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第62話「アイランド・バケーション」

『せっかくですし、この四人で旅行に行きましょう。大丈夫です、お二人の思い出に残るような素敵な場所をお約束します』


 美咲さんがレポート作りに協力してくれた翌日、そんなメッセージが届いた。

 これは明らかに私たちの関係がギクシャクしていたことへの気遣いで、同行してくれる結衣さんも含めてこれ以上迷惑をかけるのは…という気持ちはある。

 けれど、そのメッセージを見た私はさほど迷うことなく提案を受け入れる旨を返信し、絵里花もとくに拒否感を見せなかったことから、プールよりもさらに遠くの場所…しかも外泊を伴う、小旅行ともいうべきプランになった。

 それは同時にエージェントとしての担当エリアを少しばかり外れることになり、いくら美咲さんが同伴するといっても許されるのだろうか…なんて懸念は、意外な形で払拭されたのだ。

(…早乙女さんにはあとでお礼を言わないと)

 美咲さんが運転するいつもの車の後部座席にて、私は頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。その景色は普段暮らしている典型的な都会からかなり離れた影響なのか、ガードレールの向こうには海が、その反対側には土砂崩れ防止こそ施されているものの緑が見える。それは絵里花との遠出へ密かに憧れていた私からすると心躍る景色であるものの、頭の中はいつも笑顔でなにを考えているかわからない少女の幻影がちらついていた。

 早乙女さんは元々危険度の高い現場だけでなく人手が足りない場所を転々としていたみたいだけど、今回はちょうど私たちが離れたのでその担当エリアを守ることになったらしい。美咲さんからその報告を聞いた直後には私から謝罪のメッセージを送ったけれど、その返信は『お土産期待してるね☆』というものだけだった。

 …失礼を承知で言ってしまうなら、彼女のこれまでの言動から推測すると『なにかと理由を付けて私たちについてこようとする』なんてアクションも予想していたのだけど、どうやら彼女もエージェントらしく仕事の命令には逆らえないみたいだ。

 メッセージの頻度も極端に多いわけじゃないし、もしかしなくても普段はいろんな戦いに駆り出されて忙しいのかもしれない。そんな背景を想像すると、お土産を渡すついでに直接お礼を言うのが筋だと思ったのだ…私に面白半分で迫るのは勘弁して欲しいけど。

「この車のスピーカー、音がいいね…美咲、まさか改造にお金をかけて金欠になったとかじゃないよね?」

「お姉さん、せっかくの旅行なのにお金の話は勘弁してください…それよりも海ですよ海、しかもこのあたりは人が少ないですし、豊かな自然を独占できる幸せを噛み締めましょうよ~」

 助手席に座っている結衣さんが指摘したように、このSUVに搭載されている音響システムは美咲さんの要望──実際に自腹も切ったらしい──によって強化されているらしく、高音の音割れやこもりがなく、低音は体を震わせるような迫力があって、現在流れているオーケストラの重厚さにマッチしていた。

 そんな音楽に加えてお出かけということもあってか、美咲さんは朝から上機嫌だ。夏の太陽を思わせるギラッとしたミラーのサングラスを着用していて、口元は軽やかに緩んでいる。

 そんな前方のやりとりが耳に入ったら私も心が弾みだして、ひとまず仕事のことは忘れて楽しもうと隣を見る。

「…本物の海、初めて見るわね…夏なのに人があんまり多くなくて、イメージと違う…」

 絵里花もまた窓の向こうに広がる海と青空のパノラマに目を奪われているようで、控えめながらも好奇心を覗かせて独りごちていた。

 絵里花は家事が好きなだけあって自分から頻繁に出かけたがるタイプではなく、今回のような遠出に関しては若干面倒くさがるのではないかと不安になっていたけれど、夏の太陽の光を反射した瞳は揺らめく水面のように輝いている。

 服装もホワイトのレースキャミソールに薄手のリネンカーディガンを組み合わせ、ライトブルーロングスカートのふんわりとした揺れ感が夏らしい爽やかさを演出しているリゾート風のスタイルで、美咲さんの「海が見られる素敵な場所ですよ~」という言葉に合わせたのは明白だ。

 ちなみに私は絵里花に見立ててもらったブルーの薄手ブラウスにホワイトのクロップドパンツを組み合わせた、フェミニンミックスというスタイルにしている。こういうお出かけでもないとまず着ない服装で、そういう似合わない格好を許容したあたり、私も内心ではしゃいでいるのだろう。

 足下はお互いホワイトのストラップサンダル、スポーツタイプなのでいざというときは走り回ることもできる…その走り回る理由が仕事ではなく遊びであることを願うばかりだ。

「…海、楽しみだね。思い出、たくさん作ろうよ」

「…ん」

 今回は美咲さんと結衣さんがいるとはいえ、この二人が私たちの邪魔をするわけがない。そして行き先には多分知り合いもいないわけで、それは待ち望んでいた『横槍がなく恋人たちを盛り上げて自然と前へ進めてくれる雰囲気』があるのだろう。

 その盛り上がりに対して、最近は『むっつり』になった私はあらぬ期待をし、快適温度を保つ車内であっても頬が火照りそうになるけれど。

 絵里花だってこれがきっかけで私を受け入れてくれるかもしれない、そんな希望的観測が現実になるように願って、絵里花の手の甲にちょんちょんと指を走らせてみた。久しぶりに触れてみた絵里花の肌は、夏だというのにさらさらとしていて心地いい。

 こういう控えめな接触なら許してくれるかな、そんな不安を取り除くように絵里花は私に向き直り、へにょっと顔から力を抜いて、座席に置かれた私の指を掴んでスリスリしてくれた。

 その震えてしまうほど心地よい感触にバカンスの始まりを予期して、私はもう一度心の中で美咲さんと結衣さん、そして早乙女さんに感謝を捧げていた。


 *


「…別荘、って」

「…美咲、本当にお嬢様だったのね…」

「あの、そんなに驚かなくても…私、そんなにそれっぽくないんですか…?」

「あはは、美咲は親しみやすいからね。私もここに来るのは初めてだけど、ちょっとびっくりはしてるよ?」

 美咲さんが「泊まる場所は任せてください。『声』を出しても大丈夫な場所ですからね」なんてコメントしづらい気遣いをしてくれていたから、結構高級な宿泊施設なのだろうかとは思っていた。

 けれど、案内されたのは『人が少ない海のそばにある別荘地』で、目の前にある建物は美咲さんの実家が所有する別荘だと思ったら、私と絵里花は唖然とするしかなかった。

 …いやまあ、美咲さんの普段の振る舞いから育ちの良さは感じ取っていたし、過去の雑談からお嬢様っぽいのかもしれないとは思っていたんだけど。

 お高く止まる様子は一切なく、さらには度重なる金欠状態もあってか、目の前の建物を見るまではいまいちお嬢様というステータスにイメージが直結していなかった。

 周囲を緑に囲まれた静かな敷地内に存在する建物は天然木材とコンクリートの組み合わせで構成され、温かみがありつつもモダンな印象があるロッジの様相を呈していた。そしてウッドデッキ使用のテラスにはハンモックやダイニングスペースがあり、緩やかな勾配のある屋根には天窓がついている。

 周囲の景色を楽しむために大きめの窓ガラスもそこかしこにあって、建物自体の大きさもあってか部屋数の多さを連想させた。つまりは典型的な『お金持ちの隠れ家的別荘』であり、それに気負わず入っていく美咲さんをぽかんと見送ることしかできなかった。

「お二人とも、気にせず入ってくださいまし。今日はまだ始まったばかりですからね、荷物を置いたら海へ行きますよ~」

「…あっ、はい。お邪魔します…」

「お邪魔します…うわ、中もすごいわね…」

 美咲さんに案内されて別荘に入ると、まずはリビングに通された。そして入った直後に絵里花は上を見上げて嘆息し、私は無言で頷く。

 天井が高く開放感のある吹き抜け仕様で、全員で座っても窮屈じゃなさそうな大型ソファとローテーブルが配置され、薪ストーブまでもが中央にある。大きな窓からは海を一望でき、天井に設置された間接照明は太陽を引き立てるような優しい光で部屋を照らしていた。

 ウォールシェルフには私たちが読まないような書籍やアンティーク調の装飾品があって、万が一こうした設置物を壊したら私たちが弁償できるのだろうか、そんな不安が真っ先に浮かぶあたり…私はまさしく『一般国民』なのだろう。

 対する上級国民が確定した美咲さんは「うふふ、今日の夕飯はお肉たっぷりのバーベキュー…塩パスタ生活で枯渇していたたんぱく質を補充しましょう…」なんて持ち込んだ食料をいそいそとしまっていた。うん、やっぱりいつもの美咲さんだ…。

「一休みしたら海に行くって言ってたけど、ここで着替えたほうがいいの? それとも向こうに脱衣所とかある?」

「んー…脱衣所はないですが、向こうでも余裕で着替えられると思いますよ」

「…岩場で着替えろっての? あんたはよくても私たちはよくないんだけど」

「私にもちゃんと恥じらいはありますよ? 心配しなくても絵里花さんの着替え姿は円佳さん以外には見られることがありませんので、向こうに行くまでのお楽しみですよ~うふふ」

「円佳にも見せつけないわよ!…あっ、いや、これは見せたくないとかじゃなくて、外ではいやってだけで…」

「あ、あはは…うん、わかってる」

 結衣さんの質問に対して美咲さんは意味深に回答を控え、向こうで着替えようと提案する。正直なところ、私は岩陰でもそこまで気にしない──もちろん私にも人並みには恥じらいがある──けど、恥ずかしがり屋な絵里花はじろっと懸念を指摘し、それについても美咲さんは明確な回答をしない。

 …本当に大丈夫だろうか。楽しげな美咲さんを疑っているわけじゃないけど、万が一絵里花の着替えがほかの人間に見られでもしたら、私は自分の着替えをほっぽり出してその人間の視界を奪いかねない。

 それで言ったらプールでの着替えについても思うところがありそうだけど、なんて言うんだろう…悪意を持って絵里花の肌を汚すような視線を向けられるのは我慢ならない、というべきか。

 絵里花は元々恥じらいが強いように、貞操観念については人一倍強いと思う。そんな彼女の肌は誰彼に見せるほど安いものではなくて、これまで鉄壁の守りを貫いていた。つまり、視線だけであっても彼女を汚すことは許されない。

 それこそ絵里花が言っていたように彼女の着替えを見てもいいのは私だけで、私だって見せるなら絵里花だけで…なんて思っていたらまた思考がいつもの状態になりそうだったから、憤慨する絵里花に苦笑いを浮かべつつ返事をしておく。

(…早く海に入りたい。そうすれば、ちょっとは頭が冷えるだろうし)

 人が海に入る理由、それにはいくつもの種類がある。そして多くの場合は娯楽が目的であり、今日の私たちもそれに分類されるだろう。

 だけど私の中に生まれた期待はそのどれでもない気がして、こんな気持ちで海に入ることが許されるのだろうかと、まるで神聖な儀式に臨む巫女のような心境になっていた。

 初めて入る海は、果たして夏の日差しに負けないくらいの冷たさを保っているのだろうか? これまでは勉強でしか触れてこなかった自然と向き合う瞬間を、なかなか消えない煩悩と一緒に想起していた。


 *


「…ここが、海」

「それも美咲の家が所有する、ね…はぁ、ここまで連れてこられたら、さすがに感心するしかないわ」

 荷物を整理した私たちは別荘から出て、その裏手に回る。その小道は舗装こそされていないものの、人が通ってきたと思わしき道筋ができあがっていて、木陰に包まれた音も気温も穏やかな空間を進む。

 そうして、程なく到着した海…そこはプライベートビーチ、これまた美咲さんの実家が所有するひっそりとしたサイズ感の海だった。

 一般的な海水浴場に比べると砂浜が広いわけではなく、むしろ岩が目立つ様子は入り江とも表現すべき環境だった。けれども四人で遊ぶには十分すぎる広さであるのも事実で、さらには左右にある切り立った崖のおかげか日差しも強烈ではなく、日よけの場所には事欠かない。

 無論個人が所有する土地だけあってほかの人間の姿はなく、なんなら岩場に隠れずとも堂々と着替えたって大丈夫だろう。

「うふふ、いいところでしょう? さながら秘密基地、私たちだけの入り江…ってところでしょうか? そういうテーマで一曲作るのもいいですね…」

「…ふふふ、美咲ってたまに粋なことをしてくれるよね。ね、二人もそう思…円佳ちゃん、どうしたの?」

 秘密基地。そう、ここはまさに秘密基地だった。

 美咲さんの実家の意向なのか、この周辺はセキュリティシステムも最小限で、私有地だからこそ人も来ない。

 それはまるで、私と絵里花が研究所から完全に離れられたようで。

「…絵里花っ!」

「きゃっ!? ちょっと、円佳!?」

 あの日見た人形劇の言葉が、私の頭の中へフラッシュバックする。


『もっときれいなものを見に行こう!』


 やっと、これた。たどり着けた。絵里花と、二人で。

 そう思ったら私の体はスリングショットのように緊張から解き放たれて、絵里花の手をぎゅっと掴み、弾丸のような勢いで駆けていた。

 目指すは、目の前のきれいな場所…海。普段の担当エリアでは見ることが叶わない、自然が生み出した奇跡の一つ。

 それはすべての生命が生まれた場所とも言われているように、さざ波の音と潮風の香りが私に懐かしさを想起させる。もちろん実際は初めて来た場所であり、もしかしたらこれが最初で最後かもしれないけれど。

 私は絵里花とここまで来られた達成感に身を任せ、二人揃って波打ち際に足を突っ込んだ。

「あははっ、これが海! 冷たくて気持ちいいね!」

「ま、円佳、どうしたの急に!…って、冷たっ!? 夏なのに、海ってこんなに冷たかったの!?」

「ここは日陰も多いですから、それで冷たく感じやすいのかもしれませんね…お二人とも、はしゃぐのもいいですが、服がびしょ濡れになる前に水着へ着替えたほうがいいですよ~」

「ふふ、今の二人はそれどころじゃなさそうだよ? にしても…二人とも、本当によかったね」

 絵里花と手をつないだまま、私は未知の水温の中でバチャバチャと足踏みを繰り返す。そのたびに飛沫が私と絵里花を包むように広がって、より一層潮の香りが強くなり、それが太陽の光を浴びて輝く様子は星の海でダンスしているみたいだった。

 最初は冷たがるばかりの絵里花だったけど、やがてその温度にもなれたのか、もう片方の手も私の空いた手を握り、笑顔になって踊るようにステップを踏み始める。

 その様子に感じるのは、まさしく夏だった。

 絵里花の友達を撃ったときも、そこから立ち直ったときも、ずっと私は夏を感じていたけれど。

 達成感と躍動感に身を任せ、服が濡れても気にもとめず、見守ってくれる人たちの声にすら返事ができずに舞い踊るのは…どうしようもないほど、夏だった。

 何度目かわからない夏の到来を噛み締めてみたらそれはとてもしょっぱくて、同時に暑さを中和するような生暖かさを伴っていた。

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