目を瞑って、男の霊気を探る。
「たぶん……家の中を移動しているんだと思います。今も、左から右に引っ張られた感じがしましたから」
「それなら我々も、家の中を移動してみましょうか。でも、この状況で一ノ瀬さんを襲おうとしたということは、逃げているのではなくて、一ノ瀬さんを攻撃するために、動きまわっているのかも知れませんね。絶対に、私から離れないでください」
「……分かりました」
人間は死んでしまうと、生きている時のように、色々なことを考えることができなくなってしまうのだ。
今、あの男の中にあるのは、僕が美奈さんを奪おうとしている悪い奴だということと、美奈さんへの想い。ただそれだけなのだろう。
脱衣場から廊下へ出て、歩いていると、急に上の階が騒がしくなった。
「い、やっ……! やめてえぇぇえぇ!!」
美奈の声だ。ドン! ドン! と何かがぶつかる音も聞こえる。先ほどよりも、激しく暴れているような気がした。
——紅凛ちゃんは、禍々しい霊気を鎮めてくれているだけなんだけど、どうして美奈さんは嫌がっているんだろう……?
今は話ができる状態ではないので、美奈がどんな状況で何を思っているのか、全く分からない。今、叫んでいるのは、美奈の意思ではない可能性もあるけれど、男が操っているのなら「やめてくれ」「やめろ」そんな言い方になると思う。
——やっぱり、美奈さん本人が拒否しているような気がするな……。
二階を気にしながら廊下を歩く。
その時ふと、誰かの視線を感じた。そちらへ目を向けると——。
客間にあるテーブルの下に、二つの目が視えた。
「ひっ!」
気付いたのと同時に、人間の形をした黒い靄が、テーブルの下から、ずるりと這い出してくる。
「うわあぁあああ!」
仰け反ると、壁に背中がぶつかった。
「一ノ瀬さん、上へ!」
恐怖で何も考えられなくなっていても、美奈さんの部屋へ行けという意味だということは分かる。僕は反射的に走り出した。
廊下で足が滑った拍子に、スリッパがどこかへ飛んで行ったが、そんなことを気にしている場合ではない。靴下のままで、階段も一気に駆け上がった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」息が上がる。
心臓は早鐘を打ち、脈打つ音が頭の中に響いた。
美奈の部屋の前には、神職の装束を着た人たちが立っている。
そこへ辿り着いた僕は立ち止まり、振り返った。すると、四つん這いになった黒い人影が、階段を登って来ているのが視えた。割と早いので、すぐに二階まで辿り着くだろう。
この後はどうすれば——。そう思った時。
バサッ!
音がした方に目をやると、紅凛と視線がぶつかった。彼女は儀式を続けながら、顔だけをこちらへ向けて、僕の目をじっと見つめている。
怯えなどカケラも感じさせないその目は「早くあの男を連れて来い」とでも言っているようだ。
突然、神社の人たちがざわつき、それと同時に、階段を上り切った黒い人影が、目の端に映った。
——僕が部屋の中に入ればきっと、ついてくるはず!
僕は部屋の中へ走り込んだ。一番奥まで走って、振り返る。しかし——。
『ゔうぅ……ゔ』
あんなにしつこく追って来ていたのに、黒い人影はなぜか、部屋の入り口で止まった。唸りながら、僕を睨みつけている。
「えっ、入って来ない……?」
紅凛の力が満ちているこの部屋に入ってくれなければ、成仏させることはできない。
黒い人影の後ろには神社の人たちがいるが、相手は霊体なので、押すなんてことはできないし、手に持っている札を使ってしまうと、黒い影は消滅してしまう。全員、札を構えているが、戸惑っているような表情で、黒い人影を見ていた。
——どうすればいいんだ……?
「う、あぁああああ……!」
美奈はたまに叫びながら、まだ暴れている。
——あれ? さっきよりも、声が弱くなってる……。まずいぞ、早くしないと、美奈さんが!
やはり限界が近いのだろう。もう怯えている場合ではない。入って来ないのなら、無理やり引き寄せた方が良さそうだ。
僕は左手首に付けている数珠に力を込めた。紅凛の故郷の神無村では、子供たちの霊を呼べたのだから、同じようにすれば男と繋がれるはずだ。
数珠は淡い紫色の光を放っている。僕は両手をゆっくりと黒い人影に向けて、目を瞑った。
部屋の入り口にいる男の霊気が、すぐそばにあるような感覚。これなら、声が届くだろうか。
——このままだと、美奈さんは死んでしまうぞ! それでもいいのか!
ピィィィという甲高い耳鳴りと共に、男の声が聞こえた。
『死ぬ……? お前が……! お前のせいで!』
——違う、お前のせいだ。お前のせいで、美奈さんは死ぬんだ。
『私の、せい……? 私は……美奈、を守る』
——お前がそばにいると、美奈さんは死んでしまうんだよ。
『嘘だ……! 美奈は……死なない……』
——いいや、死ぬよ。お前の霊気は強すぎるんだ。霊力がない美奈さんでは耐えられない。
『……』
——彼女が大事なら、なんで気付かなかったんだよ。美奈さんはもう、いつ死んでもおかしくない状態だ。しっかり美奈さんを見ろ!
『美、奈……?』
しばし沈黙が流れた後に、禍々しい霊気は一気に弱くなって行った。
『美奈……苦しんでいる……どうすれば、助けられ、る……』
——美奈さんの近くへ行ってくれ。そうしたら、そばにいる女の子が、お前を成仏させてくれる。
『成仏……?』
——そうだ。お前はもう、死んでいるんだ。生きている美奈さんのそばにいると、美奈さんは弱って死んでしまう。だからもう、離れてくれ。
『私が……離れ、たら……美奈は助かる、のか?』
——あぁ。しばらくしたら元気になる。
『私がいた、から……。そうか……』
目を開けると、黒い人影が、ゆっくりと部屋の中に入ってくるのが視えた。
紅凛の力、金色の小さな光の粒が舞う中で、黒い人影は人間の若い男の姿に変わって行く。藍色の着物を着て、長い髪を一つにまとめた若い男は、先ほどとは違って、優しい表情をしていた。
儀式をしている紅凛の身体をすり抜けて、男は美奈の枕元に立ち、彼女を見下ろす。
『美奈。美奈……。悪かった』
「ヒデアキ、さ……」
『ありがとう……美奈』
「い、や。いやあぁ! 私も! 一緒に……!」
白っぽく発光した男が、白い靄に変わったのと同時に、美奈の叫び声が響き渡った。
弱った身体のどこからあんな声が出たのだろう、と思うような悲痛な叫び声は、あの男よりも美奈の方が、離れることを拒んでいるように思えた——。