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2、新人教育

 翌朝、夏音を家に残して僕はバイト先に向かった。

 ここ最近は晴れの日が続いていて、必死に自転車をこいで店に着いた頃には、全身汗だくになっていた。


「おはよう水瀬」


 制服に着替えてシフトインすると、いつものように同期の後藤が声をかけてくれた。


「後藤、おはよう」


 普段と変わらないバイト風景。まずは掃除をして今日の持ち場を確認する。日によってホール担当やレジ担当など役割が変わるからだ。水瀬友一——ドリンク・レジとなっていたため、レジチェックをし、来るお客様の対応をしようと思った時だった。


「あ、あの!」


 不意に後ろから女の子の声がして、僕は咄嗟に振り返る。そこには、茶髪のショートヘアでスタイルの良い女の子が立っていた。こんがりと焼けた肌がスポーツの得意そうな雰囲気を匂わせる。


「紹介するよ、新しく入った沢田さわださん」


 後藤が沢田と呼ばれる女の子の方を見て言った。


「初めまして、沢田ももといいます。今日からここで働かせていただくことになりました」


沢田さんは僕に向かって礼儀正しく挨拶をしてくれた。僕も自然と背筋がピンと伸びる。


「後藤と同期の水瀬友一です。よろしく」


「水瀬さんですね、よろしくお願いします」


 こういう“初めまして”の挨拶は久しぶりで、どこかこそばゆいような感覚だった。


「何だよ水瀬、緊張してんのか」


 後藤がそう言って僕をからかってくる。僕の心のうちまで悟ってしまう彼には到底敵わない。


「沢田さんは、何回生だっけ?」


「S大学の2年です」


「お、それじゃあ俺たちと一緒じゃん」


「そうなんですね」


「そう。俺も水瀬も2回生なんだ。大学はS大じゃなくてH大だけどな! 2回生は俺たちしかいないから、3人仲良くしようぜ」


「はい、よろしくお願いします」


 僕たちが同級生だと分かって、沢田さんはほっとした様子だった。新しく入る環境に馴染めるかどうか分からなくて、不安になる気持ちはよく分かる。だから、沢田さんの初出勤の日が、僕たちの出勤日と重なって良かったと思う。


「んじゃ沢田さん、今日の教育係は水瀬だから、基本的なことは水瀬に教えてもらって。もちろん、仕事してて分からないことがあったら俺に聞いてくれても良いよ」


「分かりました。後藤さんと水瀬さん、今日からよろしくお願いします」


「よろしく、一緒に頑張ろう」


 自己紹介を終えると、沢田さんの教育係を任された僕はまず、レギュラーメニューのドリンクの種類と作り方を教えた。

 朝早くということもあって、店を訪れるお客さんはそれほど多くなく、教え終わったドリンクを沢田さんが提供するのに良い練習となった。


「いらっしゃいませ」


 一時間も教えていると、最初は自信なさげだった彼女の接客時の挨拶も、次第に歯切れのよいものに変わっていった。

彼女は研修に対してとても真面目で、僕がドリンクの作り方を教えると即座にメモを取って熱心に聞いてくれた。

 こんな新人なら、教える側も楽だ。時々聞き取れない箇所があると、「もう一度言ってもらえますか」と正直に伝えてくれるところも好感が持てた。


「沢田さんは偉いね」


「え、そんなことないですよ。こうでもしないと仕事覚えられないですから」


「いやいや。僕なんか、最初の頃全くメモを取ってなくて、何度も作り方間違えたなぁ。後藤なんてメモとらなくても覚えてやがるけど」


「ふふっ。水瀬さんって真面目そうに見えて意外とそうでもないんですね」


 小悪魔っぽい笑みを浮かべて彼女がそう言う。


「僕は全然真面目なんかじゃないよ。彼女は真面目なんだけどね」


「彼女さんいるんですね! 良いこと聞いた」


 沢田さんは“彼女”という単語を聞いて、途端に嬉しそうな表情になった。まったく女子という生き物は、なぜこんなにも恋愛ネタに敏感なのだろうか。


「すごく気になるけど、今仕事中なので今度ゆっくり聞かせてくださいね」


 語尾に「♥」でも付きそうな勢いで沢田さんがそう言った。


「冗談はさておき、あたしにもすごい真面目な友達がいるんですよ。その友達とおかげというか、“せい”というか、何でもメモとって覚える癖がついちゃって」


「へえ、そうなんだ。よっぽど真面目な子なんだね」


「そうなんです。恋人とか仲の良い友達の癖って、ついつい移っちゃいますよね」


「それはすごくよく分かる」


 僕は頭の中で、夏音の癖を思い浮かべてみた。

 辛いことがあった時に無理して笑う彼女。

 グラスに注がれた冷たい飲み物を、無意識のうちにストローでかき混ぜる彼女。

 二年前も今も変わらない彼女の姿が、僕の頭の中にハッキリと浮かんだ。


「あ、今彼女さんのこと考えてますね」


「な、なんだよ全く……きみも隅に置けないね」


「へへっ」


 沢田さんとは最初に挨拶を交わした時よりもかなり打ち解けてきて、既にいじったりいじられたりするような仲になっていた。

 緊張しながらも初対面にしては和気藹々と仕事をするうちに、いつの間にかシフトの時間が終わっていた。今日のアルバイトの時間はいつにも増して充実していたように思う。


「それじゃ、先に上がらせてもらうね」


「はい、今日は仕事教えてくださってありがとうございました!」


「お疲れ水瀬」


「お疲れ。後はよろしく」


 僕は後藤と沢田さんより一足先に仕事を終え、真っ直ぐ家に帰ることにした。

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