久しぶりに訪れたヒルダの酒場。
エリカとクレオの二人は護衛という立場上、外で待機しているという。よってライラと、腕に抱えられたシュシュだけが酒場の戸を叩いていた。馬車を降りた瞬間から、聞き覚えのある元気な泣き声が聞こえてくる。
「ライラ! 久しぶりだねぇ!」
泣き喚くアンジュを抱えながら、額に汗を浮かべたヒルダが出迎えてくれた。
「少しは話を聞いてるけど、今日はどうかしたの?」
「こんにちは。お手伝いできることがあればと思って。……お邪魔でしたか?」
「とんでもない! 来てくれて助かるよ! 見ての通り、なかなかアンジュが泣き止まなくてね。仕込みが全然進まないんだよ……!」
「助かる」。その一言で、ライラの気持ちは一気に浮上する。
「なんでもお手伝いします!」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
アンジュはライラの演奏を相当気に入ってくれているようで、
落ち着いた呼吸を繰り返すアンジュとシュシュに、ライラの頬もふっと綻ぶ。
「ヒルダさん。アンジュちゃん、眠ってくれました」
「さすがだね、ありがと〜。最近は仕込みの時間に泣くことも増えてきてさぁ。参っちゃうよ」
「そうなんですか……大変ですね」
「笑ったりムッとしたり、表情もどんどん増えてきてるからね。いろんな感情が芽生えるのは、親としては嬉しいことなんだけどさ」
どうぞ、とカウンター越しに差し出された木苺のジュース。ライラは一口だけ口に含めると、そのすっきりした甘さを味わいながら机に頭を突っ伏してしまった。
「おや、どうしたの? なんだかお疲れのようだけど、お悩みでも?」
「……ヒルダさんって、やっぱり酒場の主人ですから、いろんな人から悩み相談とかされますか?」
「まあ、それなりにね。お酒が入ると口が軽くなるお客さんも多いから」
「そういう悩みって……その、誰か他の人に話したりとか」
「しないよ。口は災いの元ってね」
悪戯っぽくウインクしながら、ヒルダは続けた。
「だから今ここであんたが何を言っても、ぜーんぶ、ここだけの話にしといたげる」
……きっと、嘘ではないのだろう。
木苺のジュースにアルコールは含まれていないはずなのに、ライラの口はふっと軽くなった。
「……何から話したらいいのかわからないんですけど。ボク、最近なんだかおかしいんです」
頭の中に浮かぶのは、昨日の出来事。アルとの思い出を嬉しそうに語るジュリエットの姿。アルのシャツを愛おしそうに抱きしめる姿も。
「アルくんのお屋敷の、ジュリエットさんってご存知ですか?」
「ああ、知ってるよ、ジュリちゃんだろ? 二回だけ会ったことがある。よく気の付くいい子だよね。美人さんだし」
ああ、やっぱり。ジュリエットは誰からも好感を持たれる人なのだ。
そんなところでもライラは──、
「ジュリエットさんとよくお話をするんですけど……なんていうか、緊張するんです。背中がゾワゾワするんです。……アルくんのことをよく知っているみたいで。たくさん思い出があるみたいで」
──焦る。
「羨ましいって思うんです。時々……ずるい、なんて思っちゃうんです。ジュリエットさんは何もずるくなんてないのに。そう思ってしまう自分が、嫌になるんです」
口にすればするほど惨めな気持ちになる。こんな暗くて卑しい自分が心の中にずっといたなんて、ぞっとする。
「おまけに、アルくんの悪口を言っている人を見かけると、頭がカーっとなっちゃうし。アルくんと過ごせる時間が少ないと……寂しくなってしまうし。アルくんに悪く思われてないかなって、不安になってしまうし。感情に振り回されがちなんです。それこそ、赤ちゃんみたいなんです」
眠りに就くシュシュとアンジュの姿を見て、ライラは思った。彼らと自分に、いったいどれだけの違いがあるのだろうと。
「こんなの初めてだから……どうしたらいいのかわからなくなるんです。……一つ目の相談は以上です」
そう、こんなに話しているのにまだ一つ目。嫌気が差していないか不安になってヒルダを見るも、彼女は優しい眼差しでライラを見つめてくれていた。
「自分の感情に振り回されるのは、ライラくらいの年齢なら一度は通る道だよ」
「……そう、なんですね」
そうか、自分だけじゃないのか……ライラは己にそう言い聞かせようとした。それを察したのだろう、ヒルダは間もなく口を開いた。
「けどそんなこと言われたって、今まさにその道にいて悩んでいるアンタには、何の気休めにもならないよねぇ」
ライラは何も返せず、肩を縮こまらせるだけ。
「ジュリちゃんはアル坊ちゃんのところに十年近く勤めているんだから、数か月前に出会ったライラよりも思い出が多いのは当たり前さ。そこはもう、仕方ない。出会った順番と思って受け入れるしかないよ」
「はい……」
かたや十年、かたやほんの二ヵ月弱。ましてやライラはこれから先、十年間も一緒にいられるわけじゃない。来年の自分の誕生日に成年を迎え、無事に選挙が終われば。カノアとの一件が片付いてしまえば、もうアルとの接点は何もない。
……だから焦ってしまうのだろうか?
いやきっと、それだけじゃない。
「ライラ。いろんな人と出会って、いろんな感情を知るのは、何も悪いことなんかじゃないよ」
心臓が跳ねる。まるで心の中を探り当てられたみたいだ。
「それがたとえば……嫉妬であれ、憎しみであれ。心の中で思うだけなら自由さ。けどそれを原動力に行動に移しちゃうと破滅しちゃうからね。自分の中だけで溜め込まないように、こうやって時々、誰かに吐き出したらいいんだよ」
ヒルダの言葉は優しく心に馴染んでいく。それなのに暗くて卑しい自分は、そう簡単には消えてくれない。
「……誰かって。こんなこと話せるの、ヒルダさんくらいです。アルくんには言いたくありませんし。暗くて卑しい奴って、アルくんに思われたくないです」
「……あんたって本当に、アル坊ちゃんのことばかり考えてるんだねぇ」
「え?」
ため息混じりのその発言に、
「いつも第一声が……どころじゃないか。行動原理が常に『アルくん』だもんねぇ。何日か一緒に過ごした時からわかってたけどさ」
「ええ⁉」
「視線はいっつもアル坊ちゃんに注がれてるし。起き抜けの『おはようございます』の後には決まって『アルくんはどこですか?』って訊いていたし。まあ、言っちゃえば露骨……みたいな?」
「う、うあぁ……⁉」
ライラは身悶えた。
たった数日をともに過ごしたヒルダにさえそんな風に思われていたなんて、まったく気づかなかった。
客観的に見てそれってどうなんだろう。異常なのではないか。自分はただ、アルに憧れているだけなのに──。ごちゃごちゃと頭の中で言い訳を並べながら、ライラの顔からは血の気が引いていった。
「き、気持ち悪いですか、ボクって? やっぱり」
「え? どうして?」
「……ある人に言われたんです。同じ男にそんな風に慕われるなんて気持ち悪いって。アルくんもそう思ってるから、ボクには優しくしないんじゃないのかって。あ、これが二つ目の相談なんです、けど……」
「…………?」
ヒルダは小首を傾げている。反応に困っているのかと最初は思ったが、どうにも様子がおかしい。
これは、まさか。嫌な予感に襲われつつも、ライラはおずおずと口を開いた。
「あの……ヒルダさん? ボク、男ですよ?」
「…………あっ! そ、そうだったね、ごめんごめん! なんでかな、いや理由ははっきりしてるんだけど、すっかり忘れてたよっ!」
「忘れないでくださいそんな大事なことを!」
いくらなんでもショックがでかい。まさか性別を忘れられることがあるなんて思わなかった。