、嫌がって逃げたのだろう。


 ——逃げてくれて良かった。この数珠に手が触れていたら、消えていただろうから……。


「なるほど。あれが美奈さんに取り憑いている男ですか。一ノ瀬さんも男の記憶を視ただけだったので、姿を視たのは初めてですよね?」


「はい、初めてです。記憶では疲れているような声だったから、年上かと思っていたんですけど、僕より年下に視えましたね……」


「まぁ戦には、十代の中頃の青年も、多く参加していたと聞いたことがありますから、あの男も若くして死ぬことになってしまったのかも知れませんね」


「僕より若いのに、戦に参加させられて、腐っていく遺体を懸命に埋めて、墓を作っていたなんて……なんか……」


 考えていると、胸の奥が苦しくなってくる。


「たしかに、可哀想だとは思いますよ。でも、そういう時代だったとしか言えませんし、このまま放っておくわけにはいきません」


「分かってます。分かってますけど……。つらく孤独な中で、話を聞いてあげる、一緒にいてあげるって言われたら、僕だって、好きになっちゃうと思うんですよね。あの人には、美奈さんの存在だけが救いだったのに、こんなことになったのが、悲しいなって……」


「そうですね。でも、これで美奈さんが死んでしまったら、もっと悲しいことになりませんか? 一ノ瀬さんは死霊と繋がってしまうので、感情移入してしまうんでしょうけど、自分を救ってくれた人を殺してしまったら、どんな気持ちになるでしょうか。私だったら、耐えられませんよ」


 御澄宮司が言っていることが正しいのは分かっている。生きている美奈と、この世のものではなくなってしまったあの男が、一緒にいることはできないということも分かっている。


 ただ、あの男の気持ちを考えると、無性に悲しくて、つらくなってくるというだけだ。


「……霊気を……探します」


「えぇ、お願いします」


 ——余計なことは考えるな。今は、あの人を美奈さんの部屋に戻すことだけを考えないと……。


 そうしないと、成仏させることができなくなってしまう。

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