「夏音……?」
部屋に戻った僕は、後ろから彼女を呼んだ。だが、テレビ画面を見つめたまま、彼女は振り返らない。
台所の方から、ポタ、ポタッと不規則に水が滴る音が聞こえる。
おかしい。さっき食器を洗った後、水道の蛇口はちゃんと閉めたはずなのに。
「夏音」
二度目に彼女を呼ぶ声は、自分でもびっくりするほど張り詰めたものだった。
彼女がビクッと肩を震わせてゆっくりと振り返る。
背後では、先月末に起きた夜行バスの転落事故のニュースが淡々と流れている。
僕も大学生になってからというもの、夜行バスをよく利用するので他人事ではないと思い、身震いした。
振り返った彼女の眼は、なぜか焦点が定まっていない。
「お、おい」
どうしたんだ、と聞いた時、一瞬だけ彼女が表情を曇らせたような気がしたが、
「友一」
ポツリ、と僕の名を呟いた後、何事もなかったかのように相好を崩した。
「私ったら、今意識がどっか行ってたような気がする」
「は? 何だそれ」
「何でしょうねえ」
ふふっと、彼女が再び笑う。
「そのニュースに何か心当たりでもあるのか? ひょっとして、知り合いが事故に巻き込まれたとか……?」
「なーに不謹慎なこと言ってるの。そんなわけないじゃない。よくある不幸な事故よね……自分が乗ったバスじゃなくて良かった」
「そうだよな。自分とか、知り合いが事故に巻き込まれる確率なんかそうそう高くないもんな。本当に夏音が無事で良かったよ」
そう、もしこのバスに夏音が乗っていたら、僕たちは再会することもなく、二年前にすれ違ったままだったかもしれない。
だから、そうならなくて本当に良かったと思う。この事故で僕らが心配することなんか、何一つないはずだ。
それなのに、僕の胸の中で何かが引っ掛かっている。胸騒ぎがする、とでも言うのが分かりやすいだろうか。きっと先程の彼女のおかしな様子が、僕の中で腑に落ちていないのだろう。
けれどその日はそれ以降、夏音はいつも通り明るい彼女のままだった。
夜が明けると、夏音は友達のところに行くと言って朝から僕の家を出て行った。
「何時に帰るか分からないから、今日は先にご飯食べてて」
元々京都には友達に会いに来ていたと言っていたし、僕も快く分かったと返事をした。僕自身、今日もお昼からバイトに行かなければならなかったので丁度良い。
「いらっしゃいませ」
昼過ぎに出勤すると、昨日入ったばかりの沢田さんがレジで出迎えてくれた。
「なんだ、水瀬さんか」
「なんだとは何だよ」
「お客さんじゃないからがっかりした」
沢田さんは人と打ち解けるのが早いらしく、既にこんな感じで冗談を言い合える仲になっていた。
「今日は後藤はいないのか」
「うん、昨日も一昨日もシフト入ってたらしいし、今日はお休みみたいです」
僕がバイトに行く日は大抵後藤がいるので、無意識のうちに「彼はいつもいるものだ」と思い込んでいたが、後藤だって僕らと同じ大学生で、アルバイトなのだ。そりゃいつでもシフトに入っているというわけではない。
後藤がいないので、今日のアルバイト勢は僕と沢田さんの二人だった。
「沢田さん、仕事の方はどう? 順調に覚えられてる?」
「覚え……ようとはしています」
「ははっ。なんだ、自信なさ気だな」
「あたしだって早く覚えたいですよ。でもですね、このお店、覚えること多くないですか? あたし今朝からシフト入ってるんですけど、5回ぐらい同じ質問されましたよ。『カフェオレとカフェラテは何が違うの?』って」
「あーその質問は定番だよ。僕も100回ぐらい聞かれたし。それで、なんて答えたの?」
「カフェオレの方が甘いですよって」
「それだけ?」
「それだけです」
あっけらかんと答える沢田さんの様子に、僕はおかしくなってまた笑ってしまう。自分でもよく分かっていないことを聞かれても物怖じしていないところは、さすが体育会系らしい。
「じゃあ今から僕がドリンクメニューのこと詳しく教えるからさ、ちゃんと覚えておいてね」
「はーい」